メキシコ出張-その2―はみ出し駐在記(47)
- 2015年 9月 10日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
観光シーズンで、まともなホテルが取れなかったと代理店のサービスマンが言い訳していた。確かに小さな寂れたホテルで、進んで泊まりたいとは思わない。それでも、メキシコ市の中心からさほど遠くないところにあって、立地はよかった。寝泊まりには十分だが、テレビもないし何もない。小さなレストランはあるが、客もほとんどいないし、メニューも限られていて、そこで食べる気がしない。
朝飯も夕飯も街に出て何か探した。手ごろなレストランがあっても、英語が通じなければ、入ったところで何も頼めない。あちこち歩いて英語のメニューを用意している店を見つけた。英語のメニューで注文しようとしたら、ウェイトレスは英語のメニューが分からない。メニューには日本と違って写真がない。全て文章で説明してある。多言語国家であればあるほど、写真付きのメニューがいいと思うのだが、ありそうもない。
スペイン語のメニューとその翻訳の英語のメニューを並べて置いて、英語のメニューで頼むものを決めて、スペイン語のメニューで上から数えて何番目と指さして注文した。ある日、コカコーラにも飽きて牛乳が飲みたくなった。ミルクを注文したが通じない。乳を大きくした牛とその乳から流れるミルクを受けるコップをポンチ絵で描いたが、絵が下手すぎて通じなかった。仕方がない、結局コカコーラを注文した。しまいには、限られた英語もどうせ通じないならって、日本語と身振り手振りにポンチ絵がどこまで通用するか面白半分に試していた。
客の都合より代理店のサービスマンの都合だと思うのだが、午後五時過ぎにはホテルに戻っていた。部屋にいてもやることがない。毎夕一人で市内をあちこち歩いて土産物屋やらなんやらに行っても飽きてしまう。いつものダイナーで夕飯を済ませても時間が空いてしょうがない。ぶらぶらしていたら、アメリカから新婚旅行で着いたばかりの黒人男性とフィリッピン女性(見るからに中華系)のカップルに出会った。
突然、聞き慣れた英語で道を聞かれた。聞かれたところでこっちも出張で来ているだけで、何も分からないと伝えたときの反応が笑える。日本語なまりの英語にもかかわらず、英語の返事にほっとしたのだろう。英語を話せるのかって驚かれた。なんのことかと思ったら、既に何人かに聞いたが、返って来たのはスペイン語だった。英語で話ができるというだけで、なんとなく知り合いになってしまった。
「ディスコに行きたいのだが、どこか気の聞いたところ知らないか?」三人で、あちこちで聞きながらやっと見つけた。看板はディスコなのだが、ディスコの音楽を控えめにかけた居酒屋のような店だった。三人でビールを飲みながら世間話をしていたら、隣の席にいたメキシコ人のグループの一人が、たどたどしい英語で話しかけてきた。アジア人夫婦に黒人の組み合わせ、それも黒人とアジア人女性の方がカップルに見えるのが気になったらしい。黒人とフィリッピン女性が夫婦で、新婚旅行で今日メキシコに着いた。二人に道で知り合ったばかりの日本人の三人組みであることが分かったときは、かなり驚いたようで、急にちょっとした間だけだが、グループの五人の間での話になった。
何時までも新婚さんの邪魔をしているのも気が引ける。夫婦からの距離を空けてメキシコ人のグループに入っていった。新婚夫婦にも丁度いいきっかけなったのだろう。想像していたディスコとの違いもあって、早々に引き上げて行った。一人取り残された感じだったが、新婚さんの邪魔をしているのではないかと気になっていたので、ほっとした。
五人のグループは、最年長の二十代後半に見えるお兄さんに二十前後に見える弟二人と妹二人の兄弟姉妹だった。姉は看護婦だと言っていたが、部分茶髪とでもいうのか髪の毛のあちこちを縦に染めていて、蓮っ葉にしか見えない。居酒屋でならいいが患者としては遠慮したい。感覚が古いのだろう、どこをどう見ても白衣の天使というより品のないコスプレの方が似合っていた。
誰も英語で話をしたことがほとんどなかったのだろう、動詞は原形だけしか使えない。限られた語彙で何とか意思を伝えようとしているのが、ちょっと前までの自分を見ているようだった。
日本のことを聞かれたりメキシコのことを聞いたり、その時は一所懸命だったが、後になって振り返れば何を話したのか何も覚えていない。その程度のことであれば、限れた語彙だけでの意思疎通でもなんとでもなる。それも六人でビールを飲みながら、誰もが楽しい一時をと思ってワイワイやれば、それなりに盛り上る。お互い細かなことは知らないし、知ったところで大した意味もない。ただ、いい人といい一時が過ごせれば、そしてその思い出を残せればいいという気持ちがあればそれでいい。
