戦争に呑み込まれた小さな島・似島 -日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして原爆-
- 2015年 8月 27日
- 時代をみる
- 似島岩垂 弘
広島湾に浮かぶ小さな島は、まるで日本の近現代史を背負った島のように思われた。その小さな島とは、広島市南区の似島(にのしま)である。1894年(明治27年)から1945年(昭和20年)まで半世紀にわたる日本の歴史は、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、日中戦争、第2次世界大戦と、まさに戦争に明け暮れた日々であったが、この間、似島がたどった道はこうした一連の戦争に呑み込まれた歴史であった。戦争に魅入られた島・似島を歩いた。
8月7日、広島で「海から見えるヒロシマ(船をチャーターしての、広島湾海上フィールドワーク)」というツアーがあった。竹内良男さん(東京都立川市、元教員)が企画したツアーで、狙いは「歴史の現場を自分の足で歩きながら、今につながる話を聴き、自分の目で見ることを通して、戦争と平和を考えよう」というものだった。広島県内をはじめ関東からも応募があり、参加者は約50人。
ツアーのコースは宇品(うじな)港――似島――江田島(えたじま)――金輪島(かなわじま)――宇品港。ツアー一行は午前9時40分、広島市街南端の宇品港から2隻の小型客船に分乗して似島へ向かった。
私がこのツアーに参加したのは、以前から似島に関心があったからである。私が広島原爆の被害に関する取材を始めたのは1960年代からだが、その過程で、1945年8月6日に広島で原爆が炸裂した直後、多くの被爆者が宇品港から似島に運ばれたことを知った。
とりわけ私が心ゆさぶられたのは、長田新編『原爆の子――広島の少年少女のうったえ――』(岩波書店、1951年刊)に収められた手記の一編だった。そこには原爆に遭った子どもたちの手記105編が収録されていたが、その一編に似島が出てくる。それは中学3年(被爆当時小学3年)田中清子さんの手記で、その中にこんな記述があった。
「ひがいを受けた者は皆似の島に行けということでした。私達も、そこへ行くことにして、川から船に乗りました。お母さんのすわっている前に、私と同じ年くらいの女の子がいました。その女の子は、体中にやけどや、けがをしていて、血がながれていました。苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、とつぜん私の母に、
『おばさんの子供、ここにいるの?』
とたずねました。その子供は、もう目が見えなくなっていたのです。
お母さんは、『おりますよ。』と返事をしました。すると、その子供は
『おばさん、これおばさんの子供にあげて。』
と言って、何かを出しました。それはおべんとうでした。それは、その子供が朝学校に出かける時、その子供のお母さんがこしらえてあげたべんとうでした。お母さんが、その子供に
『あなた、自分で食べないの?』と聞くと、
『私、もうだめ。それをおばさんの子供に食べさせて。』
と言ってくれました。私たちは、それをいただいた。しばらく川を下って船が海に出た時、その子供は
『おばさん、私の名前をいうから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね。』
と言ったかと思うと、もう息をひきとって死んでしまいました。私は、その子供がかわいそうでかわいそうでなりませんでした。私はお母さんと一しょに泣きました」
私も涙せずにはおれなかった。このため、「似島」という島が強く印象に残り、以来、いつか訪ねてみたいと思い続けてきたのだった。それに、広島湾にはいくつもの島があるのに、なぜ似島に大勢の被爆者が運ばれたのだろうかという疑問を解きたかったということもあった。
私たち一行は出港後十数分で似島に着いた。島は宇品港から約3キロ。周囲13キロ。「安芸小富士」という高さ278メートルの山と、高さ203メートルの「下高山」という2つの山をもつ。安芸小富士が富士山に似ているところから「似島」と呼ばれるようになったそうだ。島の人口は840人。
広島湾に浮かぶ似島(江田島から望む)
上陸すると、案内人の宮﨑佳都夫さん(似島郷土史研究家)による似島に関するレクチャーがあった。
それによると、日本近代史で最初の対外戦争となった日清戦争終結時に、朝鮮半島や台湾方面から日本に帰還する将兵の検疫が喫緊の課題となった。そこで、陸軍は1895年(明治28年)に似島に第一検疫所を建設した。検疫所は海外へ出兵した将兵が伝染病にかかっていないかを調べたり、持ち帰った荷物を消毒するための施設。伝染病の疑いのある者は帰宅を許されず、付属の病院に隔離された。検疫を受けた将兵は約14万人にのぼった。
