人間解放の実践論理学(中編)(1)昭和史観と大衆運動の視覚化、物語・文学・詩(2)ヘイト狩り(ヘイトから田中優子先生を守ろう!)
- 2015年 7月 23日
- 交流の広場
- 武田明
*ご要望の的場昭弘先生のレジメは先生ご自身のご意向で削除いたしました。ご了承ください。(編集部)
「あしたのマルクス」ライブ報告(後編)を予定していましたが、その前に、この中編を挟みます。
理解がなだらかに自然なものとなると良いのですが。
序説 遊戯無責任史観から労働価値説の質と量の再定義についての変移
これまで語ってきたものは、❶無責任政治批判(新国立競技場問題など~昨日、22日報道ステーション舛添要一ゲストによる問題点の浮彫演出は素晴らしかった!)❷アソシエの終焉、天木直人氏についてはそれ程知らないのだけれども、一人一党派の個人主義自由主義の終焉から、共同体共同主観性、「事的世界観」としての私有財産を越え出たる0円共有たる教育、特に、医療教育の解放と知的共有財産、人類財産の共有確定、反TPPの拠点としてのちきゅう座の明確論議化❸カムイ伝第三部構想の継続。これは、白土三平(83歳)氏が具体的に、創造的に、昭和史観の中から、抽出体系化を推し進めているものの助支援するサンデーモーニング主要ゲスト田中優子法政大学総長(江戸学)から、手塚治虫、梶原一騎、漫画、劇、創始期の大衆運動の断絶化ではない、昭和史観、平成史観の関連付けへと進む、まさに、助支援を明確にしていく事、《小学館革命》《大衆前衛文化運動・文学と映画復興革命》資本論あんちょこ的カムイ伝の日本思想的意義の確定性と永続性の具体的言及支援の展開。❹オールジャパン「平和と共生」的政党政治改革。(先日のサンデーモーニングにて、姜尚中氏は、政党とは何か?現代の「君主」=「王朝」ではないのか?政治学的に考え直していかねばならないと言及していた)❺技術者立国としての具体的社会主義ヴィジョンとしての資本主義の終焉の構図
序説2 遊戯無責任政治から労働価値説政治へ
姜尚中氏は、更に、「政党についての憲法規定の不備」について言及していた。無責任政治たるブルジョワ法制そのものを労働者=技術者法制としての明記化、脱皮改革の法哲学体系への戦いの最初の狼煙として。
2012年6月のホセ・ムヒカ大統領のスピーチについて植草一秀先生は、報告しています。(21日更新ブログ)
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-d103.html
「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。」
「石器時代に戻れとは言っていません。
マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
私の謙虚な考え方では、これは《政治問題》です。」
(この政治的問題とするのが、ピケティ氏等の分配の問題、税制の問題であるのだと思うのですが、山本太郎氏が、今の政治など茶番ですと述べている様に、政治は、一強多弱の独占資本政党、官僚=階級政治であり、盗人に金庫番をさせている状況に対しては、理想税制、分配理念ではなく、具体的、政治改革案としての民主化、大衆化は何によって進められるのかの問題であると言う事です)
このホセ・ムヒカ大統領の論理は、面白い注目に値するものに感じます。
かつて、中国が、先進国となり中流化したならどうなるのか?この問いが、20世紀からあったのであり、ソビエト、中国を兵糧攻めとしていた資本主義国の技術秘匿性、企業秘密性または、囲い込みとしてのエリート救済の箱舟、少数者救済こそが、ちきゅう的階級化、格差化としての政策であり、資本主義とは、ナロードニキ、小乗仏教的、密教的になる事であり、ボルシェビキ、大乗仏教的全人類的救済基盤としての社会主義、共産主義たる供給は、「不可能性としての挑戦」としてあると言うのは、前提であると言う問題構制に最初に、答えていなければならなかったと言う事なのです。
