「神代史」批判と〈脱神話化〉の意味―津田『神代史の研究』再読
- 2015年 11月 24日
- スタディルーム
- 子安宣邦
〈大正〉を読む・11
「神代史」批判と〈脱神話化〉の意味
―津田左右吉『神代史の研究』を再読する
「その大和の国家の君主の家が統一国家の首長としての皇室となられたのである。国家の統一は民族の内側に発生した事件であり、皇室は民族内部に於ける存在であるので、ここに国民と民族とが同義語として用い得られる民族国家としてのわれわれの国家の特性がある。」 津田左右吉『文学に現われたる国民思想の研究』一「序説」
1 「神代史」の〈脱神話化〉
私は津田の『神代史の研究』をその記述と方法に共感しながら読んでいったわけではない。これを課題とすることを自分で定めながら、実際にこれを読み始めて、その読みにくさに閉口した。共感するどころか、違和感の方がはるかに私には強かった。だが記紀「神代史」の本文批判の諸章を何とか読み終えて、「神代史の結構」(第17章)から最終章「神代史の性質及び其の精神」(第24章)にいたる結論の諸章を読むに及んで、私が違和感をもち続けた本文批判の作業が記紀「神代史」の徹底した〈脱神話化〉を導くものであることを知って驚いた。この驚きから私はあらためて『神代史の研究』そのものを読み直し、とらえ直したのである。前回の講義「津田は「神代史」に何を問うたか」は、私のその読み直しに基づく報告であった。ところで私が驚いた津田による「神代史」の〈脱神話化〉的解体的読みのすごさは、次の一節に集約されている。
「さて上代の思想に於いては、天皇は「現人神」または「現つ神」であらせられる。政治的君主を宗教的にいえば現実に人たる神である。神代とは、観念上、此の神性を「現人神」から抽出して、それを思想の上で形づくられた遠い過去の皇室の御祖先に於いて具象化せしめ、其の時代をなづけたものであるが、宗教的崇拝の対象であり霊物として見られていた太陽を皇祖神としたことによって、それがおのずから充実せられ、また神の代としての其の色調が鮮明になった。或はむしろ皇祖神たる日神が此の具象化の核心となったという方が適切であろう。そうして此の神代を、同じく思想の上で形づくられたヤマト奠都の前とし、それから後を人の代と定めたことは、神代という観念が政治的なものであり、また皇室によってのみ意味のあるものである証拠であるが、それが即ちまた神代史の性質が上記の如きものであることを語るものでもある。更に具体的にいうと、神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである。」(第22章「神代史の性質及び其の精神」上)
「神代という観念」は「政治的」なものだと津田はいう。大正13年(1924)のものとしては、これは驚くべき言葉だ。彼が「政治的」というのは、たとえば「タカマノハラ」という観念は宗教的でもなく、宇宙論的でもなく、ただ「政治的」だと津田がいうことと同じ意味においてである。「(タカマノハラという観念は)太陽が皇祖神としてあるところから生じたものであって其の外に意味が無い、ということを述べ、我が皇室の源は斯ういう意味のタカマノハラにあると説いてそれを全篇の中心思想としている神代史の精神を明かにしようとした」のが本書『神代史の研究』だという津田の言葉が「政治的」ということの決定的意味を伝えている。
では「タカマノハラ」が「政治的」であり、「皇室的」な観念であることは何を意味するのか。「それは本来一般民衆の思想とは交渉の無いものであるから、神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものであるということも、また之によってたしかめられよう」と津田はいうのである。何度もいうようだが、20世紀前期日本で記紀「神代史」の政治的(=皇室的)な観念的構成をここまでいいきった学問的言説を私は知らない。
2 二重の〈脱神話化〉
「神代史」とは、津田がいうように「人」と「人の代」からはっきり区別された「神」と「神の代」の物語である。その意味でこれを〈神話〉だということはできるかもしれない。だが津田において〈神話〉とは〈神々の物語〉という意味においてだけである。「人間は、いつの時代どこの場所でも必ず神話を持ち、それによって世界や人間や文化の起源を説明し、神話が提供する範例に従って、社会を組織し生活することを続けてきた」と神話学者吉田敦彦は〈神話〉を定義していっている[1]。この〈神話〉の定義にしたがってわが「神代史」を見るならば、もっとも〈神話〉的とされる『古事記』においても、後の潤色の跡を止めた多くの切れ切れの〈神話的〉説話とその再編成からなる〈神話的〉記述をわれわれは見出すしかないのである。
