小説 「明日の朝」 (その15)
- 2015年 11月 6日
- カルチャー
- 小説川元祥一
15
昨夜は眠れなかった。あれから一人駅前に出て焼き鳥屋に入った。晩飯代わりに焼き鳥を食い酒を飲んだ。いくら飲んでも意識が冴えた。聖子のことが気にならないことはなかった。しかしもう取り返しのつかないことだろう。千津子のことを考えようとした。そして意識が乱れた。さらに飲み、やがて彼は髭面の大きな男に叩き起こされた。煙っぽい醤油の匂いのする男だった。焼き鳥屋のおやじだった。座ったまま呑み崩れていたのだ。立ち上がり歩いたが、体も頭も乾いて、ヒリヒリした。やっとアパートに辿り着き、眠ろうとした。襖を開けて布団をとりだそうとして、彼はまた覚めた。数時間前、聖子がそれをたたんだ。それを思い出し、彼は布団を押し入れに戻した。そのまま畳に横たわった。なぜか涙が流れて止まらなかった。畳の上でのたうち、そして涙に濡れて、闇に沈む自分を見た。
一度目を覚ましたのだったが彼は時計も見ずに再び目をつむった。頭の隅に疼きのようなものがあった。体の隅々にずしりとした疲労感があった。
次に目覚めた時、窓の日差しで昼頃なのが分かった。体のだるさはあったが、頭の中の疼きのようなものはなくなっていた。<こうやって生きていくしかないのだろうか…>
たまに寄る駅前の定食屋で昼飯を食い、部屋に戻ろうとしたが、一人になるのが怖くて彼はパチンコ屋に寄った。そしてそのままアルバイト先に来たのだった。ここでこそ、居苦しい場面に出会うことになるだろうが、この場を避けることは出来なかった。歩むしかないー。
事務室に人が居ないのにホッとした。彼は放送室に声を掛けずに宿直室に入り、着替えをして、部屋の隅に積まれた布団に寄りかかる。このまま眠りたいと思った。しかし眠るわけにいかないので、部屋に散らかっているマンガ本を手に取る。<これまでの時間はもう戻らないのだ…>ふと、そんな思いが脳裏を走る。
その時、珍しい男の声がした。
「平崎君いる?」
事務室に誰もいないのを知って、放送室の山田に尋ねたようだ。
「あら、気づかなかったわ。事務室にいなかったら、場内うろうろしてるんじゃないかしら」
山田が答えた。
「ここにいますよ」
平崎はマンガ本を置いて事務室に降りた。
「ああ、平崎君。今日営業が終わったら新しいロッカー運び込まれるからね。だからお客が出て行ったらフロントのドア全部開けといてくれない」
「ええ。ロッカー取り換えるんですか?」
「半分だけど、荷物全部入るような大きいの入れるんだ」
「会社の人誰か立ち会いますか?」
「僕がいるから。これから本社へ行くけど、すぐ戻って来るから」
「わかりました」
オーデコロンの香りを漂わせて山際が出ていった。油を撒く事件があった翌日から、客のカバンや荷物袋包を全てロッカーに預かることにした。その程度のことは最初から思い付きそうだったが、いずれにしろ客の荷物を全部預かってみると、今のロッカーではまにあわないらしい。そこで大型ロッカーを入れることにした。野田達子流に云うと、これも会社の損害というものだろうが、現場の従業員には痛くも痒くもない話だろう。
「あんたいつの間に来たのよ。宿直室で寝てたの?」
山田が放送室から事務室を覗いた。
「寝てないよ」
「いやに静かだからいないのかと思った」
「いつも静かにしてるじゃない」
「コーヒー飲む?」
「へー。珍しいじゃないですか」
「自分で湯沸器買ったの。山際には内緒よ。無駄に電気使ってるって怒られるから。さっき急に覗かれてあわてちゃった」
放送室に入ると、机の下に置かれた小さなポットがコトコト音をたてていた。
山田が足元の手提カバンから二つの紙カップとインスタントコーヒーの袋を取り出した。机の端に並べ、ポットの湯をそそいだ。とたんに家庭的な香りが立ちのぼる。
「あんただけよ。こうして注いたげるの。他の人にはあげないの。きりないから」
派手なマニキュアで飾った指が紙カップを掴んで平崎の前に伸びてくる。
「昨日、聖子ちゃんあんたの所に行ったでしょう」
「うん」