それから10年後、陸軍は再び将兵の検疫が必要となる。日露戦争の終結で、満州や朝鮮半島から帰還する将兵に対し検疫を施さなくてはならなくなったからだ。陸軍は似島の第一検疫所で検疫を行うことにしたが、それでは間に合わないため1905年(明治38年)、新たな検疫所(第二検疫所)を同島に建設した。第一、第二の両検疫所で検疫を受けた日本軍将兵は約61万人にのぼった。
そればかりでない。旅順開城、奉天会戦、日本海海戦などで日本の捕虜となった5万余人のロシア軍将兵に対する検疫も両検疫所で行われた。1940年(昭和15年)には馬匹(ばひつ)検疫所が開設された。軍用馬の検疫を行うためだ。
その後、第一検疫所は他の軍事施設に転用されたが、第二検疫所は第1次世界大戦、シベリア出兵、日中戦争、第2次世界大戦などの帰還兵の検疫施設として存続した。この間、1917年(大正6年)から3年間は、検疫施設の一部が第1次世界大戦におけるドイツ軍捕虜の収容所として使用された。
さらに、1944年(昭和19年)から翌年にかけて、「海の特攻」と呼ばれた海上挺進戦隊の訓練基地が島内に置かれた。
宮﨑さんによると、広島に原爆が投下されたころの島の人口は約1400人(軍関係者は除く)。爆心地から約8キロ離れているので、原爆による家屋等の被害は軽微だった。が、島から広島市内に出かけていた島民の中には即死者や負傷者が相当数あって、被爆一カ月の集計では死者は108人と記録されているという。
その上、原爆投下直後から、被爆して負傷した人が船で島に搬送されてきた。「どの船も人、人で溢れていた。到着した船に乗っていた人たちは、全く人間の姿をしておらず、着物はボロボロ、あるいは裸、そして血だるま、重い火傷を負い、目も当てられぬ重傷者ばかりであったと伝えられている」(広島市似島臨海少年自然の家発行の『似島の遺構』)。検疫所に収容された負傷者は1万人以上にのぼった。
負傷者がこの島に運ばれた理由は何か。宮﨑さんによれば、原爆投下前に検疫所に空襲時の備えとして医薬品が備蓄され、検疫所が臨時救護所に指定されていたからだという。このため、検疫所は臨時野戦病院となり、負傷者の救護にあたった。島民も総出でこれに協力した。しかし、薬品が数日で底をつき、ほとんどの負傷者がここで亡くなったとされる。亡くなった人は火葬にしたが、遺体が多いために火葬では対応しきれず、土葬にしたという。
宮﨑さんの案内で島内を回った。第一検疫所、第二検疫所、馬匹検疫所とも当時の建物はなくなっていた。第一検疫所跡には「似島学園」という学校が建ち、第二検疫所跡には「平和養老館」という高齢者施設と「臨海少年自然の家」が建っていた。当時の検疫所をしのばせるものといえば、負傷者を乗せた船が着いた桟橋、煉瓦積みのトンネルが一部残る弾薬庫跡、遺体を焼いた焼却炉跡ぐらいだった。
平和養老館の前には、島で亡くなった負傷者の慰霊碑が建立されていた。負傷者の救護にあたった臨時野戦病院関係者が戦後に建設したものという。
これらの遺構を見て回るうち、自らも原爆の被害を受けたうえに、おびただしい被爆者を受け入れて混乱の極に達したこの島の当時の状況が、おぼろげながらも私の脳裏で像を結んでいった。まさに悲惨極まる地獄絵さなからであったろう、と思わずにはいられなかった。
宮﨑さんのレクチャーで最も印象に残った言葉があった。それは「この島が明治以降たどらされた歴史は戦争と軍事に関わる歴史です。そして、私たちが今、考えなくてはならないことは、島であった軍事的な事象の一つひとつがそれぞれ偶発的で孤立したものではなくて、密接につながっていたということです」というものだった。つまり、日本の、明治以降のアジアへの侵略戦争が結局、原爆投下という最悪の結末を招いたのではないか。宮﨑さんが言いたかったことはそういうことではないかと私は理解した。とともに、この時、私は、本島等・元長崎市長(2014年死去)の次のような発言を思い出していた。
「なぜ、日本、とくに長崎、広島に原爆は落とされたのでしょうか。日本は、かつて朝鮮半島、中国をはじめアジア諸国を侵略し、計り知れない人びとの尊い生命と生活基盤を奪いました。このことがすでに始まっていた冷戦による対ソ戦略とともに、原爆を落とされた遠因ともなったのです。長崎は四百年も前から、長い鎖国の時代も日本において唯一の世界に開かれた平和な港町でありました。しかし、日清・日露戦争のあと、とくに中国との十五年戦争のころから、戦争のための軍艦建造をはじめ、兵器生産の拠点になりました。また、広島は、もっと早く、日本の主要軍需基地であり、一大軍都でした。
原爆による無差別殺戮は、人道的立場から考えて絶対に許されない国際法違反の行為です。しかしながら、過去の侵略に対する私どものきびしい反省がなければ、原爆反対の声は世界の人びとに届かないでしょう」(平野伸人編・監修『本島等の思想』、長崎新聞社刊)
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