笹本征男さん(占領史研究家) 逝く
- 2010年 12月 31日
- 評論・紹介・意見
- 原爆被害調査在韓被爆者市民会議石川逸子
在韓被爆者市民会議代表の笹本征男さんが、二〇一〇年三月二十日逝かれた。彼を失い、偲ぶ会を市民会議主催で開くなかで、彼の仕事の大事さと大きさが今さらながら見えてきた気がする。
主な略歴は、一九四四年島根県生まれ。中央大学法学部卒。占領・戦後史研究会員。著書に『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった日本』(新幹社)訳書に『占領軍の科学技術基礎づくり』(ボ―エン・C・ディ―ズ著・河出書房新社)ほか論文多数。詩集『いずも』(土曜美術出版販売)
米軍占領下、日本政府が、いかに大掛かりに原爆調査をおこない、かつ積極的にその資料を米軍に提供していったか、その行為が戦後の日本をどう形作っていったか、在野でなければできない研究をこつこつと行なうなか、笹本さんが探り当てたことについて少々触れたい。
二〇〇五年九月十二日、特定非営利活動法人「市民科学研究室」が、笹本氏を招いてインタビュ―を行なっており、そこに明白に彼の主張が出ているので、その一部を紹介したい。(インタビュアは、NPO代表・上田昌文氏)
そのなかで彼は、原爆を作り、投下したのはアメリカなのに、ともすれば被爆者すらも「被爆○○年」と言って行為主体のアメリカが抜け落ちている説明をしていると指摘。在ブラジル被爆者の盆子原邦彦氏が、広島での集会で、はっきり「アメリカ政府」と言って批判し、「自分は日本人だが、少なくとも歴史的に考えれば韓国人被爆者の援護は私たちより先にあるべきだ」と述べたことに感動している。
原爆投下後の日本軍による原爆調査について、日本国内で被害報道はほとんどされなかったのに、海外のメディア特にアメリカの新聞に報道されており、それが日本発の情報(同盟通信社・現共同通信の前身)、ラジオ東京(NHK海外放送の前身)からとわかって、疑問を持ち、すべてを疑うようになって本気で研究をはじめたのだと。
「アメリカが使った大量殺戮兵器によって被害を受けた国が、なぜ敵国であるその米軍の目の前で被害調査ができるのか、というのが、一つ。どうしても解明したいと思って調べましたけど、ほぼわかったことは、昭和天皇裕仁、総理大臣、参謀総長とか、そういう人間たちが米占領のために原爆調査をやれということを言葉として残した資料は何一つない、ということでした。
でも、意思決定の言葉はなくても、東京帝国大学などの科学者が動いている様子や、彼らの報告書はわかっているわけです。頭隠して尻隠さずです。だから、国家意思を発動するとき、政府は一番重要な事実は記録文書に残さないということを学んだ。
一番大事なことを決めた時は記録に残さない。でも決めたんだから具体的な行動に移すわけですよね。意思決定をしている以上なにか記録があっていいはずですが。原爆調査であの膨大な科学者や政府機関を動かす以上、何らかの国家の意思決定があったのは明らかなんですが、それが(資料)としてないということは問題の特徴であるし、これはおそらく原子力時代の特徴であるかもしれないと思っています。」
笹本さんは、降伏調印の翌日、日本政府代表者が横浜のマッカーサー司令部に原爆被害報告書を提出していることを、英文報告書で見つけ、「軍票」を使って直接支配すると脅かしたマッカ―サ―に対し、原爆被害の調査を駆け引きに使ったのでは、と仮説を立てる。
日本政府は、九月十四日、学術研究会議爆弾災害調査研究委員会を設置したが、物理学・化学・地学・生物学・機械・金属資料・電力・建築・医学・農学・水産学・林学・獣医学・畜産学の分科会を持つ「当時の自然科学系分野を全部網羅した組織」であり、精緻な調査・研究であった。
米軍の承認がなければあり得ないことであり、事実、調査団は一九四五年暮れまでとことん調べ、その報告書はすべて米占領軍に渡された。当時の日本の優秀な頭脳たちが、いささかの抵抗もなく、資料提供に協力したことに笹本さんは憤激する。
この初期調査を日本にやらせたのち、アメリカは、長期にわたる「遺伝調査」を行なうため、ABCC(Atomic Bomb Casualty commission・原爆調査障害委員会)を作り、日本・厚生省管轄の原子爆弾影響研究所と共同して調査を行なう。広島・長崎で、妊娠時、原爆被害を受けた女性から生まれてくる胎児をすべて調べ上げ(1947~1951)、比較対照都市として、呉市を設定した。
また、アメリカの原子障害調査委員会(CAC)と国家研究評議会(NRC)は、その遺伝調査計画を、雑誌Science・1947・10・10号に公表する。
「大量殺戮兵器を使った現場で行なわれている調査のことを、アメリカではLife という家庭雑誌が、一九五四年七月号に写真入りで紹介しているんです。アメリカ人の医師が日本人の助産婦に対して行なった講習がありますが、その時の写真を見せる。他に赤ん坊が寝ている姿の写真など、今広島ではこういうことをやっています、と。これがアメリカの本質だと思わざるを得ない。人体実験しておいて、その状況を家庭雑誌で出してしまう。(略)Lifeの写真は一見の価値ありです。」
彼は、原子爆弾影響研究所とABCCが行なった調査で、日本側が使った原子爆弾影響研究費は、四七年から五一年で、三〇〇〇万円という巨額な金だとも指摘している。