『古事記』とは、これを〈神話〉だというものによってしか、あるいはこれを〈日本神話〉だと信じるものによってしか〈神話〉ではない。神話学者たちが『古事記』を〈日本神話〉として再構成し、国家神道主義者が〈日本神話〉として信じ、国民にそう信じさせたのである。昭和の日本人はこれを〈神話〉だと信じさせられたのだ。記紀「神代史」が日本の〈神話〉になったとき、天皇はたしかに〈現人神〉になったのである。津田の『神代史の研究』が発売禁止の処分を受けるのは昭和15年(1940)である。
話が先に進みすぎたが、津田は「神代史」を〈神〉と〈神の代〉の物語として〈神話〉だとしても、記紀「神代史」のどこにも口誦伝承された〈神話〉の跡を彼は見出すことはなかった。津田が見出したのはすでに編述された文辞からなる〈神話〉的テキストだけであった。記紀「神代史」とは、すでに編述された「旧辞」という断片的〈神話〉テキストをもう一度編み直し、作り直した〈神話〉すなわち〈神の代の物語〉テキストであるにすぎない。津田はこれを「作り物語」だというのである。
「また神代の物語は、だれが読んでも、実際の人事で無いことがすぐにわかるように書かれてある。勿論、神武天皇以後の物語も、決して其のままに歴史的事実とは見られないが、大体に於いて人事らしく書かれてあるから、神代巻とは全く性質が違う。これは記紀の編者が神武天皇以後と所謂神代との間に截然たる区別があるものと考へていたからである。言を換えていうと、神代の物語は歴史的伝説として伝わっていたものでは無く、作り物語であるということを示しているのである。」「しかし神代史は其の間にいくらか歴史的事実の反映が含まれているにしても、其の全体の結構が空想から成り立っているのであるから、これとは(神武以後とは)性質がちがうのである。」(『神代史の新しい研究』「緒論」)
記紀「神代史」が「作り物語」であるならば、この物語の構成者の意図が問われてくる。津田はその意図を「神代史」という構成に見る「性質」「精神」、あるいは「神代史」の構成から読みうる「思想的事実」として明らかにするのである。「神代史」の「精神」とは何かとはすでに本稿の序章に引いた津田の言葉が明らかにしている。それをくり返して引けば、津田は自著『神代史の研究』が明らかにする「時代史の精神」についてこういっていた。「此の観念(タカマノハラという観念)が太陽を皇祖神としてあるところから生じたものであって其の外に意味が無い、ということを述べ、我が皇室の源は斯ういう意味のタカマノハラにあると説いてそれを全篇の中心思想としている神代史の精神を明かにしようとしたのである。」「タカマノハラ」がこのように皇室にのみ意味をもつものとして構成された観念であるならば、「それは本来一般民衆の思想とは交渉の無いものであるから、神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものであるということも、また之によってたしかめられよう」と津田はいうのである。
私は津田の「神代史」の批判的作業を〈脱神話化〉的作業だといった。津田の〈脱神話化〉は、まず記紀「神代史」という「神代の物語(神話)」の伝承性を否定するところにある。「神代史」を構成するのは〈伝承神話〉ではない。それは語り直され、記し直された「作り物語」としての〈神話〉である。そして「作り物語」としての「神代史」は、日神を皇祖としてもったヤマトの統治者の神性の由来を語っていくのである。その〈神話〉は政治的であり、皇室にのみ意味をもった、民衆とは無縁の物語である。これが第二の〈脱神話化〉である。このように記紀「神代史」は津田において二重に〈脱神話化〉される。
3 宣長と津田
私はいま津田による「神代史」の〈脱神話化〉作業の意味を考えながら、これを宣長の『古事記伝』という〈脱神話化〉作業と対比してみたいという誘惑を感じている。こんなことをいえば津田の側に立つ人も、宣長の側に立つ人も私の非常識にともに呆れるだろう。だが宣長と津田は〈漢・シナ〉に対する〈やまと・ニホン〉という強いナショナルな意識において共通していたし、宣長の『古事記伝』は中世神道的テキストからの〈脱神話化〉的注釈作業であった。そして津田と宣長との対比が決定的な意味をもつのは、彼らの〈脱神話化〉作業が導き出した『古事記』の「精神」においてである。
宣長は津田が「神代史」として記紀を一つにして見ることに対して、『日本書紀』を斥けて『古事記』を選びとった。だが私のこのいい方は転倒している。宣長が『古事記』を選んだことに対して、津田は記紀を一つにして「神代史」を考えたというべきだろう。ともあれ宣長は『古事記』を選んだ。「彼(書紀)はもはら漢に似るを旨とし、此(古事記)は漢にかかはらず、ただ古への語言を失はぬを主とせり。」(『古事記伝』一之巻・総論)。宣長はわが語言(やまとことば)を主としたテキストとして選んだのである。ここには口誦の言語こそが真言だとする言語観がある。この言語観を津田は宣長と共有している。両者に共通するのは漢字とそれによって構成される観念的知識体系への反感である。宣長はそこから「ただ古への語言を失はぬを主と」した『古事記』を採った。津田は記紀の「神代史」はともに漢字の導入によってはじめて成立した記述だと考える。漢字とその知識体系は記紀「神代史」のテキストに浸透し、この「神代史」を編んだ貴族知識人に浸透している。津田が記紀「神代史」にわが「民族」も「民衆」も見出すことはできないとするのは、彼のこの漢字言語観と深くかかわっている。
