放漫、怠慢、傲慢──先週の新聞から(9)
- 2010年 12月 31日
- 時代をみる
- ドイツ経済ユーロ圏脇野町善造
これが2010年の最後の報告となる。最後くらいは明るい報告にしたいと思うのだが、ノー天気なことばかりもいっておられないようだ。
「科学としての経済学は陰気な学問である」と言ったのは、トーマス・カーライルだそうだ。あるアメリカのエコノミストはこれに対して、経済学それ自体が陰気なのではなく、「問題は経済学が陰うつに教えられてきた(もしそれが教えられたとすれば)ということだ」と言ったという。ほとんど講義に出なかった40年前の学生として、大学で経済学が陰鬱に教えられていたかどうかは論じる資格がない。しかし経済学が陰鬱に教えられてきたとすれば、経済学以外のほとんどの教科もまた陰鬱に教えられていたのでないか。間違いなく言えることは、研究対象としての現実の経済が、他の学問の対象よりもはるかに陰鬱だということだ。天文学の対象の一つとしての夜空に輝く無数の星々と、日々の新聞の経済欄とを比較すれば、それは歴然としている。精神の健康を考えるならば、新聞の経済欄を読み耽ることは決して好ましいことではない。人間がそれでも経済に無関心でいられないのは、それが人間の暮らしに強く影響を及ぼすからであろう。経済学は知的好奇心から生まれたのではなく、失業や貧困といった人々の生活を苦しめる切羽詰まった状況を背景に成立したともいえる。その意味では経済学は呪われた学問といわれてもしようがない。したがって、明るい話になりようがない。明るい話だけであれば、経済学は不要だということになる。
そういうわけで、精神の健康には好ましからざる報告を続けることになる。12月20日のWall Street Journal (WSJ)の社説は、欧州連合(EU)の恒久的な救済基金の創設を「モラルハザード(倫理観の欠如)を醸成し、将来的な救済の可能性をむしろ高めることになる」と批判的に論じている。ユーロの危機は、一部の諸国の放漫財政にあるとし、「放漫財政によって債務返済がおぼつかない国には、まだ代替手段がある。返済期限の延長やヘアカット(元本の削減)をはじめとする債務再編だ。ユーロ圏は、債務再編を要求することで、他国の救済は行わないという本来の厳格な規定をまだ取り戻すことが可能だ」と断じている。WSL は債務再編の先例として1980年代の中南米諸国を挙げる。この「先例としての中南米」という話は、12月22日のFinancial Timesでも繰り返されている(タイトルは「ユーロ圏が学べる中南米の厳しい教訓」)。現在のユーロ圏の問題はかつての中南米と非常によく似ているというのだ。
この主張には、固有の通貨を持っていて、為替レートの大きな変動(調整)が可能であった中南米諸国と、共通通貨のもとでそれが著しく困難になっているユーロ圏諸国を同一に論じることがそもそも可能なのかという素人的疑問が残る。ユーロ圏の危機は、一部の諸国の放漫財政にあるとするのは理解できるが、別にそれはユーロ圏だけに限ったことではない。アメリカも含めたほとんどの国の経済危機は広い意味での放漫財政が原因なのである。「ツケはいつかは清算しなければならない」というのは飲み代の話から国家財政にまで共通する鉄則である。似ているのは当然のことであろう。
ツケは払うというのは鉄則だとしても、他人からそれを強要されるというのはあまり気持ちのいいものではない。財政危機に陥ったスペインでは、年金の支払い開始年齢を65歳から67歳に引き上げることにして、これが労働者から強い反発を招いていることは先週報告した通りである。ところが、12月20日のEl País によると、OECDの年次報告で、スペインはこの開始年齢を最終的に70歳にまで引き上げることが必要だとされたという。OECDは日本にも様々な勧告めいたことをしたことがあるが、年金支払い開始年齢のことにまで口を出すとは知らなかった。OECDはスペインに対して、年金のこと以外にも、付加価値税(IVA)の引き上げなど、財政再建のための様々な措置も勧告したというが、「ツケ」をどんなふうにして返すかは、それぞれの国の専決事項ではないのか。飲んだくれの道楽息子の「ツケ」の払い方に、しまり屋の親父が口を出したところでロクなことにはならない。