「何かあったの?」
コーヒーの香りとは別に、マスカラで黒く縁どられて目が、いつになく厳しい感じだった。
「……」
「聖子ちゃん今日会社休んでるみたいよ」
「……」
「昨日帰ってきてすぐ蒲団に潜ったまま、泣いてたってよ。朝になっても布団から出ないんで、同じ部屋の大山さんが声かけたんだって」
<そうか聖子はいつも一人ではない。寝ても覚めても、泣いても笑っても人に見られ、異常をとりざたされる…>
「そうなの?」
「何かあったの?」
「ちょっと…」
「駄目じゃない、女の子泣かしちゃ」
「そんな積りじゃないけど…」
「喧嘩したの?」
「考えてる事が少し擦れ違った感じで…」
「難しいこと考えてるんでしよう」
「そんな事ないけど」
「電話してあげなさい。寮に…」
「……」
<なんでこんなことになってしまったのだろうか>平崎はあらためて思った。彼は一人になりたくて、コーヒーカップを持ったまま立ち上がった。
「電話するのよ」
山田の声が後を追う。<そんなことではないだろう。とり返しがつくような話しではないだろう。しかし、なぜこんなことになったのだろうか?千津子の存在が確かに大きかった。しかし、その前に何か擦れ違いがあったのではないだろうか。もしかすると彼女の思い過ごしのようなもの。そこのところが二人の間で言葉になっていなかった。言葉に出来ないわけではないと思うのだったが、踏み込み難い感じでもあった。無理に踏み込むと、彼女の中で、あるいは彼女たちの間で均衡がとれていた何かが崩れそうな感じー。たとえ近くに住んでいたとしても、その小さな共同体の者と本音で話したことのない絶対的多数者の日常の均衡が作りだしていたであろうと一方的な思い過ごしー。そんなものがあるのではないかー。そんなことを感じるのだったが、結局そこまでは踏み込めなかった。二人の間で通じる言葉がなかった。そんなことではなかったのかー。
その時リンク側のドアが開いて沖田が顔を出した。
「平崎さん、今夜山際がいるんだって?」
「そうらしいよ」
「嫌だねえ。俺たち作業終わるまで外にいるからよう、部屋の鍵頼むね」
「どこにいるの?」
「わかんないけどパチンコでもしてるよ。ロッカー入れ替える作業終わったころ電話するよ」
沖田が言って引き返す。平崎は宿直室に上がってさっきのマンガ本を引き寄せる。
やがて「蛍の光」が場内に流れた。平崎は事務室に降りた。そこへ山田が顔を出した。
「平崎君も今日は元気ないわね。何があったか知らないけれど、二人で病人みたいになってどうすんのよ。馬鹿みたいに。無理しなくていいから、電話するのよ。彼女必ず待ってるから」
そう言って山田は「蛍の光」を流したまま、いそいそとフロントの方に出た。何かで急ぐ時、彼女は最後のレコードをながしたまま更衣室に行って着替えを済ませるのだった。
山田を追うように彼もまたフロントに出てみた。ゾロゾロと客が出て行くフロントの向こう、暗い広場に大きな荷物を載せたトラックが二台留まっていた。彼は山際に言われたとおりフロントの鍵を全部開けてガラス戸を開いた。
その後いつもの通り鈎棒を持って場内の天窓を閉め、カーテンを閉めて回る。貸靴とシャワー室の上の中二階にあるロッカー室の前では、新しいロッカーを運んできたであろう作業員数名と、山際が立ち話をしていた。
その下のシャワー室の前で、沖田と石倉が裸になっていた。貸靴のカウンターにはもう人影がなかった。リンクサイドの場内係の部屋も人気がなかった。山際がいるため従業員の帰り支度が早い。規則通り営業が終わったら会社を出る。しかしそのまま帰ってしまうのではない。沖田が言った通り、山際がいなくなったら再び人影が戻り、それぞれの部屋が賑わう。従業員の話しによると小杉と平井は自分のアパートを持っていないらしい。だから彼らの住居はこの建物なのだ。
平崎は夜警員の最初の作業を終えて事務室に戻った。「蛍の光」もとっくに終わって放送室に人気はなかった。山田がいなくなり、場内が静かになった後、いつもなら場内の照明を消し、放送室に入ってショパンかモーツアルトの曲を流すのだった。それでこの建物はすべて平崎の世界になる。しかし今日もまた、しばらく我慢しなくてはならなかった。
