内海愛子講演録: アジアから見る日本―「戦後」70年と私たち
- 2015年 12月 13日
- 評論・紹介・意見
- 「ピースフィロソフィー」
日本の降伏による第二次世界大戦終結から70周年の最後の月、12月は南京大虐殺を記憶する月でもあります。今日は1937年12月13日の南京陥落から78周年の日(「南京」関連の投稿も今準備中です)。今日の投稿として、日本の戦争責任研究の第一人者である内海愛子氏による、東京都歴史教育協議会の第48回研究集会(2015年2月22日)における記念講演の記録を許可を得て転載します。前の高嶋道氏の投稿に続き、の『東京の歴史教育』第44号(2015年8月)に収録されました。
内海愛子氏 |
……私たちは戦後、植民地支配の清算をどこまで考えてきたのでしょうか。被害体験は、はじめにお話ししたように自分をふくめて実体験がありますから、わかります。しかし、隣に暮らす在日朝鮮人や台湾人の人びとの処遇をどこまで考えてきたのだろうか。私たちの無関心のなかで、政府は、戦後、国籍と戸籍を上手く利用しながら旧植民地出身者の人たちをこのように排除してきたのです。
……今、最大の問題として、いわゆる「慰安婦」の問題が出ています。私たちはアジアとの関係でどのような戦後処理をしてきたのか、被害者として、加害者としての視点から、あの戦争を考えることができるようになりました。加害の責任と同時に、被害を受けたことをふまえてアジア太平洋戦争とは何だったのかを考える、戦後70年というのは、それが可能な地点だと思います。
……サンフランシスコ条約の枠組みの中でおこなわれてきた韓国、中国との日本の戦後処理の問題点があきらかになる中で、日本は改めて植民地主義をどう清算し、植民地支配の責任を背負っていくのかが問われている、それが現在だと思います。
これら、内海氏が年の初めに提起した戦後70年の責任を日本人はどれだけ果たしてきたいるでしょうか。今、政府の右傾化に勢いづけられるかの如く、日本には、そして海外にいる日本人の間にまで歴史否定、歪曲、日本の隣国を憎しみ蔑むヘイト的言説が席捲しているように見えます。そして、「平和を願う」と言っておきながら、戦争を振り返ることイコール日本人が被った被害だけを語ることだとの勘違いが蔓延しているように見えます。
加害、すなわち日本の植民地主義と侵略戦争とそれらに伴うおびただしい戦争犯罪、残虐行為、人権侵害の中でよく話題にのぼるのが日本軍「慰安婦」や南京大虐殺であり、それは歴史修正主義者たちがこれら特定の歴史を歪曲や否定の対象にしてきたことと関連があります。しかし、今年このブログでたびたび特集してきた東南アジアにおける日本軍の組織的虐殺行為をはじめ、アジア太平洋全域でのおびただしい加害の事実全体に目を向けていかなければなりません。この内海氏の講演録を読むと、あらためて日本の植民地支配と侵略がもたらした傷と未解決の問題の深さを認識します。@PeacePhilosophy
(転載ここから)
【東京歴教協・第48回研究集会】
記念講演
アジアからみる日本――「戦後」70年と私たち
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)
Ⅰ.はじめに
私の高校生の頃の夢は社会科の教員になることでした。ところが、教師から女が働くには英語をやりなさいといわれて英文科に入り、英語教員になりましたが、やはり自分にはあっていない。一年でやめて、社会科教員の免許を取るために早稲田大学文学部の社会学専攻に入り直しました。
社会科の教員になりたかったのは、当時、教員たちが熱く社会のこと、平和のことを語っている姿にふれ、その話に影響を受けたからです。中学時代の歴史や社会の試験問題の一部は今も持っています。先生がどんな問題をだしたのかがわかっておもしろいものです。
そういう先生たちが活躍していたころ、敗戦後の混乱期でしたが、社会が活発に動いていました。だれもが生きるのに必死でした。サツマイモやカボチャが食べられると「幸せ――っ!」という時代です。サンフランシスコ平和条約が発効して日本が独立、少したったころ、世の中が落ち着いてきた小学校6年の時に、米国がビキニ環礁で水爆実験を行い、第五福竜丸が被爆する事件がありました(1954年3月1日)。