宣長は『古事記』の漢字漢文表記のテキストからわが「古えの語言」を読み出そうとした。わが古え人の言葉は真言である。真言とは真事、すなわち事実である。宣長は『古事記』を神代から伝えられる聖なる〈事実〉の記録としたのである。『古事記』には「神の道」などがことごとしく説かれてはいない。もしわが道があるとすれば、それは古えから伝わる〈神代の事実〉に備わる道でしかない。宣長は『古事記伝』の「序」である『直毘霊』でこういっている。
「そも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからの道にもあらず、人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、神祖伊邪那岐大神・伊邪那美大神の始めたまひて、天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。」そしてそれは「天皇の天ノ下しろしめす道」にほかならない。
これが宣長が〈神代からの伝承的事実〉としていう「神の道」である。宣長が『古事記』の脱神話化的注釈作業によって導くこの「神の道」を見れば、これは津田が記紀「神代史」の脱神話化的本文批評によって導く〈「神代史」の思想的事実〉とほとんど同じであることを知るのである。津田はいっていた。「神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである。」(第23章「神代史の性質及び其の精神・上」)
『古事記』の神代の巻、あるいは記紀「神代史」が語るのは「現人神」である天皇による天下統治の道の神代からの由来だということにおいて、宣長と津田とは異なるところはない。ではどこが違うのか。天皇観、皇室観の違いだろうか。津田は『神代史の新しい研究』(大正2年刊)とほとんど同じ時期に執筆された『文学に現われたる我が国民思想の研究・貴族文学の時代』(大正5年刊)の「序説」で皇室による民族的統一についてこういっている。
「大体からいうと、一旦統一せられた後は、多くの豪族等は喜んで我が皇室に帰服していたので、皇室と諸氏族との間には親和な関係が成り立つようになった。だから皇室も威力を以て彼等を抑圧せられることがなかったのである。やや後になって出来たものではあるが、皇室の本源を説くために作られた神代史が、天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと祖先を同じくし血統を同じくせられ、国民という一大家族の内部に在って其の核心となっていらせられるとして、皇室の威厳を力強く示すよりは親愛の情を主として説いてあるのも、やはり斯ういう実際の状態から生じたことである。」[2]
ここに見る「国民という一大家族の内部に在って其の核心」をなすものという言葉には、津田における近代の君主制的国民(民族)国家日本の皇室観が投影されているように思われる。津田は「神代史」にその祖型的成立を見ているようである。そのことをよりはっきりと見せるのが、本稿冒頭に引いた戦後改訂版『国民思想の歴史 第一巻』の「序説」の言葉である。そこには民族内部の皇室による国家統一に民族=国民国家の理想的成立を見る津田の見方がはっきりと示されている。津田は皇室を核とした民族=国民国家としてのニホン以外のニホンを考えることはなかった。それでは宣長と津田が昭和日本にもった違いをどのように考えるのか。それは宣長と津田のどのような違いに由来するのか。
4 〈再神話化〉と〈脱神話化〉
宣長による「天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道」すなわち「天皇の天ノ下しろしめす道」という「神の道」の『古事記』からの読み出しは、『日本書紀神代巻』の儒教形而上学による解釈が構成する密教的神道神話世界の〈脱神話的〉な解体を意味した。それはたしかに18世紀における神道の革新であった。この宣長によって革新された「神の道」を近代の神道史家は「復古神道」といい「古学神道」と名づけた。宣長の新たな「神の道」は、『古事記』における「神代」からの歴史的伝承的事実に基づく天皇主義的国家神道を近代日本に構成していくのである。宣長の『神代巻』の〈脱神話化〉としての「神の道」は、『古事記』の天皇主義的な〈再神話化〉を近代日本にもたらすのである。
