真実はどちら側にあるのか?―対照的なセルビア政府批判
- 2010年 12月 31日
- 時代をみる
- セルビア空爆をめぐる政府対応への正反対の見解岩田昌征
セルビアの常民社会派知識人の週刊誌ペチャト(2010年11月26日)に欧米市民社会の対照的なセルビア政府批判が載っていた。
一つは、ノーム・チョムスキーと共著で『同意の生産』を出版したエドワード・ハーマン教授の発言である。教授がデイヴィド・ピーターソンと共著で出版した『ジェノサイドの政治学』がセルビア語に訳された。ベオグラードの出版社は、「セルビア語版はセルビアの裏切り者たちに捧げられる」とどぎつい献辞を付加した。それについて意見をジャーナリストから求められたハーマンは、怒らず、逆に全く肯定的に次のように語った、「気にいった。セルビアのリーダーたちはこのような献辞に値する。彼らはあらゆるところで誤っている。NATO、USA、EUが90年代から今日に至るまで行ってきたユーゴスラヴィアとセルビアに対する恐ろしい諸犯罪を償う賠償を要求するべきなのに、ぺこぺこはいずりまわっている。諸大国との戦争に負けたからといって道徳的に屈従する必要はない」。
二つは、駐ベオグラード・ドイツ大使の発言である。10月末、セルビアの主要な親NATO勢力の指導者たち、アメリカ大使、そしてEUの在セルビア代表団長等が集まって「セルビア、西バルカン、そしてNATO―2020年に向けて」なるコンファランスが開催された。そこでドイツ大使ヴォルフラム・マスは次のように演説した。「私はセルビア政府の諸君を批判しなければならない。諸君自身が相変わらず『NATO空爆』のような用語を使っているからだ。諸君がクネズ・ミロシ大通りを散歩するとして、諸君の子供から『お父さん、これ誰の仕業?』と質問されたとする。諸君は『NATO』と答えるであろう。そうすると諸君の子供がNATOについて何と思うと諸君は考えますか。私が少年だったころは、ドイツではこうではなかった。私の町で破壊の跡を見ましたが、私はそんなことをした人を憎みませんでした。それは、何故そんなことをしたかを私に説いてくれる人がいたからでした」。セルビアの親たちは、自分たちを空爆した人々を愛するように子供たちに教育する道徳的義務があるというわけだ。
前者は、欧米市民社会の例外的少数派の意見である。後者は、これほどあけすけに口外するか否かに差はあれど、欧米市民社会の本音であろう。私、岩田の見る所、後者は悪事を働いた市民社会の自己欺瞞が骨肉化した証しである。こう考えてみよう。ドイツ人は、ナチス・ドイツが行ってしまった第一級の世界史的犯罪の事実を認めるがゆえに、イギリス空軍によるドレスデンへの対市民無差別爆撃を非難できない、とどのつまり許す。このような論理と倫理をセルビア人に強要する。その前提は、セルビア人がコソヴォで行った戦争犯罪をナチス・ドイツの世界史的超犯罪と等置するという世界史的に第一級の事実歪曲である。ヨーロッパ市民社会の多数派エリートによる歴史的歪曲である。かくして、カセット爆弾や劣化ウラン弾の大量投下も学校や化学工場への爆撃も正当化される。NATO空爆に参加したのは「赤と緑」の革新政権であったが、上記のようにお説教したのは保守政権のドイツ大使である。
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