メトロポリタン美術館―はみ出し駐在記(51)
- 2015年 9月 29日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
たまに応援者のテイクケアもなく、特別しなければならないこともない週末があった。そんなときは、下宿で溜まった本を読むようにしていた。溜まる一方の本を処理しなければならないのだが、あまりに天気がいいと外が気になる。
こんな天気のいい日に、地下室に閉じこもっているのも芸がない。どこかに行こうと思うのだが、これといって行くところがない。どうするか考えようにも、ぼんやりしていて何も思いつかない。ぐずぐずしながら、まずはメシと、近間のダイナーか“さっぽろ”に早めの昼飯にでかけた。のんびり昼飯を食いながら、今日はどうしたものか、モールに行ってもしょうがないし、どこに行くか、ちょっと遠征でもするかという感じでメトロポリタン美術館に出かけた。
どういう訳か、応援者でメトロポリタン美術館に行きたいと言ってくるのはいなかった。一人で気の向くままに出かけて、何を見るという目的もなしで、思いつくままに見て回るのが好きだった。メインの展示だけでも大きすぎるが、ちょっとニッチの外れたところでも展示に圧倒された。古代ギリシャの陶器がこれでもかという感じで並んでいたり、見上げんばかりの何本ものトーテムポール。。。どの展示も凄すぎて言葉では説明できない。
気が向けばいつでも来れると思うから、順序だてて、時間を気にしながら見るようなこともない。あくせくすることもなく、まるで裏路地でも歩くような感じで、ひと気を避けてニッチな展示室から展示室を回る。どの展示室に入っても展示の迫力に気後れする。そこにいるのは自分だけ、一人で展示物と対峙する。圧倒されてか、全体を見ようとしてか、無意識のうちに引き気味になる。それでも、もっと見てやろうと首だけは前に出る。気楽に回っているはずなのに、展示室を出てやっと緊張感から開放される。
上野の国立博物館にも何度か行ったが、行くたびに見飽きて(失礼?)脚が疲れた。メトロポリタン美術館では飽きることもなかったし、歩き疲れることもなかった。展示スペースも展示物もメトロポリタン美術館の方が遥かに大きく多いのに、なぜだか分からない。
博物館や美術館の日米比較などしたところで、何の意味があるとも思わないが、いくら贔屓目に見ても日本のはあまりに貧相で恥ずかしい。戦後の高度成長はあったものの、豊かさとその豊さをもたらした社会の、歴史の違いなのだろうと勝ってに納得していた。
最初に行ったとき、入館料で戸惑った。いくらという規定がない。このくらいはというガイドラインはあったが基本は寄付だった。収入のある人には多く払ってもらいたいが、所得の少ない人には無料でもいいという豊かなアメリカの鷹揚さがあった。入り口で、前にいた見たところ学生っぽい格好をしていた数人が二十五セント(クォーター硬貨一枚)しか払わなかったので、同じでいいやとクォーターで入った。世界中から、よくぞここまで集めたとしか言いようのないものが、二十五セントで穴のあくほど見れる。これほど価値のある二十五セントが他にあるだろうかと正直思った。
もっとも最近は、アメリカもバブルの影響で、何でも高く世知辛くなった。入館料も異常に高くなった。昔は学生のような格好で二十五セントで入れたが、もうこの歳、いくらなんでも学生じゃ通らない。Webを見たら、なんと入館料が二十五ドルもする。当時とは物価が違うのは分かるが、百倍はないだろう。メトロポリタン美術館も手の届かないところにいってしまった。
ついでに調べたら、住んでいたときによく行ったクリーブランド美術館は、今も変わらず無料だった。クリーブランドは日本ではあまり知られていないこともあって、美術館と言われてもピンとくる人は希だろう。それでも、ロックフェラーの本拠地だったと言えば、その美術館がどれほどのものかの想像はつくと思う。ちなみに財政破綻したデトロイト市の美術館の入館料は、成人は八ドル、六歳から十七歳は六ドル。メトロポリタン美術館の二十五ドルは金融バブルの落し物のような気がしてならない。アメリカは地方都市の方が住み易い。東京で生まれ育って地方都市を知らないが、日本でもそうなのかも知れない。