机に座ってラジオのスイッチを入れ、ボンヤリしている時だった。電話が鳴った。受話器を取ると女の声が入ってきた。
「すみませんが。アルバイトの平崎おりましたらお願いします」
伯母だった。彼の仕事の手順がすっかり頭に入っているようだ。
「俺だよ」
「あらそう」
伯母の口調が変わった。
「この間はありがとう。やっと門の前きれいになったわ。お影でー」
「……」
随分遅れた礼だと思った。こんな時は表面の言葉以外に何か目的がある。もっとも、彼もまた小遣いをもらったまま伯母に電話をしてないのを思いつく。
「博子さんからもお詫びの手紙きたわよ。あなたが封筒転送してくれたんでしょう。新しい住所兄に知らせときますって。丁寧に書いてきたわ」
「それはよかったね」
「あなたねえ、あゝして時々私の家にいらっしゃいよ。小遣いだすわよ。私がどんな考え持っているかもう分かったでしょうし。あなたはあなたで、社会でいろいろ苦労してだいぶ大人になったと思うから、よかったら家にずっと居てもいいのよ」
やはり何か目的があってのことだ。漠然と目的もなく電話をするような人ではない。しかし女一人の暮らしは、地域の生活の中でいろいろとしんどいのかも知れなかった。
「いろいろ勉強はさせてもらってるけど、伯母さんと意見が合うかどうかはわからないね」
「意見合わなくてもいいのよ。お互いの立場を尊重して、お互いに迷惑かけなければいいの。そんなこと、あなただってもう分かるでしょう」
「そういうことは分かりますよ」
「この間土曜日にねえ、修平が来て泊まって行ったの」
「へえ」
「あの子ねえ、時々私のところに来て小遣いねだるんだけど、ここのところ一切あげないの。女房貰って所帯持ったんだから、女房ばかり働かせないで自分で働きなさいって言って。子供でも出来て、その子まで私が面倒見てたらたまんないもん。そしたらね、修平の奴、子どもが出来たら津沢に帰るっていうの。男としてだらしないけど、元々そんな子だったのよ。人ばかり頼って…」
修平は田舎の自分の相続分だとして三反の田圃を売って、東京に出てきたのだった。その後俺の母が家を維持している。自分の子供が出来たらそこに変える積りなのかー。平崎は思ったが口にはしなかった。こんなことにかかわりたくなかった。
「……」
「だから私言ったの。どこで何をしててもいいけど働かない男はだめよって」
「そうだよね。小説を書くのも仕事だけど。いつも人を当てにしてたらだめだよね」
「修平はねえ、そんなふうに考える子じゃあないの。だから私はあなたの方が偉いって言ったの。いろいろあってもちゃんと自分で働いて食べてるんだから」
いつになく伯母の声に落着きがあって、本気で話しているのがわかった。
「私ね、あなたなら私のところに来てもいいと思ってるの。病院も含めてよ。病院は財団法人だから私の勝手には出来ないけれど、あなたが来て私を手伝ってくれたら、それなりのことにはなるわよ。私だって全くの他人と一緒にやるよりいいもん。あなたもぼつぼつそんなこと考える時期じゃない?」
言われて彼はハッとした。伯母は本気で俺を口説いている。病院の経営の跡継ぎまで考えているのだ。こんなことは初めてだった。
「俺は子どものころから働くの嫌いじゃなかったな」
言葉とは別に平崎の脳裡には、伯母と二人で共有することが出来る歴史のイメージがあった。共有するがゆえに対立してしまうイメージ―。これをどのように扱えばいいのかー。
徳川幕府時代の社会的身分、武士・平民・賤民の身分序列が残したもの。その身分序列も呼称も近代社会になって否定されている。しかしなぜなのか、当時エタともヒニンとも一方的に呼ばれた最後の身分が今も取りざたされ、未解明な観念として日本人の心の闇となり、いまだ近代的言葉のなり立たない世界となっている。しかもそうした世界があるにもかかわらず、この国の知識人たちは、それを解明しようともせずに、多数者としての体制の体質ばかりを考える。そのために、雪原に生まれる見えないクレパスのように、ますます見えない部分になっているー。
