言葉の暴力について考える
- 2011年 1月 2日
- 評論・紹介・意見
- 「でっち上げ」と情報化社会岩田昌征
世の中に言葉の暴力がある。様々な種類の言葉の暴力があって、紀元前4世紀の古代インド・マウリア朝の名宰相カウティリヤ作とされる『実利論 アルタシャーストラ』には各種の言葉の暴力の規定と罰則が明文化されている。現代の情報(戦)社会には零暴力の「無視」から無限大暴力の「虚偽」まで幅があり、その中間に「喩えの暴力」が有効性を誇っている。1990年代の旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報戦においてヨーロッパ市民社会では、ヒトラー・ナチズムへの比喩が多用された。かくしてドイツの赤・緑政権は、「ノーモア・ウォーではない。ノーモア・アウシュヴィツだ」と呼号して、セルビア共和国に対する大空爆、第二次大戦後ヨーロッパ最初の空爆を合理化した。それはセルビア市民社会でも同じことだ。実例を出そう。
ベオグラードの日刊紙ポリティカ(12月20日)によれば、市民派NGO「イニシャティヴ33」は、ラトコ・ムラディチ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人共和国の最高司令官であったが、ハーグ法廷によって戦犯訴追を受け逃亡中。1000万ドルの賞金首)の形象がベオグラードの市場やインターネットを通じて売買されていることを非難し、国家機関にそれを禁止するように要請したという。「犯罪者ラトコ・ムラディチの形象の販売が警察やほかの諸国家機関のいかなる反応もなく行われていることは、いかにセルビア社会がヨーロッパ的価値から遠いかを示している」。「これはヨーロッパ的価値への公然たる攻撃であり、このような形象が公然と売られていることは、全く理解しがたい。それはベオグラードの通りの屋台売り場にアドルフ・ヒトラーの形象が現れ、その際に誰からも反発を受けなかったようなものだ」。自分たちの敵の所業をナチズム・ヒトラーになぞらえる手法は、セルビア常民社会にも見られる。私、岩田が最近「ちきゅう座」で提示したコソヴォ解放軍幹部によるセルビア人捕虜生体臓器摘出密輸疑惑にかかわった外科医たちは、アウシュヴィツの死の医師ヨーゼフ・メンゲレにたとえられていた。「喩えの暴力」によって情報戦に勝利したとしても、真実の勝利とはいえない。とはいえ、私、岩田が見る所、市民社会は、常民社会よりもこの暴力利用に巧みである。かっとなった常民社会は、小腕力に頼りがちになり、それが欧米市民社会の最新式の大暴力の口実となる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0280:110102〕
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