安保法案反対の声響く中、鶴見俊輔氏逝く
- 2015年 7月 27日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘鶴見俊輔
常に反戦平和運動の現場に身を置いた知識人
鶴見俊輔氏が7月20日に亡くなった。93歳だった。同氏の死去を報じた24日付の朝日新聞は「リベラルな立場で幅広い批評活動を展開し、戦後の思想・文化界に大きな影響力を持った評論家で哲学者」と位置づけていたが、戦後の思想・文化界の動向に明るくない私には、残念ながら氏がその世界にどのような業績を遺したのか分からない。訃報に接して私の記憶の底から浮かび上がってきた鶴見氏は、類い希な行動する知識人、それも常に反戦平和運動の現場に身を置いていた実践家である。
私が初めて鶴見氏を間近に見たのは1957年11月27日だ。場所は早稲田大学のキャンパス。当時、私は同大学の4年生で、私が属するサークルが大学祭の「早稲田祭」で催した討論会「大学卒業後の生き方」の講師を鶴見氏に依頼したところ快く引き受けられたからだった。
氏は当時35歳。確か東京工大の助教授か教授であった。討論会での氏の論旨は実に新鮮にして明快で、さすが新進の評論家の切り口は違うなと納得したものだ。
それから10年後の1967年11月13日、私は鶴見氏と“再会”することになる。場所は東京・神田一ツ橋の学士会館。この日、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)による緊急記者会見がここであり、当時、全国紙の社会部で「平和担当」をしていた私は、内外の報道陣の1人としてその会見を取材すべく駆けつけたのだった。
会見に現れたのはベ平連代表で作家の小田実(すでに故人)、ベ平連事務局長の吉川勇一(同)、同志社大学教授の鶴見氏、評論家の栗原幸夫の4氏だった。
ベ平連は、この会見で、ベトナムで作戦中の米軍から脱走した米兵4人をベ平連がかくまっている事実を発表した。それによると、北ベトナム爆撃(北爆)作戦に参加していた米国の航空母艦「イントレピッド」が10月17日に横須賀に入港し、24日に出港したが、この間に4人の航空兵が同艦から脱走、ベ平連に接触してきた。事情を聴くと、4人ともベトナム戦争に反対なので、ベ平連として脱走を助けることにしたという。
外国人記者から質問が飛んだ。「当局が4人を引き渡せと言ってきたらどうするのか」。小田氏が答えた。「日本国憲法の精神に基づいて行動するまでだ」
会見では専ら小田氏がしゃべったが、鶴見氏も一言、発言した。「小田は、このことに命をかけているんだ」
この発表は内外に衝撃を与えたが、それから9日目の11月21日、世界は再び衝撃を受ける。「イントレピッド」から脱走した米兵4人が、突如としてソ連のモスクワ・テレビに登場し、「われわれは平和運動をするために中立国へ行く途中で、ソ連の援助を期待してここへ来た」と述べたからである。
こうしたことにより、ベ平連の存在が世界と日本でにわかに注目を集めるに至ったわけだが、ベ平連の結成には鶴見氏が深く関わっていた。
ベ平連が結成されたのは1965年4月24日。米軍機による北爆が始まり、ベトナム戦争が一段とエスカレーションした同年2月7日直後のことである。この日、小田実、鶴見俊輔、作家の開高健の各氏ら38人の呼びかけで、ベトナムの平和を求める人たち約1500人が東京の清水谷公園に集まり、デモ行進の後、ベ平連を発足させた。
それまでの平和運動は労働組合や政党、平和団体が中心。それにひきかえ、ベ平連は個々の市民が主体の運動であった。そのうえ、それまでの平和運動が集会とデモ中心だったのに対し、ベ平連は月1回の定例デモを定着させたほか、それまでの平和運動関係者が思いもつかなかったユニークな活動を次々と展開して行った。こうした新しい組織形態と斬新なアイデアに基づく行動が世間の注目を浴び、「市民による新しい平和運動の誕生」と言われるようになった。ベ平連はその後、1974年に解散する。ベトナム停戦が実現したからである。
ところで、「市民による新しい平和運動」は、ベ平連が最初ではない。1960年の安保闘争(日米安保条約の改定阻止を掲げた、戦後最大といわれる大衆運動)の中で生まれた反戦市民グループ「声なき声の会」が最初だったと言っていいだろう。鶴見氏はまた、これにも深く関わっていたのである。