第五福竜丸の船員だった久保山愛吉さんの重体のニュースが、ラジオから流れていました。中学1年になっていましたが、先生の提案だったと思います。「久保山さんにお見舞いの手紙を書こう――」と。何人かの生徒が手紙を書きました。
そうした手紙が、全国から3000通も久保山さんに寄せられたそうです。それをご家族が保存されており、後年、夢の島にある第五福竜丸記念館に寄贈されました。その中に私の手紙も混ざっていたようで、数年前に学芸員の方からご連絡をいただきました。何十年ぶりかで見た、下手な字で硬直した文章をつづった手紙は、まさに私が書いたものでした。中学1年生なりのアメリカへの怒りをこめた内容でした。
なぜそんな手紙になったかというと、都心にあった我が家は焼け残ったので、小学生の頃は占領軍の兵隊さんを目にして育ちました。それでよけいにアメリカへの怒りが強かったのかもしれません。占領は決して住民には歓迎されないことを、子供なりの体験としてもっています。
沖縄、中国、韓国、朝鮮をはじめ、かつて日本が占領した地域の住民が日本へ向けるまなざしは、もっと複雑です。心の底に燃えるような怒りの炎を燃やしている人もいます。決して声高には語らないかれらの怒り、時には悲しみへの想像力をどこまで私たち自身が持てるのか。それを可能にするのが勉強であり、研究であり、日々の活動だと思います。
■見えなかったビキニの被爆者
原爆投下後の被爆の状況を、敗戦直後からみんなが知っていたわけではありません。1952年、『アサヒグラフ』に被爆者の写真が公開されました。それで、息をのむ惨状を初めて知ったのです。
写真が公開されたのはサ条約によって、日本が独立したあとです。もちろん広島、長崎の人は知っていました。しかし、東京にいる私たちは、空襲や疎開などの体験で、少しは戦争の被害を見ていましたが、原爆の被害はまったくわかっていなかったのです。その原爆の惨状を知らされた直後に、今度はビキニ環礁での被爆です。私は拙い言葉でアメリカに対する怒りを久保山さんへの手紙の中に書きました。アメリカは広島長崎の被害者に賠償もしていないのに、今度はビキニ環礁で日本人が被爆したことに、私は怒っていたのです。これは当時の私たち小学生、中学生が共通して持っていた認識だったと思います。
戦争に対する被害者としての意識は、非常に強くありました。占領者への怒りもありました。しかし、第五福竜丸の船員である久保山さんたちのことは見えていても、マーシャル群島の住民が被爆していることについては、ほとんど視野に入っていなかったのです。
同じようなことが引揚げの問題にもあります。当時、NHKラジオで、毎日夕方になると「尋ね人の時間」がありました。「もと満州の○○にいた○○さん……」という放送をしていました。私は、だれも知り合いはいなかったのですが、その番組をよく聞いていました。日本人がこのように戦争の被害を受けている事は、私の年代の人たちは時代の認識としてもっていたと思います。その中でまったく見えていなかったのが、日本に占領され支配された側の人たちでした。
アジアの被害者のことが視野に入ってきたのはいつごろからだったのか。アメリカだけでなくアジアとの関係も視野にいれながら、日本の「戦後」70年を考えてみたいと思います。
Ⅱ.「日本国民」とはだれか――国籍法と戸籍
■日本国憲法に内包された差別
はじめに日本国憲法(1946年11月3日公布、47年5月3日施行)のことに少しふれます。憲法前文は次の文章からはじまります。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……」
私たちはこれをサラッと読んでいましたが、あらためて「日本国民」とはだれか、こう問いなおして国籍法を読んでみました。日本国民を決めるのが国籍法です。1950年5月4日に公布され、7月1日に施行されました。
国籍法第一条には「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる」とあります。第二条に「出生の時に父が日本国民であるとき」とありました。日本人男性の子供が日本国民であるという父系血統主義です。
これが現在の「父または母が……」と改正されたのは1984年です。戦後35年もの間、国民を決める基本的な要件に、女性と子供への差別が記載された法律が施行されていたのです。