だからこそ、挑戦する価値があるとも言えます。
マルクスが、「戦う事」を幸福感とした挑戦の精神、困難は、承知の上のちきゅう的挑戦そのものであり、人類解放と言う生きている意味、意義の明記に他ならないからです。
『共産主義批判の常識』において、絶対的飢え、物資不足、『聖書』失楽園の呪いであるからか、労働=苦役として、生命を維持しなくてはならない、アダムとイブの原初の様に、人間は、ただ神を称え、遊んでいるだけで良い。
林檎や果実は、自然に、与えられている。土地を耕す必要も狩りをする生態系の食物連鎖の中に、身を置くこともなかったのかも知れない。
古典経済学の労働価値説は、ブルジョワジー絶対王朝の神と遊戯階級としての東洋的にも例えるなら小乗仏教的アダムとイブへの夢を追うもの達への批判として開始されているのであり、全くもって全面的に正しい基盤であるのだ。
ただ、労働の幅の問題があり、定義基盤が、歴史的に多重化してきた事を明確にしなくてはならないだけである。
経済学=労働史観を前提とする限り、唯物史観としてのちきゅう史は、厳然として聖書と遊戯史観としてのブルジョワジーに対置し根底をなしている。
これは、いまだ、イデオロギーとしてのマルクス論の範疇であり、具体的なマルクス経済学としての体系化以前の問題意識に属している。
(1)昭和史観と大衆運動の視覚化、物語・文学・詩を追う、人間の成長と生涯と『人間臨終図巻』の関わり。
人間の一生は、短い。一人一党派たる「プライベート牢獄」を排し、一気に、資本主義の終焉から、社会主義期=技術者立国としての共同性論、共産主義社会の視覚的ヴィジョンへと体系的言及へと進みたいとしている訳であるのだが、具体的に既にあるものの継承から開始するもの=唯物史観=前人の労働を継承する意味で、近視眼的には、カムイ伝第三部の創造問題から、更に、マルクス『資本論』体系とピケティ『21世紀の資本』を問う、再体系化としての再体系化の定礎へと駒を進めるのが、現行の目的であり、理念としての明確化となっている。
タイムリミットが設定されている。それは、マルクス生誕祭出版としての『ちきゅう座読本』テキストがそれであり、2015年、2016年、2017年と3か年計画としての実践設計図が必要であり、情報の整備が必要であり、大衆運動の継続としての『カムイ伝』の作品的重要性から、『資本論』体系の現代化、21世紀的現在進行形〔逆ピラミッド事業〕としての共同性、『事』『事的世界観』としての転換を明確にする「群像哲学」を宣言する。
ゴミ屋敷資本主義文学賞に憤りを。
文芸春秋ではない、ちきゅう座文学賞、そして、教育改革としてのテキストを鍛えていく事。
インテリの遊戯、左翼の未熟さを乗り越える目的意識としての再『精神現象学』『法哲学』『大論理学=質と量』の再体系化を一人=アソシエではない、共同作業として、タイムリミット内にこなす事である。
マルクス=エンゲルス、サルトル=ボーボワール=大江健三郎、ドゥルーズ=ガタリ、ネグリ=ハートを越えて、マルクス学徒、経済学研究としての共同基盤として、ちきゅう座を学校へと作り変え、作業から労働へ。『目に見える経済学』としての模範をここに示していくだけで、かなりのものが、到達されてしまうのである。
既に、『マルクスの最前線』についても言及しているが、もはや、新、新、新、新左翼、として、商品的付け加えとしての資本主義ゴミ商品の手法を取らない。
資本論入門や概説と言う、または、ピケティ入門などの方法論、多重化ゴミ商法たる逆流資本主義的ブルジョワ性商品を排する。
だが、烏合の衆たる未熟左翼から創造的柱たる白土三平氏の創造性に倣いながら、『創造と弁証法』としてのゴミ屋敷低俗支配たる脱資本主義としてのテキスト化とは如何にして可能かの問題を問う事と、作業と労働、仕事を欲している人々へ仕事を。
ちきゅう座正社員的展開として、資本主義使い捨て労働に対して、対置していけるのか?
