暗い話と悪い話──先週の新聞から(11)
- 2011年 1月 13日
- 時代をみる
- 先週の新聞から脇野町善造
この報告の(9)で「年の最後くらいは明るい報告にしたいと思う」と書きだし、経済に明るい話は本来ないから、そんなノー天気なことを報告することはできないとして諦めた。とはいうものの、年の最初こそは多少なりとも希望の見える報告ができないものかと思って記事を眺めていた。しかし今年はそんなものはなかった。
思い出すのは、1997年の新年である。1997年1月1日付けの日経は、「急成長続くアジア 世界景気けん引役に」という表題をつけた座談会の記事を載せていた(振り返ってみれば、この年の暮れまでまだ私は経済紙としての日経を読んでいた)。この座談会は、次のような発言で締めくくられていた。
(引用始め)今やアジアの発展が非常に大きなデモンストレーション効果をもたらしつつある。……アジアが世界の開放体制を維持する柱になる。(引用終わり)
タイや韓国の先行き不安などは何も語られていない。年頭の日経には、「アジアは回復へ」(1月3日)、「成長鈍化は一時的 回復軌道へ」(6日)、「減速要因は短期的」(同日)、「先行きは悲観すべきではない」(8日)といった見出しが踊っている。8日付の日経には、シンガポールの銀行エコノミストの談として次のような記事が見られる。
(引用始め)アジア経済の成長鈍化は、循環的要因と構造的要因の二つが混在しているが、先行きを悲観すべきではない。構造的要因は深刻なものではないし、景気サイクル面でみても底に近付いている。アジア経済は4-6月には上向くであろう。/通貨の急激な変動で不安定になる可能性がある。(しかし)……世界の成長センターとしてのアジアの地位は不動だ。(引用終わり)
これがごく普通の見方であった。1997年の早い段階から鋭い警告を発していくことになった、Economistも、新年最初の号(1月4日号)では、「世界経済は、第一次世界大戦の開始前以来初めての、同時的一体的成長への踏み出し点に立っているのかも知れない」というリードを付け、OECD やIMFの報告を引く形で、アジアを含めた世界経済の明るい見通しを展開している。アジア経済については次のように書かれていた。
(引用始め)アジア経済の奇跡に翳りが見えだしたのではないかという危惧はIMFもあっさりと振り払っている。アジアの何カ国かでは1996年に、輸出が躓いたために、成長率が大きく低下した。しかし、ほとんどのエコノミストはこれを循環的な下降と見なしている。IMFによれば、循環は上向きに転じつつある。IMFは、楽観的に、1997年のアジアの途上国の成長率を7.5%と書いている。(引用終わり)
この「第一次世界大戦の開始前以来初めての、同時的一体的成長への踏み出し点に立ってい」るかもしれないとされた世界経済は、だが、この年7月のタイの通貨危機から、一気に世界恐慌寸前のような混乱に陥った。甘い話をするとろくなことがないという証拠かもしれない。
そこに行くと、暗い話や悪い話ばかりの今春の新聞の報道の方が、逆に今年の経済は堅調に推移するという予感を持たせることになるのかもしれない。もっとも何をもって「悪い話」とするかは、難しいところである。1月4日のFinancial Times (FT)は、2011年はグローバル化がヒト、カネ、モノ、のいずれの面においても逆転するかもしれないと書いている(「グローバル化は2011年に後退するのか」)。欧州を中心とする移民制限の動き、世界通貨戦争、中国の「重商主義政策」への対抗としての保護政策、といったものがその根拠とされる。FTは「グローバル化が脅かされている」と書いているから、グローバル化の後退はFTにとっては望ましくないことのようだ。しかし本当にそうなのかどうかは疑問である。FT自身がいみじくも語っていることだが、「グローバル化は世界のすべての主要国が力強い経済成長を遂げていた時期に花開き、定着した」。ここでFTのいう主要国とは先進国のことにほかならない。つまりは、グローバル化は先進工業諸国にとって都合のいいことであるから、定着したのである。それが反転するかもしれないというのは、途上国の追い上げによって、今のままのグローバル化はうまくいかない可能性が出てきたことを意味する。グローバル化もその反転も先進工業国の都合によるものだとすれば、それは別に先進国にとっては「悪い話」でもなんでもない。むしろ、「反グローバリズム運動」のほうが、方針の再点検を迫られるということではないのか。
