地球の悲劇・戦争・貧困・ヘイト(偏重)・人の悲劇(後編)(1)日本マルクス最前線(創造性と唯物史観について)(2)ちきゅう座対外性とインターネット
- 2015年 7月 26日
- 交流の広場
- 武田明
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
「一口にいうと、鶴見は抽象語を追って時代をおしはかるというのはあてにならないことが身に染みた。たとえば、大学ではマルクスの『資本論』を暗記するまで覚え込んで、資本主義の没落の必然性を信じて行動した人間や、かつて平和論を称えた学者が、今度は一夜にして国体は世界に冠たるものと吹聴し、鬼畜米英や一億火の玉などと称えて転向する。このような転向の経過からみると、むしろ、普通の大衆の方が、嘘がより少ないようにみえた。」
(上海バンスキング平田満の演じた役柄が想起される。後方付録資料参照)
序 戦争から公害訴訟、そして貧困構造と知性の着地点について。ヘイト(偏重)日本に如何に立ち向かえるのか?
「ヒゲの隊長教えてあげるあかりちゃん」(付録資料参照)は、ユーモラスでいて知的、そして、パロディとは思われないぐうの音も出ない微笑ましい切り替えし。
川崎哲氏VS青山繁晴、朝まで生テレビ広島からの中継があり、僕としては、川崎氏の生真面目さが伝わる集団的自衛権の危うさを語るあり方は、良かったと思う。論理や知性、正論としての展開が、到達されないいい加減さ、論点ずらしによってすり替えられる世論操作性こそが、ヘイト(感情論的憎悪=偏重)支配であることを嫌と言うほど、この番組からも感じられていたのではないだろうか?
杉原こうじ(緑の党・脱原発当) @kojiskojis
21時間21時間前
川崎哲さんが日本が保有する大量のプルトニウムの危険性を指摘すると、青山繁晴さんが話を遮って大騒ぎ。日本のプルトニウムへの国際的な懸念の声は厳然たる事実。川崎さんが核燃料サイクルを止めるべきと当然の指摘をしたのに、田原さんは議論を中断してしまった。
<杉原浩司>氏もツイッターにて上記の様に述べているのだが、また、プロトニウムの問題は、集団的自衛権=安保法制問題の副次的位置づけで語れているものであり、論点ずらし的揚げ足的指摘によって、青山信者たる不真面目なヘイト、ヘイト的野性の書き込みが、多数派国民として埋め尽くされている状況の危機、「戦争の本質」「資本主義の本質」について迫らせないいい加減な無責任な書き込みに朝まで生テレビツイッターさえ埋め尽くされている危機は、まさに、心の危機であり、教育的環境の危機として、日本が、今だ前近代的でもあり、形式多数決だけの民主制であり、憲法にも法の支配としての実にも到達されていない<形式主義><官僚主義><機械主義>的弊害からまさに、<心的疎外>として、安保法制反対デモも埒外に置かれている危機の現出としてあることをあらゆる意味で打開していかねばならない。
それが、戦争法制、ヘイト国民支配としての現状である事を知るばかりのインターネット現状でもあるのだ。
(付録資料参照)
戦争の悲劇を広島から訴える朝まで生テレビの中で、何故、それでも誠実な知性、教養や友愛としての共同性、対話、人間愛や説明責任として国民へ向かえず、独善的であり続ける、支配的エゴ=強欲資本主義の下僕であり続ける不誠実詭弁家としていられるのか?