第2ちきゅう座として、オールジャパン「平和と共生」としての「政党革命」「大衆運動革命」「政治参加革命」を明確にしていく事が目的となっている。
他者を自身のエゴ、私有財産、荘園主義、コロンブス主義の為に利用しない人類解放の事業として、「具体的に何をすべきか」「作業から労働へ」これを明確にする事であるのだ。
まだ、この段階では、『資本論』も宇野経済学=マルクス経済学の独立体系の基礎にまで、言及に至ってはいない。
この『日本のマルクス学最前線』としては、
的場昭弘先生、柄谷行人氏は、『人間臨終図巻』にもまだ到達していない生き証人(笑)、
『同時代地平の最前線』でありながら、資本主義的策略、術中にはまっている「プラーベート牢獄」としての袋小路に苦闘している最後のアソシエ=一人一党派、水木しげる的に表現するなら個人の死後の名声まで墓場まで名声を持ち帰りたいとあがいている『大海獣』を心的に払いのけずにいると言う資本主義病から抜け出せないでもいるわけであると僕は、分析する。
老いると頑固にもなるが、本来の目的である共同体とは何か?社会的公共性とは何かの問題をまさに、この段階で、『実践』する事であり、
それは、「一人で、本を出すことをやめる事」であり、「対話本」の形態も捨てて、実を取る本、『資本論』『アンチオディプス』『千のプラトー』『〈帝国〉』を、日本的カムイ伝=資本論の次元で、読者を巻き込む、新書を即座に出しながら、広げていく展開に踏み切る事である。
対話本は、如何にも怠惰な編集であり、頂けるものではない。
しかし、マルクス学徒大衆は、名を持っていないが、的場昭弘先生は、「マルクス学第一人者」であり、代名詞性を残念ながら、具体的昭和史観平成史観としての日本的「同時代地平の証人」としてのビッグネームが見いだせていないのが、日本の社会主義運動の不幸であり、また、柄谷行人氏、的場昭弘氏も私人として、「日本収容所群島=資本主義病理」から脱せない、共同体を実践できていないと言う足元の問題が厳然とあるわけである。
簡単なこの跳躍が何故、出来ずに来たのか?
マルクス学の後継者を育てる。若返りをなす事。
それは、『マルクス学共同宣言~日本マルクス学最前線』(新書)
著者:的場昭弘と平成マルクス学派連盟(仮称)
こういう本を2015年度後半に出しながら、2018年『ちきゅう座読本』テキスト先駆けとして、まず、構成していく。
そして、「平成マルクス学派連盟(仮称)」は、自身の関わった子供の様な本であるのだから、自身が、購入しつつ、周囲にも進めていくと言う事である。
この広がりそのものが、具体的な、大衆運動の広がりでもあり、カントの言う「目的と方法の一致」であるはずだ。
ツイキャス派などなど、肖像権破棄=山本太郎派に対して、まだまだ、「ちきゅう座」は、メディア不信派であり、カムイ=影派でもある。
マルクス学を支えようとする「幹部候補生」は、自身のペンネーム、または、本名を明記して、「平成マルクス学派連盟(仮称)」から独立していく道を的場昭弘先生に引いてもらう事、多重化していく可能性があろう。
それぞれの自立した思想が人間解放運動の中にあり、それによって、「安倍政治を許さない」低俗政治、ゴミ屋敷資本主義支配に対して、弁証法的真理の高み、真競争原理、真自由主義としての個人の立脚をする、
『ちきゅう座読本』(2018)の雛型的展開を確保する提案に他ならないわけである。
(2)ヘイト狩り
労働価値説については、更に、語りたいのだが、インターネット上に、点在している幼稚さ、稚拙さについて、言及しつつ、田中優子総長と江戸学=カムイ伝第三部展開の基盤を読者的に、確保していく事を、「サンデーモーニング」的広報と足並みをそろえていこうと言う提案である。
<uchitomi makoto>さん、<田中一郎>さん、いつも情報をありがとうございます。インテリ遊戯史観に戻らない、余談の内ちきゅう座左翼論陣を更に、われらも的場昭弘先生に続いて仲間を呼び込んでいきましょう!
(ちきゅう座事務局さま、的場昭弘先生のレジメ再掲載もお願いします。一愛読者としてお願いします。)
↓このヘイト動画は、酷すぎます。
ヘイトに嫌われているのは、大物である証でもあるのですがね。
https://www.youtube.com/watch?v=_vxIjTKWvkU
まともな動画も入れておきますね。
姜尚中・田中優子(音声のみ)
https://www.youtube.com/watch?v=5M21kEAx7F0
付録:今回の関連資料。
更なるヘイト狩り
http://revolutio.exblog.jp/21968165/
時事史観
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