「テロ政局」の到来を予期し、「主権奪還政局」を準備せよ
- 2010年 12月 28日
- 評論・紹介・意見
- テロ政局海の大人
1、テロへの注意を喚起する
民主党の小沢元代表への攻撃は、とうとう、本日、民主党役員会での「年明け国会への小沢氏の喚問決定」へと至ってしまった。表の政局を見ている限り、此れは、民主党分裂覚悟の「菅首相の金権政治一掃への乾坤勝負手」である。しかし、そんな綺麗事の菅首相の側の政治的攻勢でない事は、「ちきゅう座」読者の方は承知の事だろう。
充分な準備期間があって、鳩山首相の「普天間国外・県外移設」の挫折を受けて、後継体制を組んだはずの菅首相は現在に至るも政策の中心環を設定しえず、何をしたいのか、国民に明らかに出来ない有様だ。様々な困難の中でその日暮らしの、一貫性のない政策を承認し、国民の諦めをのみ育てているかに見える。
こんな時に一番気を付けなければ為らないのが、「テロ衝動」への注意だ。事態に閉塞感が窺われ、「万人に天誅の対象」が明確であり、天誅への共感が予測される時こそ要注意だ。既に小沢氏周辺は公権力であるかどうか不明の勢力に24時間監視されている、と伝わってきている。まして、今の小沢氏は国家権力カルテルの複数の構成要素と争っている国家権力の一構成要素だ。
何を持って、小沢氏の正当性を承認するのか、「争わせてはならない」と考える諸君が出てきて可笑しくはないのだ。小沢氏に、裁判で正当・合法的な政治活動だ、と主張させては為らない、まして、裁判で無罪判決などを出させては為らない、と考える諸君は菅首相以下、少なくはない筈なのだ。
60年安保闘争の時代から50年、浅沼暗殺、岸首相刺傷事件、三無事件から久しく時は流れた。その後、広島で佐藤首相が叩かれ、三木首相が愛国党書記長に叩かれ、児玉誉士夫邸がセスナに突っ込まれ、豊田商事の豊田会長が自宅で刺殺されるなどと謂う事件は続いたが、そして、「中川一郎」怪死、本島長崎市長銃撃事件、「新井将敬」怪死、「石井紘基」暗殺、「中川昭一」怪死、伊藤長崎市長射殺事件などテロ行為であろうと窺わせる事件は絶えることなく続いてきたが、「恐怖で時代の空気を換える」事件は無かった。
しかし、今回は雰囲気が違う、匂いが違うと謂うことは承知しておくべきなのだ。
2、テロで政局は大転換する
現在、院外に大きな政治運動は存在しない。議会政治に対する、革命運動が確固とした対抗勢力としては存在していない。他方、議会政治もまた、社会の要請に応えるような政治を何一つ実現しえていない。革命運動を恐れて、70年安保を「自動延長」でやり過ごした権力は、不安定な安保の敵を「極左暴力取締本部」の取り締まり対象として、90年代まで徹底して潰し、その事だけを系統的政策として遂行し、そのことだけを実現した事によって、70年安保世代=団塊の世代を潰してしまったのだ。
団塊の世代が、「モーレツ社員世代」だなどと謂う戯言は、団塊の世代こそが最もよく否定する。戦後体制の破壊を最もよく追及した者こそ団塊の世代ではないか。戦後民主主義を否定したのは、団塊の世代のイデオロギー的体質だ。アカデミズムに敬意を払う事ができないのが血肉だ。そうした諸君こそが、世代のリーダーだったのだろう。そうした世代のリーダーを、「極左暴力取締本部」体制の下ですべて失って、権力の犬たちとともに、変動相場制の時代を生き抜いてきたのが団塊の世代の2軍以下の諸君だ。
体制に入ったのも体制に拗ねているのも、世代交代を進めてきた他国に勝つには心もとない諸君なのは当たり前だ。「70年7・7自己批判」で世界革命の前衛であり続ける事を自己批判してしまったのだから。団塊の世代が世代として潰れる事で、後に続く世代もまた深刻な影響をこうむった。「親として無方向」、「社会人としてアパシー」、「経済人としてのみ自由人」な最大世代を見ながら、人口圧力の下で圧迫され続けたのだ。「ジャパンアズナンバーワン」は「世界革命の前衛」たらんとする団塊の世代潰しとともに権力とそのお番犬様が、そっと捨てた物だ。
そんな今の日本で、「小沢テロ」が起きればどうなるのか。「軽傷」ならまだしも、「暗殺」や「再起不能」と謂う事態に為れば、名状しがたい混乱が起きるだろう。「日本国民の間に修復しがたい相互不信を植え付ける」だろう。戦後民主制、と謂う国体については、私は批判し続けてきたが、それでも国民統合の基盤であった事は承認する。それが崩れかねないのだ。
