中国大陸との国交正常化 ―あらためて考える「歴史問題」 4 (最終回)
- 2015年 8月 20日
- スタディルーム
- 歴史田畑光永
このシリーズの途中で8月14日に安倍首相の「終戦70周年談話」が出された。しかし、予想通り「歴史問題」にきっちりけじめをつけるような談話とはならず、15日の番外篇で指摘したように、適当に言葉をつぎはぎしながら、なるべくみずからは反省も謝罪もしないで、同時に非難も浴びないように形をつけただけのものに終った。したがって、こちらも今までの話を続けることにする。
これまでの3回では20世紀前半における中国侵略、朝鮮併合という日本の行動は、中国大陸、朝鮮半島、日本列島が中華を中心とする緩やかな朝貢冊封体制のもとでの共存体制というこの地域の伝統にそむくいわば「掟破り」であったこと、しかし太平洋戦争のあとの中国の内戦、朝鮮戦争というアジアの激変の中で行われた中華民国(台湾)、韓国(朝鮮半島南半部)との国交調整では、相手側は日本の「掟破り」に謝罪を求めるほど立場に余裕がなく、両者とも対日不満を抱きつつも国交が再開された経緯を述べて来た。しかし、1972年の秋に至っていよいよ中国大陸の政権との国交正常化交渉の機が熟した。
日中正常化における戦後処理
戦後初めて大陸の土を踏む日本の首相として、過去の戦争についてどう語るか、中華民国の時のように表向き何も言わずにすますことは出来ない。ではどう言うか?時の田中首相が大いに悩んだことは当時の状況から明らかである。先述したように戦後すぐに東久邇宮首相が「中国に謝罪使を特派したい」との意向を内外に明らかにした事実を、田中首相が知っていたかどうかは不明だが、皮肉なことに1972年当時は蒋介石になお恩義を感ずる勢力からの「中共に頭をさげることは許さない」という圧力はかなりなものであった。それをかわすために田中首相が選んだ言葉が有名な「ご迷惑」である。
訪中初日、9月25日夜の歓迎宴での「(過去数十年にわたって)多大なご迷惑をおかけした」という田中首相の挨拶は、翌日の首脳会談で周恩来首相から「言葉が軽すぎる」と強い言葉での抗議を呼んだ。しかし、これに対しては田中首相は「ご迷惑と言った自分の真意は謝罪である。したがってその言葉が不適当であるなら、中國側の記録にははっきり謝罪としてもらって構わない」と釈明して、その場をしのいだ。そしてこの問題は共同声明前文の「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という一節となって決着した。ここで反省は表明したものの、「謝罪」までは踏み込まなかったことが問題を後に残した。
田中首相の釈明は日本国内向けにはあくまで「ご迷惑」、中國側がそれを「謝罪」と受け取っても異存なし、という双方の国内事情を刺激しないための苦心の弁であるが、周恩来首相が本心、これで納得したとは思えない。
しかし、そもそも中国が前年7月に米のキッシンジャー特使を受け入れてニクソン訪中の話を進め、また日本との国交交渉を開くに至ったのは、当時、対立が深まっていたソ連に対抗するために米・日へ接近するという外交戦略上の必要に迫られていたからであった。したがって過去に対する「謝罪」にこだわって会談を決裂させるわけにはいかなかった。ここでも中國の状況が日本を助けたのである。
同じことは賠償問題でも起こった。深刻さはこちらのほうがまさった。と言っても、中国側が日本に賠償を払えと要求したわけではない。その代りに中國側は「中日両国国民の友好のために賠償請求権を放棄する」と共同声明に書き込むことを主張した。それに日本側が異を唱えたのである。その理由は20年前の日華平和条約で台湾の中華民国政府がすでに賠償請求権を放棄しているから、この問題はすでに決着ずみであるということだった。つまり、中国側には放棄すべき請求権それ自体がもはや存在しないというのが、日本側の立場であった。