1957年に発足した岸信介・自民党内閣は日米安保条約の改定を急ぎ、日米間で調印された条約改定案(新安保条約)の承認案件を60年に国会に提出。社会党(社民党の前身)、総評(労働組合のナショナルセンター)、平和団体などによって結成された安保改定阻止国民会議が「改定で日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と改定阻止運動を起こす。これに対し、自民党は5月19日、衆院本会議で承認案件を強行採決。これに抗議する大規模なデモが連日、国会周辺を埋めた。
デモの中核は労組員と学生だったが、千葉県柏市の画家、小林トミさん(当時30歳)らが「普通のおばさんも気軽に参加できるデモを」と思い立ち、6月4日、小林さんら2人が「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた横幕を掲げ、都心から国会に向けて行進を始めた。
沿道にいた市民が次々とデモに加わり、解散時には300人以上になっていた。小林さんらが提唱したデモはその後も続けられ、参加者は毎回、500~600人にのぼり、この人たちによって「声なき声の会」が結成された。会員はやがて5000人を超す。
6月15日には、全学連主流派の学生たちが国会南門から国会構内に突入して警備の警官隊と衝突、東大生の樺美智子さんが死亡する。抗議の声がとどろく中、新安保条約は6月19日に自然承認となった。
翌年の6月15日、小林さんは国会南門を訪れた。前年、そこは樺さんを悼む人びとで埋まっていたが、1年後は閑散としていた。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」と衝撃を受けた小林さんは「安保条約に反対する運動があったこと、その中で命を落とした樺さんのことを決して忘れまい」と誓い、毎年6月15日には、声なき声の会主催の記念集会を開き、集会後、集会参加者が国会南門で献花をしようと思い立った。以来、6・15記念集会と献花は毎年続けられ、2003年に小林さんが病死してからも続いている。今年は55回目であった。
「声なき声」のデモを始めた小林さんは、鶴見氏らが戦後まもなく始めた「思想の科学研究会」の会員だった。だから、鶴見氏は「声なき声の会」の会員となった。そして、鶴見氏は小林さんの行動を「小林さんは日常生活の一部として反戦運動を続けてきた。つまり、普通の人でも反戦運動ができることを実証した」と高く評価し、6・15記念集会への参加も欠かさなかった。集会は東京・池袋で開かれるのが恒例だから、京都からの参加であった。国会南通用門での献花にも必ず加わった。
私は、新聞社退職後の1996年から毎年、この6・15記念集会に参加しているが、ある時、会場でお目にかかった鶴見氏に「ベ平連と声なき声の会の関係」をうかがったことがある。氏の答えはこうだった。
「1965年の春だったと思う。同じ声なき声のメンバーだった政治学者から、京都にいた私のところに電話がかかってきた。北爆に対し無党派の市民として抗議したいが、声なき声の会では小さ過ぎる。大政党の指令を受けないサークルの呼びかけで、ベトナム戦争を支援する日本政府に抗議するデモをやろうというんだ。で、その政治学者と私、それに作家の小田実さんの3人で東京に集まり、べ平連をつくることを話し合ったんです」
ここに出てくる政治学者とは、当時立教大学教授であった高畠通敏氏(すでに故人)と思われる。それはともかく、ベ平連結成の母胎となったのは声なき声の会であったことが確認できたわけで、私は、声なき声の会が果たした役割の大きさを改めて実感した。とともに、鶴見氏が戦後の平和運動で果たしてきた役割の大きさを再認識したものだ。
6・15記念集会の数少ない常連の1人だった鶴見氏も、2008年を最後に集会に姿を見せなくなった。「体調を崩したので」というのが、集会に寄せられた氏からのメッセージだった。そして、自民党が安保関連法案を衆院本会議で強行採決したことに対する抗議の声が高まる中での死去。「戦争させない」「9条壊すな」という市民の声は、病床の鶴見氏の耳に届いていただろうか。
これまで6・15記念集会で聴いた鶴見氏のいくたの発言の中で、私が最も印象に残っているのは、次のようなものだ。
「民衆の運動は潮の干満のようなものだ。大きく引いてゆく時もあるが、必ず大きな潮となって満ちてくる。平和運動は今、低調だが、必ず高揚の時がくるよ」
安保関連法案反対運動は、60年安保闘争を越えることができるだろうか。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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