そのあり方は、「報道特集」ツイッター、池上彰緊急戦争を考える2時間スペシャル、その日の良質報道へのヘイト的奴隷的無責任は溢れ続けている現状に対して、その根本を問いたださねばならない危機を感じていた。
そして、来週からの参議院安保法制闘争がある。長期戦に突入している。
(1)日本マルクス=資本主義分析最前線。「あしたのマルクス」ライブ革命の継続。
更に、マルクスにまで戻れない。国民には、そのゆとりはない。そのゆとりをどこで手に入れられるのかが問題であるのだ。
ヘイト、差別、いじめ、被害者が加害者になりたがりもがいているのが、ヘイト的『自発的従属論』的世界である事が、繰り返し指摘されてきてるのであり、これは、社会学や経済学の対象であると言うよりもまずは、心理学的であり、精神分析的問題構制になっている事、病理=ヘイト=暴力としてあるのが、更に、痛々しい悲劇となっているのだが、この診療医療的問題をここでは語るには、余りある。
報道ステーション(金曜日)にて、堤美果「沈みゆく大国アメリカ」「沈みゆく大国 アメリカ<逃げ切れ!日本の医療>」TPP問題を取り上げていた。
ゲスト連続性として水野和夫、里山資本主義著者から養老孟司氏かなり贅沢な流れで見逃さない展開となっているのですが、まさに、チャップリンの「モダンタイムス」的幸福論の模索として考察されるものを感じているので、いずれ、主題化体系化して語りたい問題構制であろう。
『資本主義病理論』
『資本主義対抗幸福論人間論』である。
だが、今は、「あしたのマルクス」ライブ報告に徹していこう。
赤字にて、即座に、ちきゅう座(編集部)からお答えを頂けると思いませんでしたので、嬉しく感じていました。
自ら削除依頼を出されたと言う事なのですが、僕としては、的場昭弘先生の迷いを感じていましたし、吉本隆明氏、そして、伊藤誠先生をも悩まさていたであろう「大量消費時代」としての「高度成長」時代の幻想こそが、ソビエトの瓦解以上に、資本主義に対置する幸福論人間論的転換たる社会主義論研究の足元を揺るがしている状況が続いているのを感じていたわけです。
貴重なライブとしての時間を「やっつけ仕事」としたくはない。
それは、誰もが同じ気持ちでありながら、やはり、白土三平氏の第二部にも同じ、悩みを感じていたのだ。
全体小説、群像文学としては、それぞれの階級、身分のものが、一同に会して、会話する、武士の竜之進、百姓の正助、非人のカムイが、一揆に行き詰まり、直接対話するのは、理想論的展開でもあり、唯物史観的ではなかった批判があり、その様な会合として印象されていたなと思えていただろう。
的場昭弘先生としては、太宰治『晩年』の冒頭ではないが、アソシエ時代より、2015年度の展開として、「撰(えら)ばれてあることの恍惚こうこつと不安と二つわれにあり」の心境であったのではなかろうかと感じていたのだ。
「後期資本主義」の分析は、プレート説的展開であったように感じていた。
これこそが、吉本隆明、そして、カムイ伝第二部の苦悩、左翼の後退としての「大量消費時代」「ミイラ取りがミイラとなる」目的の喪失としての展開であり、「ヘーゲル、スミスではない、グローバリズムとしての展開、近代の枠組みではない、資本論の枠組みではない」「ピケティと後期資本主義」経済学分析の弁証法的統合としての、逆説としての方法論の喪失としての限界性の内的苦悩の共有としてあったのではないかと感じているのだ。
しかし、それは、原理論=哲学の喪失であり、唯物史観、実践=永続革命史観としての具体性、わかり易さの喪失としての暗礁が同じ時代病=資本主義病の超克として、大衆への提示に到達出来ていなかった苦悩が、そのまま、レジメにもライブにもあったと言うわけであるのだ。
伊藤誠先生は、資本論テキスト宇野経済学テキストに忠実なる補完を試みていこうと誠実さを感じるものの、「学」から抜け出せず、社会主義的運動の担い手、大衆への説明責任未満である教条性が、ライブの狭い大学の教室からも抜け出せない苦闘が、それぞれにあったのだ。