これに周恩来は激怒した。そんな理屈は中国人民を侮辱するものだ、とまで言った。もともと終戦直後の中華民国は戦争で多大の被害をこうむった以上、日本には賠償を支払わせるという立場であった。在華日本軍民の引揚げについては「暴に報いる徳を以てせよ」と国民を説得した蒋介石も、1945年10月17日に重慶でUP通信のヒユー・ベイリー社長と会見した際には「日本とドイツは戦争誘発に対し同等の責任を有するものであるから両国の処罰は同じ見地からなされなければならないと信ずる」と述べ、同社長は蒋介石から「寛大な和平には決して賛成しない」という印象を受けたと書いている(当時の新聞報道)。
その後も国民党政権はことあるごとに日本に賠償を要求したが、日華平和条約にいたって請求権を放棄したのは以下のようなやりとりの結果である。同条約が国会で批准された当時の外務省条約局長(後に外務次官)だった下田武三の回想禄『戦後日本外交の証言』にはこうある。
「国府側は賠償問題では、対日戦争の最大の被害者である中国が賠償を放棄することは中国の国民感情が許さない、として対日賠償請求権を強く主張した。これに対して日本側は、中国大陸における中国の戦争被害は大陸の問題であり、この条約の適用範囲外であるとして、条約からの削除を求めた」(下田『戦後日本外交の証言』)
この日本側の主張はもっともである。賠償は政権に払うのではなく、国民に払うものである以上、戦争中は日本領であった台湾・澎湖島に統治範囲が限られる中華民国政権に戦争賠償を払うのは筋が通らない。内戦に敗れた国民政府にしてみれば傷口に塩をすり込まれるような言い草に聞こえたであろうが、理は日本側にある。
しかし、それなら大陸の政権が請求権を持つことを認めなければ、今度は日本側の態度が一貫しない。というより、台湾が放棄したから、すでに大陸の政権には請求権がない、というのはほとんど詐欺の論理である。
ところがこの点でも中國側が譲歩した。日中共同声明の第五項は「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」となった。請求権の「権」が消え、したがって日本側との合意というより、中國側の一方的宣言である。
さらにつけ加えれば、「戦争状態の終結」についても、日本側の「日華平和条約によって終結」という立場を中国側が認めて「戦争」という言葉なしに、共同声明第一項は「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」となった。
こう見てくると、二〇世紀前半の日本の行動に対する中国、韓国の憤懣は、公式の戦後処理の場においては、中国へは田中首相の「ご迷惑」発言と日中共同声明における「責任を痛感し、深く反省する」という言葉、そして韓国へは無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力だけで解決されたことになった。
これは当事者間の合意の結果であるから、日本の責任というわけではない。ただ中国、韓国にとっては日本の行動の責任をきびしく追及し、納得のいく結果を得るだけの余裕のない状況で国交を開かなければならなかったことが、後々折に触れて歴史問題が国家関係をこじらせる原因となったことは否めない。
謝罪より歴史の直視を
勿論、その後、日本の首相は「謝罪」をおこなってきた。代表的な例が一九九八年の金大中大統領との日韓共同声明における小渕恵三首相の謝罪、同年の中国・江沢民主席への同首相の口頭による謝罪、それに相手を特定しない一九九五年の村山富市首相の戦後五十年にあたっての談話、同じく二〇〇五年の戦後六十年にあたっての小泉純一郎首相の談話である。
これだけ謝罪すれば、中国にせよ韓国にせよ、国交回復時の不満を解消してもいいはずと思えるのに、なお謝罪が求められるのはいかなる理由か。そこが問題の核心であるが、それは日本の政治世界における歴史認識のあいまいさが折角の謝罪をしばしば不透明なものにしたり、否定したりするからである。
村山首相の談話は、わが国が遠くない過去に「国策を誤り」、「侵略」と「植民地支配」をおこなったことを「謝罪」した。この談話が意味を持ち続けるためには、後継者はこれを尊重しなければならない。しかし、小泉首相は「国のために命を捧げた人々に哀悼の誠を捧げるため」に六度も靖国神社に参拝した。安倍首相も一昨年の年末に参拝した。自分たちの戦争を「侵略」と認めて謝罪しながら、一方でその戦争の指導者を含めて、直接それに従事した人間を「国のために命を捧げた」と称揚して参拝するのは論理矛盾である。