小沢テロと謂う事態は、日本国民の利益には為らない。日本国民以外の利益に結びつく。そして、当然の事だが「安保」、「日米・日中」、「産業政策」、「官僚統制」を厳しく拘束するだろう。国民不在の中での「国体の変革」と謂う流れが出てきかねないのだ。
3、「主権奪還政局」を準備すべきだ
今年の参議院議員選挙に対する、「選挙権の不平等」に対する「違憲・合法判決」が続く事態を受けて、西岡参議院議長が12月22日、「参議院選挙改革案」を明らかにしたが、その中身に対する評価は別として、こうした選挙制度の改革案の提起こそ不可避であるところの「政界再編成」の本筋の課題だとして見詰めなければ為らない。
政治主張を同じくすると称する「政党」と「政党」の合従連衡や、「新党立ち上げ」は本質的な問題であるはずが無い。被選挙人のことをつべこべ考えるのではなく選挙権者のことこそが本筋だ。主権的権利としての公務員の「選任」と「罷免」の権利こそが充実されなければ為らない事であるし、その権利の主権者間の平等が、選挙と謂う「代議制民主主義の正当性」の担保だろう。
実は公務員の選任・罷免権は議員や地方自治体の首長にだけ適用される物ではない。しかし、それについては憲法と法律(国家公務員法(裁判官含む)、地方公務員法、国会職員法、裁判所法など)の乖離があまりにも大き過ぎる。主権者の公務員選任・罷免権は整備されて居なさ過ぎるとさえ思えるのだが、此れの整備をきちんとしていく事こそ、「主権の確立」につながるだろう。
裁判官や検事が任期制だという事を知っている人間がどれほど居るかも疑問だが、その罷免方法について知っている人間は極端に少ないだろう。裁判を受ける権利が憲法的に保障されていると謂うことは、「裁き手である裁判官・検事を忌避する事に留まることなく罷免する事と一体で無ければ主権者足り得ない」事なのだという事が問題意識として主題に上った文章を、私は読んだ事がない。真剣な、死刑と謂うような裁きであれば主権者である以上、それくらい(全体の奉仕者の馘首)、当然過ぎることだろう。
そうした、公務員の選任・罷免権の中心が立法府である国会議員の選挙制度である事は自明の事だ。法律を作る公務員を選ぶ制度を、「公平」、「平等」な物として作るのは国体の確立の核心だ。そのように考えた場合、全体の奉仕者たる公務員の選任に当って、私党的結社である「政党の選任を行わざるを得ない比例代表制が違憲」の疑いの濃い制度である事は明らかであろう。「私を公務員にして欲しい」と謂う選挙で、「綱領、規約、組織体制があって、それは選挙されないが、その一員は選んでくれ」「比例代表とはそういうものだから」で済む物なのか。
また、反対に、あらかじめ選挙制度で一選挙区からは一名しか代表公務員は送れません、として「死票をたくさん出す」制度と謂うものも、「代議制民主主義の精神」と調和する物なのかどうか。小選挙区制度と謂うのは、選挙区は人口移動の影響を受けて変化せざるを得ないし、主権者の公務員選任の幅が狭くならざるを得ないと謂う欠点を避けられない。奨められる制度ではない。
こうした事をこそ論争し、国民主権の内実をイメージさせる政局こそ作らなければ為らないのだ。「政党政治の政局論」では大局は見出しえない。「国家財政」、「税制改革」、「成長戦略」、「年金・福祉制度の再確立」、「官僚制度に対する政治主導の確立」などと謂うのは、今言われているだけの戦略的課題に過ぎない。「国民国家体制は後どれ位続くのか」、「家族の再確立にはどのような道があるのか」、「土地所有権の再調整は相続制度とどの様に絡めるべきか」、「法人制度と自然人の関係調整はどの様になされるべきか」、「交易国家システムを続けるのかどうか」など、次にはいくらでも出てくる。そのとき対応するのは主権者国民が、論争をして一歩一歩妥協しながら、公務員と協調しながら、時に自ら公務員になって、構想を物質化していくより他はないのだ。そのために必要な政局は、「選挙制度・公務員制度再確立のための『主権奪還政局』なのだ」、と謂うべきではなかろうか。
小沢テロは避けるべきだろうが、避けられないかも知れない。しかし、そこで終わらせては為らないのだ。大混乱も覚悟して、国民主権国家を作る事に腹を定めるべきだ。リアルに小沢テロを心配しつつ、こちらの思いを急ぎ伝えておきたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0270:101228〕
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