『死・悲劇・貧困』(7)《知の共産化》私有財産・競争原理・死の人間学 (はしがき導入部)
- 2015年 11月 5日
- 交流の広場
- 武田明
ちきゅう座は、インターネット掲示板の域に留まらず首都圏講演デモ情報も交えて、京都、沖縄その他、海外にまでの波及を保持しながらかなり善戦しているのではないかと僕としても情報の宝庫でありながら発信基地として他に類を見ない唯一性がある故に、感謝にたえません。
(もう少し投稿参加者を増やしていきたいですね、増えないのが不思議です)
さて、僕としては、誰もが、避けられないであろう《知の共産化》としての必然性の哲学をまず、誰にでもわかるものとして、仕上げたいと日々、考えを巡らせているのですが、内容的な問題もあり、とても一人で仕上げられない。
到底無理な話であるのが、個人から社会への関わり。
エンゲルス的な補助者、協力者を必要としている関わりこそが、社会主義であり、共産主義への歴史的展開の協同性そのものではないのかと考えているのです。
プライベート牢獄を脱し、対話する連帯の場を築くだけで、かなりの資本主義収容所から社会主義的協調への改革が前進する必然であると言う発想の展開に他ならない。
思想的実践は、断片ではなく、その都度、有機的全体であり、その様に、仕上げていかねばならない。
既に、ここに提起されている問題を解消される方がいたのだとしたなら、乗り越えとしての協同が、そこにあるのであり、僕自身も次のステップに進めることになります。
その様な、積み重ねとしての社会主義的実践の基礎としての問いは、どこから始まるのかを僕なりの素描を試みた源流こそが、以下となるわけです。
是非、ご意見をお聞かせ頂けたなら幸いです。
『死・悲劇・貧困』
〈はしがき導入部〉
生きている時間を規定する意味でも死の問題が僕にとっても最重要な哲学的課題であり続けてきた。
ブッダにとっても手塚治虫にとっても最重要であったが故に、『火の鳥(永遠の生命=個の死滅を乗り越えて歴史を傍観する眼)』としてのSF想定もあったのだろう。
若者が、太宰治の文学から死を学んだり、カルト宗教に引っかかったり、早熟で多感であればある思春期ほどこの問題は、解けない難問として立ちはだかり続けてきている。
「いずれ死ぬかも知れないがまだまだ先の事なのだから考えなくても良い」
その様に、誤魔化す人生を良しとしないのは、「日常性への頽落」を規定しているものがまさしく、「死」であり、20世紀最大の哲学とされるハイデガーの「先験的決意性」「死と良心」、《死こそが、生きている時間を規定しているものである》
それを考えずに、何も始まらず、何も規定されないことに気がつかれる前提があるからなのだ。
前回、佐藤優氏の神学を紹介しているが、マルクス以上の無神論問題こそが、神学から「野の道」へ至るハイデガーの壁があるわけである。
仏陀、仏教の輪廻、漫画『ドラゴンボール』の安易な死生観、(天国の輪っかをつけているだけで死なない、透明になるだけ?)、霊を信じ、死後も生き続けるのだと考える人類の宗教史から心霊写真的発想まで、死を一時的に、処理、または誤魔化し生きる術とするありかたは、ウェーバーの『プロテスタントと資本主義の精神』に至るまで合致しているものであり、盲目的文明観の中で、保留されてきた人類の宿題であり、哲学的な問題から「悲劇」性としての社会学的考察、更に、「貧困」としての経済学的関わりについてまでの根底として、実は、繋がっていることを問い出したいとするものこそが、《知の共産化》の基礎となる。
何故、繋がっているのかと言うと「先験的決意性」「良心」として繋がっているのと同時に、それが、「日常性への頽落」であるのか?生とは何かの問いのアンチテーゼとしての死=無=隔絶性とは何かの問いであり、実は、「死とは何か」の問いを規定しているものとしての「生」の対置があるのであり、相互連関性としての問いとしての「死とは何か」その問いであるのだが、シェークスピアの悲劇、モリエールの喜劇、文学的日常性から社会学的規定に至るまでの関わりがあるだろうと言う程度の意味に他ならない。
「死の問題に無関係なものは実はないのではないだろうか」この逆説に辿り着く事となる。
更に、「貧困」「飢餓」は、経済学的問題であると同時に、医学的問題、生理学的問題意識として、「死」そのものの直接性の問題意識であり、これは、学校で習うものであったり、一部の階級に独占されていてはならない、まさに、《知の共産化》として共有されるべき、共通分母である事の確認から開始されなくては何も始まらないのだと明確にされねばならない最初の確認事項となっている。
『死・悲劇・貧困』は、それぞれ、独自に主題化もされるのであるが、人間的統一性としては、やはり、有機的問題意識である事は、頷いていただけるのではないかと考えている。
人間のその有機的問いである直観に対して、言葉が何を意味するのかは次の問題となって現れてくる。
誰の死にも無頓着ではいない社会、誰も不慮の死を遂げないミステリー小説が可能かの問いが、共産主義社会の理想であるのだとしたならそれは、最初から不可能だろうとするのだろうか。
少なくとも人災を避け、天災、自然と向き合っていく基盤も「死・悲劇・貧困」としての明確なる人間学の理解こそが、近道ではないかと今後、その都度、この問いを仕上げながら、「日本の社会の問題点」「日本の革命」「政治学深化」について語っていきたいと考えている。
続く。
11月1日に、「マルクスとアソシエーション」があり、
(こちらについても少々コメントしていきたいのですが、告知されている様に、16日たんぽぽ舎×柄谷行人企画も控えているので合わせて語れたならと思っています。)
11月2日、3日、前回の続きを書いていたのだが、膨大な分量となってしまい時間的に、頓挫しているのでまた、全体への冒頭文を上記の様に、改めて書き出した次第でした。
以下は、今後の予定。
(7)《知の共産化》私有財産・競争原理・死の人間学
前回の(6)にて、競争原理、市場原理を妨げている独占資本主義の弊害について述べたので、そもそも私有財産とは何かを仕上げる事から《知の共産化》としての必然性とは何かについて触れる意図を明確にして行きたい。
(8)共産党アレルギーと野党共闘、政治学改革深化論
具体的野党共闘論としての日本共産党の位置付け。
(9)見えない敵とどの様に対峙するか?アメリカ的な支配とTPP情報戦争論
植草ブログにて、更新されている日本郵政問題から橋下NHKアメリカ陰謀説に至る情報支配、半植民地的日本に対しての日本知性化戦争についての展開と情報共有理解実践について書き出していきます。
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