スペインが放漫財政から危機に陥ったのとは対照的にドイツが「わが世の春」を謳歌していて、そしてその一因が共通通貨ユーロの相対的減価にあることは、すでに何度か報告したとおりである。ドイツが共通通貨を持っていなかったらどうなっていたかを示唆する記事が12月21日のNeue Zürcher Zeitung(NZZ)にあった。スイスフランが史上最高値を付けたという報告である。スイスフランが強くなったというよりは、スペインやポルトガルの問題を原因としてユーロが弱くなったためにこういうことが起きた。NZZによれば、スイスフランは米ドルに対しても上昇したという。もしドイツの通貨がマルクのままであったとしたら、ドイツマルクはスイスフラン以上に上昇した可能性がある。そうなったとき、ドイツはスイス以上に経常収支の悪化に苦しんだであろう。ドルとの関係も現在とは逆になっていたかもしれない。
それだけ、ユーロ安はドイツにとっては好都合だったということである。しかし都合のいい国があれば、逆に都合の悪い国もある。同じ日のNZZは中国によるユーロ圏支援を伝えているが、これは純粋な政治的動機によるものではないであろう。ユーロ安は中国にとっては「都合が悪い」のである。米ドルとの交換レートを事実上固定している人民元にとっては、ユーロの対ドル安は直ちに人民元の対ユーロ高を意味する。これは中国にとってはドイツとの競合における交易条件の悪化を意味する。中国のユーロ圏支援はこれを食い止めるという経済的目的からなされたものでもある。最近の報道からは姿が見えづらくなったが、これも「通貨安戦争」の一環と見るべきであろう。「下司の勘繰り」と言われそうだが、こういう勘繰りをしてしまうのも、経済学が陰鬱な学問になってしまう原因である。
12月25日はキリスト教徒にとってはクリスマスである。この一年がどうあろうと、この日ばかりは祝福すべき日になる。だからというわけでもあるまいが、12月25日の Spiegel-on lineはドイツの代表的なシンクタンクであるキール世界経済研究所を含む複数のシンクタンクが2011年のドイツ経済の好調さを予想していると報じている。ドイツの「わが世の春」は来年も続くというわけだ。
その前日(クリスマス・イブ)のNew York Times (NYT)もまた、ドイツ南部ババリアから、クリスマス景気に沸く現地の状況を報告している。ただこの報告の中でNYTは、ドイツ経済の強さは労働者の犠牲の上に実現したものであると指摘している。労働者の実質賃金はこの10年間で4.5%減少したという(前述のHBも2010年の労働賃金は減少したと報じている)。そしてユーロの相対的弱さは、輸入品の相対的上昇という形で現れるために、「収入減のもとでの物価高」という結果になる。こうなるとドイツ経済の「わが世の春」は、国民全般に及ぶものでなく、一部の資本家やその周りの人間達だけのものといったほうがよさそうだ。
強くなりすぎたドイツがヨーロッパに新たな問題をもたらしつつある。ユーロ圏の一部諸国の放漫財政が問題の根底にあるのは事実だが、「独り勝ち」になっているドイツの実情も決して手放しで称賛されるものでもない。それを無視して、放漫財政に対する怠慢さを批判し続けるドイツの姿勢にはある種の傲慢ささえ感じざるを得ない。
11月から始めたこの報告は、今年に関しては、今回をもって終了する。11月9日付の最初の報告では、新聞の経済欄や経済週刊誌を読んでも世界金融のことは容易に分からないとしたが、その思いは2カ月経過した今も同じである。しかしそれでも読まないよりは読んだ方がはるかにましである。「自由な新聞はないが、信頼しうる政府がある」(そんなことがあるとは思えないが)ことよりは、「しようもない政府しかないが、自由な新聞だけはある」ことのほうがはるかにましだというのもやはり鉄則である。それを2ヶ月間で実感した。
2ヶ月間この報告書を書く機会を与えていただいた「ちきゅう座」に感謝したい。またこの報告を読まれる方々にとって、2010年が振り返るに値する年であり、2011年が期待するだけの価値がある年であることを念じたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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