次の報道は判断に全く苦しまない「暗い話」である。1月5日付のEl País は、失業と負債でスペイン人の間にペシミズムが広がっているというスペイン銀行(中央銀行)の最新の調査結果を報じている。何事につけ陽気なスペイン人もついに音を挙げ始めたということであろうか。1月8日付のEl Paísは、投資家がポルトガルと並んで、スペインに対しても疑念を募らせていると報じている。ギリシャ、アイルランドの次はポルトガルがおそらくは危機に陥る。スペインも危ないという。「不動産価格の崩落以外に何一ついいことはない」、というのはスペインの失業中の若い友人からの「新年の挨拶」であった。
「悪い話」ではなく、「驚いた話」もある。1月7日付けのWall Street Journal は「ガイトナー米財務長官は、連邦債務は3月末にも上限に到達すると警告した」と報じた。この上限が変更されなければ、「デフォルト」(支払い不能)に陥るということである。アメリカはいずれデフォルトを起こす、ということは何年も前から言われてきた。しかしそのたびに債務の上限の引き上げて、デフォルトを回避してきた。今回も粛々とそうすればいいのに、デフォルトを起こすと脅しにも似た警告を発したというのは、議会の多数派が共和党である状況では、この上限変更が簡単にはいかないということの裏返しであろう。ここまで議会対策が難しくなっているとは驚いた。オバマ政権は安易な上限変更には応じそうもない共和党とどういう取引をすることになるのであろうか。
「驚いた話」をもう一つ。1月7日の読売新聞は「世界経済混迷 通貨安競争の回避に具体策を」と題する社説を掲げた。「具体策」がまるで書かれていないことに「驚いた」わけでは勿論ない。そんなものが簡単に見つかるわけがない。驚いたのは、「世界経済の混迷」の材料を羅列するという書き方である。「混迷」に見える多くの現象の中には、波及的現象や、本当は「混迷」でもなんでもない現象もある。ジャーナリズムに求められるのは、そうした多様な現象の中から焦点を絞り込んで、課題を指摘することではないのか。この日の読売の社説からは「混迷」の焦点は見えてこない。
新年早々から恐縮であるが、お詫びをしなければならない。先週の報告(第10便)で、元旦の朝日の広告に触れて、「経済学は理系を求めてはいない」と書いた。これに対して、古くからの理系の友人が意見を寄こした。彼は次のように言う([zw]が私の文章、[⇒]の次が友人の意見、[:]の次は友人が挙げたその理由である)。
・少なくとも「経済学」は理系を求めることはないはずだ。[zw]⇒ 少なくとも「経済学」が理系の学問ではないはずだ。:経済学がcool head一辺倒で、warm heartに欠けるのでは困る。
・社会科学の中で経済学ほど数学を始めとする理系に親近性のある分野は少ないが[zw]⇒ 社会科学の中で経済学ほど数学を始めとする自然科学に親近性のある分野は少ないが
:この方が呼応関係がはっきりする。
・「数学よりも国語を、砂上の楼閣よりは現実の経済を勉強することを選ぶ人」だったそうだが、理系の人間にそれを望むことは酷な話である。[zw]⇒「数学よりも国語を、砂上の楼閣よりは現実の経済を勉強することを選ぶ人」だったそうだが、理論や数式に秀でただけの理系の人間にそれを望むことは酷な話である。:この方がイメージが具体化される。
以上が友人の指摘である。理系の人間らしい、厳密な意見であった。全て異論はない。お詫びして訂正したい。友人の指摘はまだあるが、紙面が尽きた。別の機会に譲りたい。
ろくに検討もせずに、勝手なことを書いている。したがって、批判や異論も多々あろうかと思う。できたら、それを聞かせて頂きたい。お詫びのついでにお願いしたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1159:110113〕
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