「私が今言ったこと考えてみてー。それぞれ考えが違うのはいいの。違うのがあたりまえだもん。だからその違いをお互いに尊重しあって、絶対に迷惑掛けないようにしょうよ。相手が嫌がることは絶対にしないことにして。そうすれば、お互いに束縛しなくてすむでしょう」
「少し考えてみますよ」
その時、千津子のことが頭に浮かんでいた。千津子と一緒にこの伯母に会いに行く話をした。いきなり実現はしなかったものの、可能性がなくなったわけではない。つきあい初めて二回逢ったばかりだ、早すぎると思うのは当然かも知れない。しかし今後のことを考えると、伯母の存在は大きいと思った。どうしても千津子を合わせたい人物だった。
「そうしてちょうだい。一人で生きるのも立派なことだけど、人の援助があった方がより大きな仕事が出来るのよ」
「そうかも知れないね」
「近いうちいらっしゃい。ゆっくり泊まって行けばいいわよ」
「有難う」
「じゃお休み。章行」
「お休み伯母さん」
電話が切れた。初めて経験する、ほのかに暖かい電話だった。
十時の巡回の時、中二階ではこれまでより一回り大きいロッカーが担ぎ込まれて作業が続いていた。少し離れた手摺の所に背広姿の山際が立っていた。そしてその時初めて気づいたのだったが、その横に従業員の間でクロークの小母さんと呼ばれる眼鏡の女、横原頼子がいた。一緒に作業を見守っているのだろう。この女もこの施設のクローク係としては古株の一人だという。この施設はこうしたベテランたちの知識と経験と技術によって運営されているだろう。本社からすると、そうした者を資金を持たない働くだけの奴隷のように見ているかも知れない。しかしもしかすると、それは逆なのかも知れない。最近になって平崎の脳裡にそんな思いが走ることがある。山際がよい例だ。支配人という役を持って本社から派遣されているとはいえ、現場のことは何もわかっていない。わかろうともしない。奴隷に任せておけばよいと思っているのかも知れないが、そうした山際こそが資金を持つ経営側の、資金が求める営利だけを計算する奴隷として派遣されているのではないかー。
リンクの周りにある様々な技術者、知恵者たちの控室はどれももぬけの殻だった。昼間のにぎわいが嘘のようだ。こんなに見事に人が消えたのは平崎には初めてのことだった。部屋に人気がないのでよけいに感じられるのだろうたが、部屋は意外と整頓されている。きれいに磨かれているとはいえないものの、制服やスケート靴、自分たちの普段着や私物などが、きちんと区別され、仕事の手順に支障がないよう配慮されているのがよくわかるのだった。プロフェッショナルな意識ではなかろうか。仕事を離れた時の彼らの言行はかなり荒っぽいのだったが、彼らは同時に、一つの施設の運営と安定に心を配っている運営者なのがよくわかる一瞬だった。
一回目の巡回を終えて事務室に戻った。自分の仕事としてはいつもと何も変わらない様子だった。変わったところと言えば従業員の控室に人影がなかったこと。しかしこれは会社の経営陣からするとむしろ理想なのかも知れない。そんなふうに考えると、今日はめずらしく静かに一日の営業が終わろうとしていた。
ラジオのスイッチを入れ、いつものようにスポーツ新聞を広げていると、しばらくしてフロントで靴音がした。続いてドアが開く。
「平崎君。全部終わったから、後頼むよ」
山際の声だった。平崎は立ち上がってフロントに出た。作業員たちがそれぞれ山際に頭を下げて外のトラックに向かっていた。
「フロント全部鍵閉めますよ」
「いいよ」
山際が言って、背広の裾を翻しながら本社の方に歩いた。同時に事務室で電話が鳴った。急いで事務室に戻って受話器を取った。
「平崎さん、山際出た?」
沖田だった。どこかで見ていたかのようなタイミングだった。
「今帰ったよ」
「フロントの鍵開けといてね」
「わかった」
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