“最後の決戦”に勝てるか -戦後70年、敗れ続けた日本の平和運動-
- 2015年 8月 5日
- 時代をみる
- 安保岩垂 弘平和運動
参院で審議中の安保法案を「違憲」として、その廃案を求める運動が高まりをみせている。いまのところ、安保法案の行方は定かでないが、もし、成立するようなことがあれは、戦後、一貫して日本国憲法(平和憲法)をとりでとして闘ってきた平和運動陣営は、最後の拠り所を失うことになる。それだけに、こんどの安保法案反対運動は平和運動陣営にとって“最後の決戦”とも言ってよく、日本は戦後70年にして平和憲法を護り抜けるか、それとも平和憲法の歴史に終止符を打つのかの分岐点を迎えている。
戦後の日本では、これまで、さまざまな平和運動が展開されてきた。主なものとしては、米軍基地反対運動、自衛隊反対運動、原水爆禁止運動、60年安保闘争、米原子力艦船寄港反対運動、70年闘争、イラク戦争反対運動などをあげることができる。
これらの運動に取り組んだ人々の拠り所となったのは、日本国憲法の第9条であった。そこには「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあったからである。
例えば、戦後の日本で最大規模の大衆運動とされる60年安保闘争。これは日米安保条約の改定に反対する運動、具体的には日米両国政府が調印した新安保条約の国会承認に反対する運動で、1960年にピークを迎えた。運動の主役は社会党(社民党の前身)、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)、平和団体などで結成された「安保改定阻止国民会議」だったが、国民会議が結成大会で採択した「呼びかけ」には、こう述べられていた。
「今、政府は、安全保障条約を改定しようとしています。改定は、この条約を廃止するためでなく、かえってその条約体制を強化する目的で行われるのです。改定によって日本が共同防衛の義務を負い、それによって自衛隊の増強や核武装が要求されるということ、韓国や台湾と同盟して、中国やソ連を攻撃する基地を進んでひきうけること、憲法が否定されて民主主義と平和の基調が崩されること、等々は、日本の運命、民族の将来のために由々しい重大事であります」
「私達はかつて無責任な軍国主義と軍事同盟が、国民の意志とは別に、戦争を挑発し中国をはじめとするアジア諸国ならびに日本国民を泥炭の苦しみに追い込んだことを忘れてはなりません。今、岸内閣が歩もうとしている途にあまりにも共通していることを私達は強調したいと思います。私達は、この様にして日本の平和と民主主義を危機にさらし、国民生活を破壊する安全保障条約の改定に対しては絶対に反対を致します」
そこには、平和憲法を背骨とする戦後体制が新安保条約によって崩されるのではないか、との強い危機感があった。
戦後日本の平和運動の歴史をたどると、運動が高揚したヤマ場がいくつもあるが、60年安保闘争は最初のヤマ場であったと言ってよい。その後、1960年代後半から1970年代前半にかけて運動は第2のヤマ場を迎える。この時期、平和運動陣営が70年闘争に取り組んだからである。
70年闘争の課題は3つあった。「ベトナム反戦」「沖縄返還」「日米安保条約破棄」だ。しかも、これら3つの課題は互いに関連していた。すなわち、日本政府が米国のベトナム政策を支持し、在日米軍基地がベトナム戦を戦う米軍の後方基地になっているのも日米安保条約があるからであり、米国の施政権下にある沖縄で基地災害、米軍犯罪が多発しているのもそこに米軍基地があり、そこから米軍機がベトナムへ出撃しているからだった。その沖縄では、基地災害、米軍犯罪に苦しむ人々が「軍事基地を認めない平和憲法をもつ日本のもとに復帰したい」と、島ぐるみの日本復帰運動を展開していた。それだけに、本土の平和運動陣営にとっては日米安保条約はなんとしても廃棄されねばならなかったのだ。しかも、同条約の固定期限(10年)切れが目前に迫っていた。
こうした事情から、平和運動陣営はこの時期、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、日米安保条約自動延長阻止運動といった3つの運動を一体的なものとして同時並行的に進めた。こうした経緯をみると、平和運動陣営が掲げた「ベトナム反戦」「沖縄返還」「日米安保条約破棄」という3つの課題は「平和憲法擁護」という共通の理念に裏打ちされていたことが分かろうというものだ。
2003年に始まったイラク戦争では、日本の平和運動陣営は米国をはじめとする多国籍軍の撤退を要求した。とともに、自衛隊のイラク派遣にも反対した。これこそ、憲法第9条の規定を逸脱する「海外派兵」と見たからである。
それにしても、戦後日本の平和運動の歴史をたどると、「負け続き」だったとの印象を深くする。60年安保闘争では平和運動陣営が目指した安保改定阻止はかなわず、新安保条約は60年6月19日に自然承認となった。70年闘争でも、平和運動陣営が狙った新安保条約自動延長阻止はかなわず、新安保条約は70年6月23日に自動延長になり、その後も毎年、更新を続けている。
沖縄の日本復帰は1972年5月に実現した。沖縄の施政権が米国から日本に移った点だけだけを見れば、平和運動陣営にとって勝利だったかもしれないが、復帰の中身は沖縄県民が望んだ「即時無条件全面返還」(施政権の日本返還にあたっては、沖縄の米軍基地をすべて撤去し、核兵器も引き揚げよ)でなく、実態は「核付き・本土並み返還」であった。日本政府は「核抜き・本土並み」の復帰が実現したと言明したが、その後、「アジアで有事が発生した場合は米側の要請に応じて沖縄への核配備を日本側が容認する」という「核密約」が日米間にあったことが明らかになった。そして、「本土並み」とは、日本復帰後も沖縄に引き続き米軍基地を置く、ということであった。沖縄県民の願いとはほど遠く、県民に不満が残った。これはやがて、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題で火を噴く。
ベトナム反戦運動にしても、米国軍をベトナムから撤退させたのは運動側の勝利だったに相違ないが、日本の運動に限って言えば、日本政府のベトナム政策(その基本は、米国のベトナム政策を全面的に支持するというものだった)を転換させるには至らなかった。
自衛隊のイラク派遣も阻むことができなかった。
もっとも、運動側に「勝利」が全くなかったわけではない。保守勢力はこれまで何度も改憲(明文改憲)を図ってきたが、それをことごとく阻止してきたことは、運動側の誇るべき勝利と言えるかもしれない。
それから、砂川闘争の結末は数少ない勝利の1つと言えるだろう。これは、1955年に在日米軍が東京の立川基地の滑走路拡張を計画し、そのための測量が開始されたのに対し、地元砂川町の農民のほか、支援の労組員や学生らが基地内に突入するなどの拡張阻止行動を続け、ついに米軍が68年に拡張を取りやめたという事件である。この経験は平和運動の財産として継承されてしかるべきではないかと思う。
いずれにしても、日本の平和運動は、今、運動再開70年目にしてかつてない厳しい局面に直面している。これまでずっと運動の拠り所にしてきた憲法9条が、集団的自衛権の行使を可能にする安保法案によって実質的に破壊されようとしているからである。明文改憲でなく解釈改憲によって9条を実質的に葬ってしまおうというのが、安保法案を強行採決までして成立を図ろうとする安倍政権の狙いとみていいだろう。
安保法案が通るようなことがあれば、日本と日本国民の将来に決定的な影響をもたらすほか、平和運動陣営が受ける打撃もまた甚大である。それだけに、安保法案審議のヤマ場とされる9月に向けて、平和運動陣営が総力をあげて反対運動を一層強化することを望まずにはいられない。
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