「原子爆弾という大量殺戮兵器の被害あるいは効果をめぐって、原爆を使った加害国と被害国が共同正犯関係を結ぶ、そんな事例は歴史上そんなにないんです。」
この日米関係こそ「日本の戦後の歴史の根幹」だと、目をぎらぎらさせて熱く語る彼の姿が目に見えるようだ。
島根県益田市から約二〇キロ離れた故郷、山深い匹見町に眠る笹本さんは、益田事件(一九四九・一・二五日深夜、島根県米軍政チ―ムの米軍パレット少尉他二名と島根県地方経済庁調査官二名で、益田町大字高津の朝鮮人集落を令状なしにヤミ物資を隠していると強制捜索、柳行李、トランク、密造酒などを押収、取り戻そうとする朝鮮人たちともみ合う。押収した品物とともに引き揚げた少尉の報告を受けたモーサット隊長の命令により、一七〇名の日本警官が再度、朝鮮人集落を急襲、女性四名をふくむ朝鮮人九名を逮捕。憤激した朝鮮人一〇〇名余が警察署に押しかけたのに対し、警察は消防団・青年団まで召集、ピストルを乱射、朝鮮人がわに三〇余名の重軽傷者が出た事件)についても、和光大学総合文化研究所年報「東西南北」別冊一号(2000・12・1)に、「益田事件―私的なノート」という好論文を発表している。朝鮮人差別に強い関心をもっていた笹本征男さんならではの論文として読んだ。
最後の別れとなってしまった在韓被爆者問題市民会議の運営委員会で、渡されたのは、「人民の力」(912号・2010・11・15)という雑誌に彼が記した、小エッセー「赤い屍体・黒い屍体・一九四五年―画家・香月泰男の世界に触れて」のコピーであり、香月泰男『私のシベリア』(文芸春秋社・一九七〇年)を読んでの感想が記されていた。
赤い屍体は、シベリヤに抑留される途中、中国人たちの私刑を受けて線路の脇に転がっていた日本人の屍体であり、黒い屍体は、広島の原爆で真っ黒こげになった屍体。
香月には、赤い屍体が「加害者のあがなわされた死として映」ったのだ。そして香月は言う。「再び赤い屍体を生みださないためにどうすればよいのか。」を考えつづけるためにシベリア・シリーズを描いてきたのかも知れない、と。「戦争への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。」とも。
復員後、生涯、故郷の山口県三隅町から離れなかった香月を想い、また、「香月の思想は、日本において稀なもの」と考える笹本征男さんは小エッセーを次のように結んでいた。
「六五歳になった私は、故郷の島根を出て四十数年になり、東京の世田谷に住んで、三十数年になる。私は、今私のいる場所から、香月のように世界を見続けていたいと思う。」
そう、もう少し見続けてほしかった。笹本さん。
次に詩集『いずも』から、彼の詩数篇を載せて、笹本征男さんを偲ぶ文を閉じることする。
原風景
夕暮れにはまだ遠い時
私は三輪車に乗っている
母が後ろから押している
三歳の頃か
道は右に曲がっている
左には川と発電所がある
道の遠い先に帰ってくる父がいるような気がする
人生での原風景のように記憶に残る
なぜ最初の風景と思うのか
わからない
東の出雲から西の父の故郷に
連れられて
帰ってきた 直後のことか
(二〇〇二年一月三日、記)
朝鮮人の同級生
林さんはもう就職しとうないと言っとった
電話で四十年ぶりに聞く
中学校の担任だった土江先生のやさしい声
同級生の林美恵子さんは笑えば、右頬に小さ
なえくぼが出来る
明るい少女だった
もう就職しとうない
私の中であの穏やかな彼女の顔がゆがむ
そうだったのか
一九五〇年代の終わり
日本人は朝鮮人の就職を拒否してきた
彼女も何度拒否されたことか
二十名の同級生の中で
朝鮮人は五名いた
高校に進んだ私は四十年経って
えくぼの顔の朝鮮人同級生の屈辱を思う
私の無知に体がゆれる
(二〇〇二年十一月四日、記)
撫順
母が二十台の一時期いた撫順
その頃の写真が一枚ある
白い割烹着にエプロンをした
髪を真ん中で左右に分けた若い女がいる
窓ガラスに十字の張り紙をしたカフェの前だ
母はそこで働いていた
時々馬賊が殺されるのを見た、と
声をひそめて語ったことがある
九州の佐賀の寒村から中国に渡る
ひとりの若い女
一九四〇年代の撫順
母には侵略者ということばが似つかわしくな
いように
思いたい、が
無告の民もやはりその一人だ
母の一枚の写真とそのこととの距離
大正五年生まれの母に問えない撫順もある
(二〇〇二年十一月四日、記)
奪う
約一年間、私から右大腿部の股関節を奪った
それから、一年後、胃を奪う
次は、どこを奪うのか
右足が日々健康を取り戻し、
杖の私と会った多くの友、親しい人々
あの時間を奪うことはできない
私とその人々の間に生まれた生の感覚を奪えない
告知された外科診察室から、三階の病室に帰る時
体の深いところから沸きあがったのは
奪うことのできない時間のいとおしさだった
この体の全て、腕、足、胸、指・・・
生きている
すごしたあの精気に満ちた日々
根源としての存在
病室には、胃潰瘍と思って見舞ってくれた友がいた
彼に最初に告げることができたことが、うれしい
二階の待合室の長椅子で
二人は外の景色を見ながら
静かに、語った
奪え
奪え
奪え
しかし、奪えないものもある
ガンよ
(二〇〇三年八月十五日、記)
初出:『ヒロシマ・ナガサキを考える』第99号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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