何度か行っているうちにメトロポリタン美術館の違う使い方(?)があるのに気がついた。ある日、正面入り口の広い階段の隅に腰掛けて、ソーダを飲みながらタバコを吸っていたら、日本人観光客らしいのが入ってゆくのが見えた。同年輩に若い人たちが多いのだが、カップルや男同士は少ない。女性二名か三名のグループか男女合わせて五名や六名のグループがわいわい言いながら階段を上ってゆく。ニューヨークにパックツアーで来てフリータイムなのだろう。
十何時間もかけてよくここまで来るね。料金も高いだろうし疲れる。ご苦労なことでと、その人たちをぼんやり見ていて、これだと思った。これならナンパできるかもしれない。我ながら妙案だと思った。後で後悔することになるのだが、その時はそこまで考えられなかった。
いくつものグループが入って行くのをやり過ごして、可能性のありそうなのが来るのを待っていた。女性の二人連れはいても、一人というのはいない。もしいたとしても、ニューヨークなんざ勝って知ったるという人か、一人旅をものともしない“つわもの”で怖いおねぇーさんの可能性が高い。フツーの人と思えば、二人連れしかないと意を決して、軽く声をかけてみた。
痩せこけて柔そうなのが一人に二人の心強さもあるのか、気楽に相手をしてくれた。元々誰にも相手にされないで一人でゆったりとした時間を過ごしているのだから、相手されなくて落ち込んでも落ち込みはしれている。極端に言えば、とんでもない人たちでもなければ、相手さえしてくれれば誰でもいいというストライクゾーンの広さがある。
表で待ち合わせる時間を決めて、それまでは別行動で館内を見て回って、階段で待ち合わせることにした。待ち合わせの時間に階段に出てきて驚いた。女性二人だったのが男女四人いた。一緒にパックツアーで来ている人たちと館内で会って、ニューヨークに駐在しているいい人がいるといいうことで、二人増えた。おいおい話が違うじゃないかと思っても遅い。
四人で勝手にどこに行きたいかと話し合っている。その行きたいところに、こっちがハイヤーの運転手のように皆様をお連れするのを当たり前だと思っている。自由の女神を見に行きたいということで、マンハッタンの南の端まで走っていった。岸壁から自由の女神を見ながら仲間内で次はどうしようって話している。こっちは蚊帳の外で、ただのいい人。次はティファニーに行きたいって。ティファニーだったら、自由の女神にくる途中で寄ってくればよかったのにと言っても始まらない。しょうがない今度は北に上がってティファニーまでお連れした。自由の女神もそうだが、ティファニーは行っても何も見るものがない。
ティファニーに向かって走っていたら、助手席のお兄さん(一番身体が大きい)が急に止めてくれと言う。何だと思ってブレーキを踏んだら、道を歩いているツアー仲間を見つけて声をかけている。おいおい、この車五人乗りにもう五人も乗ってんだよ。できることなら乗せてあげたいけど、これ以上は乗れませんって。。。
ティファニーに着くかという頃に、今度はチャイナタウンがどうのという話を後ろでしている。ウソだろう、チャイナタウンに行くのなら、自由の女神を見て、ちょっと北に上がればいいのを、ティファニーでミッドタウンまで来て、また南に下がるのか?
女性二人となら、チャイナタウンの気の利いた店かブラッセリで、夕食も悪くないと思っていたが、南へ北へ、お抱え運転手じゃあるまいし、ティファニーまでで遠慮させて頂いた。自分たちでタクシー使って行くのなら、回る順序くらい考えるのだろうが、どこでも好きなところに連れて行ってくれる人のいいのがいるということで、わいわいがやがややりながら思いつくまま。いくら人が良くても、そこまではちょっと疲れてお付き合いしきれません。
思いつきは悪くなかったと思うが、思いつきからなんとかするほどの才覚もなし、なるほどの運もなし。何をしてもただのいい人までだった。メトロポリタン美術館の階段でお待ちしているいい人は一度で懲りた。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5700 :150929〕
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