その時点で以前の首相の謝罪は俗な言葉で言えば効力が切れる。それが繰り返されてきた。その根底にはあの戦争を心底悪かったとは思わない系譜がこの国には脈々と生き続けている。福沢諭吉が前出の「脱亜論」で「支那朝鮮」が時勢に遅れているのだからという理由で、わが国の「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と書いたように、あの戦争は欧米先進国が世界中でやっていることを真似ただけとする考え方である。
昔からの三国共存の掟を破って、明国目指して朝鮮に出兵した豊臣秀吉もカトリックの宣教師から織田信長を経由して注ぎこまれた弱肉強食の「世界の趨勢」に突き動かされたのであろうし、明治日本の指導者たちも世界の大勢におくれまいと武器をとることに躊躇しなかった。「如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり」(福沢『脱亜論』)が、戦いを正当化する根拠であった。
自己の行為そのものの善悪をつきつめるのでなく、他人との比較で自己の正当性を量るのはわが国の特性の一つであることは、従軍慰安婦の議論でかならず他国の例が持ち出されるところにも顕著である。
こう見てくると、わが国と近隣国との歴史問題はまさに戦後の歴史の巡り合わせと国民性が生んだアジアの宿題である。今尚それは生きているというより、世代が変り、今やわが国と中国、韓国との国力の差も縮小、ないし逆転して、あらためて三国の関係を考え得る時代になったということであろう。韓国、中国にしてみれば、戦後70年にして初めて、損得勘定抜きに「掟破り」を正面から問題に出来る状況になったのである。
とすれば、相手は政権の弱さを補うために昔のことを言い立てているといった受け取り方でなく、現在のアジアの力関係から生まれた、古いが新しい問題としてとらえ直すことが必要である。
と言っても、別に妙案があるわけではない。なすべきは真面目に歴史を直視することである。現代史が難しいのは、現に生きている人間と直接に関わりがあった人間の行為を評価しなければならないからである。戦争は多くの人間の命に関わる出来事であるから、客観的な評価がためらわれる場合があるのはやむを得ない。靖国神社問題などはその典型である。
靖国神社は戦死者を神として祀ることによって、国民を兵員として徴発するのを容易にするための施設であったことは疑いようのない歴史の事実である。しかし、その存在が肉親を失った遺族の悲痛をいくらかでも慰める限りは、国民全体が一致して、戦死者とは命令によって他国を侵略し、他国の国民を苦しめ、その過程で自らも命を落とした犠牲者であって、「英霊」などと呼ぶことは歴史の真実を覆い隠す偽装であると、認識することは困難であろう。
戦場でなにをして命を落としたかを問うことはせずに、「お国のために命を捧げた英霊」としておくことは遺族を含む有権者の感情を傷つけたくない政治家にとっては都合のいい逃げ道である。その靖国神社に参拝することは政治家にとってプラスになる。そのためにはあの戦争をあからさまに侵略と決めつけるのは具合が悪い。そこで言葉を濁す。侵略の定義はいろいろある、などと無意味な抵抗をする。英霊の集団が女性たちを従軍慰安婦にして、「耐え難い苦痛」を与えたというのもためらわれる。そこで業者なるものを介在させて従軍慰安婦の存在自体を商行為に仕立て上げる。こうした内向きの戦争の偽装工作がこれまで外向けの謝罪の真意を疑わせ、無効にしてきた。なんど謝ってもまた・・・というのは、この偽装工作の故である。
しかし、戦後も七十年。こうした偽装工作を卒業する時期ではないか。すくなくとも、偽装工作を破綻させないために、被害国からの批判にむきになって反論したり、相手の被害を割引いたりするような言説は事態を悪化させるだけである。加害者は被害者の批判にはだまって耳を傾ける義務があるはずである。(完)
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