「ネグリブームがあり、ピケティブーム」(資本主義病理分析の語り変え)があったと述べる的場昭弘先生の「マルクス学」の理想は、池上彰氏的歴史学経済学をわかりやすく大衆へと社会主義的担い手へと伝える土壌を作りたいこととする苦心であると僕は、感じてきていたので、学生から労働者へと、せめて、労働組合幹部位にまでわかる「マルクス学」でなくては意味がないし、実践的でも「革命的歴史的」でさえないのだから、根本的な意味での「マルクス学」への「背理」となっていると言う基礎喪失性があると言うわけなのだ。
この問題をもっと、ライブ的実践として語るなら簡単な集会構想として、的場昭弘先生は、既に、佐藤優氏との対談本を出しており、佐藤優氏は、池上彰氏と『希望の資本論』と言う対談本を出している。
池上彰氏は、かなりの意味で、「マルクス経済学」と「資本論」を理解しているのであり、
池上彰×植草一秀×的場昭弘 対談によって、「ちきゅう座」学習会の連続性の立て直しとして目標を明確にする事ではないかと一愛読者として要望してやまないのだ。
これは、射程に入っている学術的最前線であり、日本の知性と教育の立て直しとしての有効なる最後の砦であるし、弁証法的に「あれもこれも」実現されたる「正当なる歴史の推進過程」となり、実を取り、具体的であり、革命的段階として2015年を推進できる「出版物不況」さえ抜け出せたるテキスト化の先駆けのプランとなっていると僕は提案したいのだ。
少年ジャンプと同じく、低俗化する意味ではなく、大衆の要望を聴くための広告基地が、「ちきゅう座」でもあるはずであると僕は、考える。
「自分の生活の中から堀り出した思想をもっている普通の人こそ、大学や国家の意志のなかに紛れて声高に主張することはしないけれども、確かに人生の経験に富んだ行動の軌跡を描いていたようにおもえたのである。」(宮内広利)
しかし、野性の国民とは、ヘイトであり、少年ジャンプの低俗連続性であり、悪無限(ショーペンハウアー)悪輪廻、永劫回帰でもあり、「学」と「人間本質=国民=真民主主義」の再弁証法=論理学=現象学の問題となるだけと言う繰り返しなのだ。
大衆は、知識比べや低俗な論点ずらしに厳しく批判的であり、2015年安保闘争に乗り出しているのだ。「学識的」基礎、定礎としての後押しを求めているのだ。
「無知の知」であって良いのであり、「人間本質論」としての「方法論」を持つソクラテスこそを求めているのであり、今度こそ、毒杯によって、真実を殺す蛇の支配を受けない様に、「二度目のギリシア悲劇」「喜劇」としない「人間革命」として、「明治維新」を越えて、「平成革命」としての人間の勝利の正論、誠実、の道筋をひこうと言うタイムリミットでしかない。
わかり易い政治、歴史への言及は、的場昭弘と平成マルクス学派連盟(仮称)に必然的ホップステップジャンプとしてのテキストを共同でわかり易く、仕上げつつ、まずは、池上彰氏、植草一秀先生、更に、ピケティ氏へと「ちきゅう座」から、そして、「日本マルクス学最前線運動~知と学と国民運動としてのオールジャパン「平和と共生」」として展開することなのだ。
一気に、全てを、体系的に、タイムリミット的「逆ピラミッド事業」を「複合革命」「東京コミューン」を開始出来る土壌に来ている事に、覚醒していない。
ニュータイプ革命とSEALDs革命、誠実なる真実を求め、戦争と貧困に怒る一大2015年安保闘争、完全勝利の道筋を今こそあらゆる知的道具、出版物革命、カムイ伝第三部、小学館革命などなど知的呼びかけと連帯を持って、「作業から労働」「全ての学、正社員化」「まずは、首都圏革命から日本革命へ」の論理学的道筋を、明確なヴィジョンを広報していく事である。
これは、全く肩の力はいらない。
「私に支点を与えよ。さすれば地球をも動かして見せよう。」 (アルキメデス)
(2)ちきゅう座対外性とインターネット
ヘイト狩りの延長として、インターネット対外性としての資料を以下に、いれて、今回は、一度、筆をおきます。
付録資料
http://revolutio.exblog.jp/21975318/
続く
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。