昭和維新、原発、三木清
- 2015年 6月 23日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
私が参加する万葉集勉強会のある会員から御尊父の三著書をいただいた。
①中村武彦著『維新は幻か わが残夢猶迷録』(いれぶん出版、平成6年)
② 〃 『私の昭和史 戦争と国家革新運動の回想』(展転社、平成17年)
③ 〃 『古事記夜話』(たちばな出版、平成13年)
中村武彦は、大正元年(1912年)生まれ。神兵隊事件(昭和8年)、同志殺害事件(昭和13年)、平沼騏一郎暗殺未遂事件(昭和16年)に関する実刑9年、昭和20年(1945年)8月4日、中野刑務所に収監される。
私は、第一次大戦・ロシア革命以降の時代をイデオロギー党支配の時代と見る。出現順序に即せば、コミュニズム党→ファシズム・ナチズム党→アメリカニズム党。崩落順序で言えば、ファシズム・ナチズム党→コミュニズム党→アメリカニズム党。
ファシズム・ナチズム党を略して、ナチス党。コミュニズム党を、略して共産党。アメリカニズム党を略して、アメリカ党と呼ぶ。ナチス党は、人種・民族の観念に立脚して、ドイツを本拠地として世界を我が物にしようとして敗北した。共産党は、労働・階級の観念に立脚して、ロシアを本拠地として世界を我が物にしようとして敗北した。アメリカ党は、市民・個人の観念に立脚して、アメリカを本拠地として現在も世界を我が物にしようとして奮闘中である。「八紘一宇」は、三種のイデオロギーの共通性である。
中村翁の思想③と運動①、②は、ファシズム・ナチズムに並進する日本主義的国家革新運動であって、世界を我が物にしようとする試み=「八紘一宇」であった。但し、「一宇」にこめられた主観的暖かさの淵源を『古事記』にさぐる③の心情は、私にも伝わる。しかしながら、イタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムがイタリア人やドイツ人の外の諸民族、すなわち「八紘」の心をある程度とらえたほどの求心性を有していない。中村翁が巣鴨の独房で精読して、「もう此のまま死んでも悔はないという感激を味わった」(②p.120)三国同盟の詔書にある「万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業・・・」(①p.147)だけでは、漠然的すぎて日本民族以外の「八紘」の諸民族の心にとどかなかった。
話題は変わるが、現在日本国の大問題の一つに原子力発電所爆発がある。あの大事故は、部落文明研究家の川元祥二が発見した新しき邪神、「半減期」と言う神々を産み出した。まさしく、『古事記』に言う「八十禍津日神」、「大禍津日神」そのものであろう。しかも、「その禍を直さむとして成れる神」、すなわち「神直毘神」と「大直毘神」(『古事記』岩波文庫、pp.29-30)は、神代ならざる今津代に産まれ出ていない。日本の山海河川草木田畑と老幼男女は、汚されたままである。除染は移染にすぎない。中村翁は、「『本是レ神州清潔ノ民』の自覚を取り戻し、諸々の煩悩を振り払って清潔の本体に帰らなければならぬ。」(③p.47)と説く。ここで言う「煩悩」の一つが原発であるはずだ。しかも、③は、平成13年8月に出版されていた。十年後の平成23年3月11日を見る前だ。それ故、「神州清潔の民」系の運動家達が経産省前反原発テントを打ち建てるのが本来であり、自然であったろう。しかるに、現実はそれらしきグループがテントをこわしに時々来ると言う。
中村翁も私もアメリカ党に敗北した側にある。そして、多くの敗北者達のように、アメリカ党右派やアメリカ党左派に組み込まれる、あるいは溶け込まれる事を求めない極少数者の常民である。すなわち、アメリカ党の領導する市民社会に属していない。そのような私達に接触する所のある一文が中村翁の①(pp.262-266)と②(p.195)にある。以下に①より引用紹介する。中野刑務所における中村翁による共産党幹部体験である。ことは哲学者三木清の獄死にかかわる。私=岩田は、中学と高校の時代に共産党指導下の民主青年団(後の民主青年同盟ではない)で活動した事はあるが、大学時代に日本共産党にも日本社会党にも新左翼諸党派にも加盟した事はない。完全に独立社会主義者であったし、今もそうである。中村翁が指摘した事実は、共産党幹部だけでなく、広くソーシャリズムの倫理性に関わってくるので、私も深く受け止める。それ故に引用紹介する。
降伏の十日前、中野刑務所に収容された時、同じ一階に三木清や中西功がおり、二階には神山茂夫がいて、時々顔を合わせて睨みあった。哲学者三木のことは後で述べる。共産党の中西には興味がなかったが、神山については同じ山口県人という親近感と、その非転向を貫いた闘志に対する若干の敬意はあった。
神山と風呂で一緒になることが何回もあった。私と違って丸々と太って脂ぎっていた。私も特別の待遇を受けていくらかゆっくり入浴できたが、神山の特権は桁はずれで、時間の制限は全くない。傍若無人に洗い場の真ん中に湯桶を幾つも並べて陣取り、悠々と湯に出たり入ったりしていた。
