痛みすぎた工場 ―はみ出し駐在記(52)
- 2015年 10月 3日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
ハリスバーグの近くの客で修理作業が終わった。ほっとして事務所に電話したら、ピッツバーグのウェスティングハウス・エレクトリック社に回るよう指示された。機械の据付準備ができたからということだった。ハリスバーグまで車できていたから、そのままビッツバーグに走ったが、ニューヨークからだったら飛ぶ。走ったら、スピード違反で捕まる危険を冒して飛ばしても八時間では着かない。ハリスバーグから走っても優に四時間はかかる。
<注>
ペンシルバニア州は東西に長い長方形のような形をしている。東にフィラデルフィア、西にピッツバーグ、その中ほどに州都ハリスバーグがある。ハリスバーグはサスクエハナ川(日本人には大河?)に面した行政都市で、産業として何かがあるとは思えない。十五六キロ南東にスリーマイル島がある。そこで駐在していた七十九年に原発事故が起きた。
ピッツバーグには客が何軒かあって、前にも行った事があった。台地に三つの川が流れる緩やかな渓谷を中心に開けた町で、五十年代には世界の粗鋼生産の半分を占めた鉄鋼の町の面影が残っていた。
町の中心で南からきたモノンガヒラ川に北東からのアレゲニー川が合流する。どちらも大した大きさの川ではない。ウェスティングハウスの工場に向かってアルゲニー川に沿って走っていたら、河川敷に錆びついた小さな製鉄所が見えた。七十年初頭に日本の巨大な臨海製鉄所を訪問したことのある者には、ままごとにしか見えない。両側に見える丘の上に、ウェスティングハウスのWのロゴの付いた建物がいくつもあった。まだまだウェスティングハウスも輝いていた時代、本拠地だけあってWのロゴが目に付いた。
電機屋というには大きすぎる年代物の工場だった。担当者に据え付ける機械まで連れて行ってもらうのだが、工場の脇を真っ直ぐ歩くばかりで、いつまでたっても工場の中に入ろうとしない。大きな工場だから中を歩いてゆくより、外を歩いて近くのドアから入った方が楽なのかもしれないと思っていた。ついに工場の端まできて、担当者が機械はあそこだと指差した。目を疑った。日本から送ったままの大きなクレート(木箱梱包)が工場の裏の空き地に野ざらしにされていた。
クレートから機械を出して、工場の据付け場所までの移動と電源の供給は客の分掌で、工作機械メーカは関与しない。それが済まなければ誰も据付けなどできない。この程度の常識もないとなると先が思いやられる。担当者に機械を設置場所に移動して電源供給がすんだら、事務所に連絡を入れてもらえるよう話して、ニューヨークに戻った。
ハリスバーグからの四時間はまだいい。ピッツバーグからニューヨークまでは八時間以上、もたもた走ったら十二時間近くかかる。もっともものは考えようで、ニューヨークから来て、野ざらしのクレートを見て帰るよりはまだいい。それでも十時間を越える運転はきつい。ウェスティングハウス、いったいどうなっているのか?ニューヨークに向けて走りながら考えていた。機械の据付に関する最低限の常識がない。何年にも渡って投資らしい投資もしてこなかったから、新しい機械を据付けたこともないのだろう。来週辺りには据付けに来いと言ってくるだろうが、嫌な予感がした。
準備ができたというので、どうなることやらと思いながら出かけた。機械は設置場所に置かれていた。古くて汚い土間のような工場だった。ちょっとしたオプションを付けるのに機械のベッドの前面にタップを立てなければならなかった(取り付けのネジ穴加工)。ハンドドリルを借りに別棟の保全部隊の事務所に行った。別棟は鍛造工場だった。鉄道のポイントなどの部品の素材を作っている横を通って行った。限られた経験からでしかないが、鍛造工場は地獄絵のようだった。加熱炉の炎が吹き出ている脇で機械プレスが大きな音を立てて真っ赤に焼けた鉄を叩く。暑さというより熱と騒音に焼けた鉄粉が飛び散って、フツーの人では身が持たない。
人に話しても信じてもらえないのだが、借りてきたハンドドリルは手作り品だった。数十ドルの予算がないのだろう。四角い箱を作って、そこに巻線を入れたもので回りはするが、パワーがない。ドリルの先端を機械に押し付けると止まってしまう。ちょんちょん突いて少しずつ穴を開けていった。フツーだったら一分かそこらで開けられる穴に何十分もかかった。
根を詰めて作業ができるようなところではない。周りの作業者は一日中何か食べながら機械を操作していた。昼飯時間はと聞いたら、「そんなものここにはない。食べたいときに食べればいい」と言われた。昼飯の休息時間をとらない労働契約だった。あちこち出張で行ったが、そんな労働契約はウェスティングハウスだけだった。食べられるときに食べないと食べ損なう。ランチトラックくらい来ているだとうと表にでて、ちゃちなハンバーガで済ませた。
工場の外で昼飯を済ませて戻ってきたら、白熱電球の作業灯がついていた。保全のオヤジさんが付けてくれていた。据付作業を継続しようと機械の背後に付いている制御盤のメイン電源を入れたら、機械の前の方でパーンとなにかが破裂したような音がした。何が起きたのかと慌てて前に回ってみたら、白熱電球が破裂していた。何が起きたのか?フツーでは考えられない。白熱電球への電源回路を追いかけていって驚いた。四百ボルト系の電源に百ボルト系の白熱電球が直接配線されていた。「おいおい、ここウェスティングハウスだろう?原子力発電所まで作ってる電機製品のメーカだよな。なんでこんな初歩的なことでトラブルの。。。」保全部隊に電気の基礎知識が欠けている。保全部隊の技術知識が足りないと、工場全体の稼動を保証できない。生産性うんぬんの前に工場として機能しない。
二日目には雨が降って、床に水が十センチほど溜まって水が引くまで機械に近寄れない。ぼろぼろの建屋は1918年、ロシア革命の翌年のものだった。ドリルを借りたのとは別の保全部隊に切削工具を借りに行ったら、巻線がむき出しの大きな発電機があった。自社製の自家発設備なのだが、これも手作り品で巻き線もなにもむき出しで安全性など何も考えていない。動き出すと蒸気機関車でも走ってきたのかと思う轟音を上げていた。この発電機も二十年代初頭のものを修理しながら使っていた。
作業環境が作業環境で余計なことで注意も散漫になる。長いねじ回しで配電盤の奥にある制御回路の調整していた。ねじ回しの柄からちょっとはみ出て指が鉄の棒の部分を握っていたのだろう、わーっと叫んでねじ回しをどこか後ろに放り投げてしまった。鉄の棒の部分が四百ボルト系の電源線に触れて、感電のショックがガーンと肩まで来た。百ボルトは指先、二百ボルトは肘まで、四百ボルトを超えると肩までかそれ以上で、運が悪ければ感電死する。ショックの後遺症というのか、ちょっと仕事を続ける気になれなくて、放り投げてしまったねじ回しを探し回ったが、どこにいってしまったのか見つからなかった。
鉄道部品の工場でビジネスとしては将来性がない。工場を稼動してゆくのに必要最低限の投資もしないで、その日その日をなんとか凌いできたのだろう。設備が老朽化してゆくとともに、組織も人も痛んでいった。ほとんど全てが機能不全に近い。アメリカの製造業の衰退を絵に描いたような工場だった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5707 :151003〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。