では津田の記紀「神代史」の〈脱神話的〉な理解、すなわち「神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものである」という大正13年(1924)の「タカマノハラ」の観念をめぐる津田の理解は何を意図し、何を意味するものだろうか。それは上に見たような『古事記』の天皇主義的再神話化への批判を意図したものだろうか。だが『古事記』や「神代史」の再神話化がはっきりとなされていくのは、昭和における国家主義的ファッシズムの登場とともにである。津田の記紀「神代史」批判が昭和の天皇主義的な記紀の再神話化への批判としての意味をもつとするならば、それは津田の著述が昭和に事後的にもっていった意味であって、彼の著述意図としてあったものではない。
津田の記紀「神代史」の脱神話化的批判は、近代日本の歴史学における〈神話学〉的「神代史」解釈に向けられている。津田の『神代史の新しい研究』の執筆動機についてその「序」で語っている。津田が師とする白鳥庫吉と「神代史」の解釈について語り合うと、「先生の説は根本的に僕の考とは違っている点があるので、そこになると、まるで話が合わない」という。この白鳥との間にある「神代史」解釈をめぐる根本的な違和感が、津田の『新しい研究』の執筆動機をなしているというのである。白鳥も津田の『新しい研究』に寄せた「序」で、「神話の一部を構成する我等の祖先の思想としての宇宙観が、どういうものであったか、是等の論点は、互に見る所が違っていて、殊に神話の全体を貫通する我が国体に関する精神の観察については、ふたりの間に大きな懸隔があった」[3]といっている。
白鳥と津田のこれらの言葉からすると、津田の『神代史の新しい研究』は白鳥の「神代史」研究あるいは〈神話学〉的「神代史」理解に向けてなされた批判的著述だと思われてくる。少なくとも白鳥「神代史」批判を主要なモティーフとした著述であることに間違いはない。
白鳥の「神代史」の諸論考は没後『神代史の新研究』[4]にまとめられた。いまここで白鳥の「神代史」研究について詳しく論じる余裕はない。津田が「神代史」の批判的解体作業の〈核〉をなす観念とした「タカマノハラ」について白鳥のいうところだけを見てみよう。
「高天ノ原は光明の神。至善の神の世界であって、凡ゆる善は此の世界から発生するのである。夜見ノ国は闇黒の神、至悪の神の住む世界であるから、凡ゆる悪は此の世界から発生するのである。かようにして、善悪明闇の二世界が相対して人の信念に湧出してくるのである。そうして顕国はその間に位する故に、此処では善悪生死、相交叉混合して所謂世界相を生ずるのである。是れ即ち我が神代史に高天ノ原と夜見ノ国との間に顕国が現出しているものと記載せられたわけである。是の故に、此の三大国の中、天国と地国とは幽界即ち観念思想上の世界であって、顕国は現実の世界である。」(第五篇 高天ノ原と天孫降臨の章)
私はこれを写しながら、これは平田篤胤の『霊の真柱』の「三大考」的世界ではないかと、広汎な文献学的知識を駆使する東洋学者白鳥の「神代史」理解に呆れかえる思いがした。私は白鳥のこの「高天ノ原」観を知って、はじめて津田の「要するにアシハラノナカツクニとタカマノハラとは共に現し国を構成するものであり、其の間の関係は政治的なものである」と怒りをぶつけるようにしていう意味が分かった。津田の『神代史の研究』の結論は怒るような厳しさをもって書かれている。この津田の著述の向こう側に白鳥先生の『神代史の新研究』をなしていく多くの講演・講述の展開を見ることで、はじめて津田の文章の怒りも理解される。津田の「神代史」の激しい〈脱神話化〉的解読作業は、日本の近代史学による「神代史」の民族学的・民俗学的・宗教学的・神話学的な〈日本神話〉の再構成に対する批判的作業である。このことを知っていたのは白鳥だけであるかもしれない。
津田は〈神話〉的に潤色されない君主制的民族(国民)国家ニホンの成立を願っていたのであろう。その意味で津田こそが近代日本でもっとも近代的な歴史学者であった。その津田を昭和の全体主義は法廷に引き立て、歴史家の筆を取り上げようとした。そして『古事記』を再神話化し、国家的神典にしていったのは昭和の全体主義者であった。
[1] 『岩波哲学思想事典』(1998)。
[2] 津田『文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代』(『津田左右吉全集』別巻第二、岩波書店、1967)。
[3] 白鳥庫吉「序」(津田左右吉『神代史の新しい研究』、『津田左右吉全集』別巻第一)。
[4] 白鳥『神代史の神研究』岩波書店、1954(『白鳥庫吉全集』第一巻、岩波書店、1969)。
初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.11.22より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study677:20151124〕
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