それはよいが、そのそばに、共犯ではなくとも同じ治安維持法関係だから当然同志と呼ぶべき者が、規定通り看守の号令で、碌々身体を洗わぬうちに追い出されてゆく光景を見ながら全く気にもとめない。一声かけてやれば多少ゆっくりできるものを、自分一人が殿様気分で威張っているだけの、思いやりのなさ、利己独善ぶりには呆れる外なかった。
しかし、彼が看守を相手に「どうだ、俺が何年も前から言った通りぴったりの敗戦だ。これから日本人民を解放するのは俺たちだ。人民革命は近いぞ、見とれ、これからは共産党の世の中だぞ」などと豪語するのを聞くと、お前さんは敵ながらあっぱれだよと、我が敗北を認めざるを得なかった。
その神山が十月十日、アメリカ軍の手で解放され、傲然と英雄気取りで出て行った。中西功もいなくなった。ひとり三木清は、その前、九月二十六日に寂しく死んでいった。
(中略)
中野刑務所におけるいろいろな思い出の中で、特にどうしても書いておかなければならぬと思うのは、哲学者三木清のことである。
八月十五日を過ぎて大分経ってからのことであるが、廊下を隔てた左斜めの向いの監房の方から流れて来る異様な臭気がきになっていた。我慢していたが、その異臭はますますひどくなる。雑役に訊くと、あれは全身疥癬で栄養失調になり、ほとんど意識を失って死にかかっている男の体臭と汚物の匂いだという。
痒いので寝台から転げ落ち、転げ回り、垂れ流しで手のつけようもない、どうせまた転げ落ちるのだから、落ちたままにしているのだという。その内、悪臭は堪えがたいほどにひどくなって、数日前に、とうとう死んでしまったということで、屍体は運び去られ、あとは消毒薬をぶち撒かれてようやく悪臭は消えた。
ひどいなァ、一体どういう人間だったのかと看守に訊いてみると、三木清という左翼の学者で、引き取り人がないため外へ出すことができず、あんなことになったのだという。何と、私もその「哲学ノート」を読んだこともある、あの三木清のこれが最期だったのである。悪臭を嗅ぐだけで、顔を見たこともなく、うめき声も聞かなかったけれども、赤の他人とはとても思えず、合掌せずにおれなかった。
もう戦争も終わったし、治安維持法廃止も近い、もともと、とるに足りぬ微罪である。検事も刑務所もここで死なれては困るから釈放の用意をしていたらしい。しかし、三木氏の家族や門下生や同志はどうしていたのか。こんなにひどい状態になっているのに、引き取るどころか、見舞いも差し入れもなく、九月の末まで放っておかれたのである。引き取ってちゃんとした治療をすれば治ったであろうに、何という酷薄無情な連中だろう。
それからしばらくすると、獄中にいても分かるほど、三木清の名が有名になり、著書が再刊されたり、いろいろな追憶や礼讃の催しがあり、はては神格化されて行ったが、それはよいとして、三木は獄中で惨殺されたの、その日本帝国主義の罪は許せぬのと息まく同志、門下生も現われたという。その様子を見ていると無性に腹が立った。
先生を見殺しにしたお前たちが今更何を言うか。貴様たちこそ先生を惨死させた犯人でありながら反省もせぬ無慙愧な奴、これを畜生というのだ。畜生にも劣る下種下郎どもが日本の革命をやろうと言うのか。これが唯物主義者の正体であるのか。
この時、神山茂夫も中西功もすぐ近くの監房にいて、革命は近いぞと豪語していたのだから、共産主義者を庇護したばかりにひどい目にあっている哲学者に何らかの助け舟を出すことは容易にできた。しかし、彼らは平然と知らぬ顔をして見殺しにした。
もっとも、この三木清獄死の事実がGHQで問題となったために、全政治犯の釈放や、特高追放、弾圧法規廃止の指令を促したというから、その傷ましい最期もむだではなかったわけである。
(引用終わり)
今日の常識で判断すれば、刑務所当局は、重体の三木清を病院の付置されている別の刑務所に移送し、治療するべきだった。当局はそれを行っていない。中村翁はこの事実を批判していない。その後、中村翁自身小菅刑務所に押送され、「中野ではできなかった瘭疽の手術を直ちに受けられるという幸運を得た」(①p.261)にもかかわらず、当局が三木清を重体のまま放置しておいた事の是非を問うていない。コミュニストが同志を放置していた事を突くだけだった。
もっとも、現在においても、西欧民主主義のハーグの拘置所でも同じであって、戦犯容疑者として収容されていたセルビア大統領ミロシェヴィチは、心臓に病をかかえており、信頼できるモスクワの病院に短期入院して治療を受けたいとハーグ国際法廷当局に嘆願していたが、却下され、そのまま獄中で心臓発作で一人死亡した。さて中村翁の見聞記が事実であれば、中村翁のコミュニスト批判は、当局云々とは無関係に正しい。三木清の研究者に彼の獄中死にかかわる諸事実を究明していただきたい。
平成27年6月22日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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