六人で散々食って飲んで、支払いはドルに換算すれば五十ドルにもならなかった。メキシコペソの切り下げもあってだろうが、“扇”での一晩分に毛の生えた程度でしかない。メキシコに来て初めて気の張らない場であったこともあって、格好をつけて払ってしまった。
それもあってか、今度の土曜日に一緒に出かけようという話になった。歩いて来た店、歩いて帰れるのにホテルまで車で送ってくれた。ちょっと年代もののアメ車、無理すれば全員乗れた。ホテルの前に車を止めてもらって、じゃあと言いかけたら、全員が車から降りてホテルのロビーまで入ってきた。狭いロビーにワイワイ入ってきたものだから、いつもは客もろくにいなくて、ぼーっとしているだけのボーイが慌てていたのが滑稽だった。握手して、今度の土曜日。。。最後に「I go you」と言って帰って行った。
今度の土曜日に一緒にというのはいいが、そう言ったあの兄弟姉妹が覚えているのか、本当に土曜日に出てくるのか半信半疑だった。来るかもしれないし、来ないかもしれない。来なければ来ないで、一人で街をほっつき歩くだけなのだが、連絡があるかもしれないと思うと外出もできない。いつものダイナーで昼飯も終わって、何もやることのない部屋で来ないかもしれない連絡を待っていた。
飲みに行くにはちょっと早い時間だったから、多分四時か五時頃だったと思う。長男から電話がかかってきた。言葉が不自由で電話では話という話にはならない。一言「I go you.」で電話が切れた。本当かよと思いながらロビーで待っていたら、全員そろってどやどやと入ってきた。今晩はちょっと遠出して、生演奏をやってるクラブに行こうという。遠出なので車一台ではちょっときついと思ったのだろう、二台の車で郊外に出て三十分以上走った。
市内で渋滞に引っかかっていたとき、花売りのおばさんが寄ってきた。日本人の感覚ではフツーは相手にしない。ところが、看護婦の姉が窓をあけて、おばさんと二言三言交わして、いつものようにという感じで花束を一つ買った。なぜと思ったのに気がついたのだろう。「おばさんが一所懸命働いているから、買った」と言った。おばさんの生活や社会背景を想像できるからで、でなければ多くの日本人と同じように相手にしないだろう。経済的に恵まれない人たちと同じ目線で生きている兄弟姉妹だった。
郊外の決して豊ではない地域なのだろう、暗闇のなかに一軒屋の地場のクラブがあった。確かに生演奏のバンドだったが、曲は全てアメリアッチで、トランペットのキンキンした音と変形ラテン系のリズムだった。当時のメキシコの若者たち、それもアメリカからの直接の影響が少ない人たち向けの演奏だった。小さいながらも一段高くなったステージがかぶり付きの若い女の子で溢れていた。競い合っているわけではないと思うのだが、誰もが愛らしく着飾っていて、ステージの周りに花が咲いたような華やかさがあった。ただ、興奮しているのか陶酔しているのか女の子たちの目つきが怖かった。
このあいだはご馳走になってしまったという気持ちもあってだろうが、「何がいいといいながら、タコスでいいよね」
部分茶髪の姉がみんなにビールとタコスを注文した。何がタコスなのか未だに分からないのだが、出てきたのはソーセージの盛り合わせのようなものだった。
ソーセージをかじりながらアメリアッチを聞いて、かぶり付きで聞き入ってる女の子たちを見ていた。どう贔屓目に聴いても、三流の域をでない雑な演奏にしか聴こえない。それでもその街ではスターなのだろう。かぶりつきの女の子たちの目がそう言っていた。メキシコの若い人たちの週末のささやかな楽しみを経験させてもらった。
上流階級の人たちと知り合いにはなれやしないが、それでも輝いているところや社会の公の部分はイヤでも目に入る。見せたいところと見易いところを見ただけで巷が分かるとは思えない。「犬も歩けば棒に当たる」という通り、一人でほっつき歩いていれば何かに出会う。出てゆけば、けつまずくこともあれば転ぶこともある。だからどうしたって、歩いてみりゃいい。そうすれば巷の何か拾う。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5660:150910〕
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