もう一つのポイントは「正当に選挙された」の文言ですが、だれが選挙権を持っているのかという問題です。
■日本人をわけた三つの戸籍
1945年12月に衆議院議員選挙法が改正され、女性は参政権(選挙権と被選挙権)を手にしました。この附則3条3項には、「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は当分の間、停止する。」とあります。「戸籍法の適用を受けない者」とはだれをさすのか。ここでいう戸籍法とは「内地戸籍」を意味しています。
選挙法や憲法が公布された当時、まだ日本は、朝鮮や台湾に対する「権利、権限」を持っていました。これを放棄したのは「サ条約」の発効の時(52年4月28日)です。ですから占領下の日本に暮らしている朝鮮人や台湾人は「日本国籍」をもっている日本人です。
これら日本人を、政府は「内地戸籍の日本人」「台湾戸籍の日本人」「朝鮮戸籍の日本人」とにわけていました。いいかえれば「日本人」が朝鮮、台湾、内地という3つの戸籍にわかれて登録されていたのです。そして、この戸籍間の移動は原則として許可されていません。すなわち本籍を自分の意志で、朝鮮や日本内地に移すということは出来ませんでした。
日本国内に本籍がある人は「内地戸籍」、すなわち戸籍法にもとづく戸籍に、朝鮮に本籍がある人は朝鮮戸籍に、台湾の場合は台湾戸籍に登録されました。「戸籍法の適用を受けない者」との目立たない一文が、在日朝鮮人、台湾人男子がこれまで持っていた選挙権、被選挙権を奪うことになったのです。戸籍による排除です。
さきほど「原則」といいました。例外は「身分行為」です。たとえば日本国籍の父から生まれたA子さんが、朝鮮人と結婚して婚姻届を出したとします。A子さんの戸籍は「内地戸籍」から「朝鮮戸籍」に移ります。
■「内鮮結婚」によって戸籍を失う
このように、婚姻や養子縁組で戸籍は移動します。日本政府は「血による内鮮一体化」を図るために「内鮮結婚」を進めていました。「内地」の日本人女性と朝鮮戸籍の「日本」男性(朝鮮人)の婚姻というのが基本的な形でしたから、A子さんのようなケースはたくさんあります。当時、内鮮結婚をした女性の話を聞くと「同じ日本人だから」と、町会などの人に勧められたといいます。自分の戸籍が「朝鮮戸籍」に移動していることなど、もちろんわかっていなかったようです。
敗戦とともに、戸籍による区分け、分類が威力を持ちます。私がお話をうかがった人に、次のような人がいました。
彼女は恋愛の末に朝鮮人と結婚し、戦中は平壌に住んでいました。結局、離婚したのですが、戸籍はそのままにしていました。戦後、両親のいる日本に戻ろうと、引揚げの面倒を見ている釜山の世話課を訪ねたところ「あなたは朝鮮人です。引揚げたかったら戸籍を戻しなさい」と突っぱねられたそうです。婚姻届を出したので、彼女の戸籍は朝鮮戸籍に移っていたのです。
朝鮮戸籍に登録されている人が朝鮮人です。占領下で玄界灘の移動は原則禁止されていましたが、朝鮮人は朝鮮へ帰国することができました。日本人が日本へ戻ることは出来ましたが、その逆は禁止されていました。
彼女は復籍して、子どもを連れて日本に戻ってきました。しかし、子どもは夫の朝鮮戸籍に入ったままでしたので、内地戸籍がないまま戦後を生きてきました。当時、戦災孤児も多く、また戦災で書類が焼失したところもあり戸籍がない人も珍しくなかったのです。
成人し婚姻届をだす段になって戸籍謄本が必要になった彼は、母親の戸籍を探しだしました。母親の戸籍謄本には、婚姻により朝鮮戸籍へ転籍したことも記録されていました。そして、彼の戸籍も父親の「朝鮮戸籍」に記載されていることを意味します。
ようやく探しだした戸籍によって朝鮮人であることがあきらかになると、就籍どころか、彼は不法入国、不法滞在の朝鮮人ということで、戸籍係から入国管理局に通報され収容されたのです。
3歳の子どもが日本人の母親と一緒に帰国しても、入国手続きをして在留資格を取得しないと不法入国、不法滞在になります。
そうやって彼は入管局に収容され、退去強制手続きがはじまりました。「送還先は南か、北か」といわれて、それこそ爆弾でも投げてやりたいぐらい怒りましたが、収容されているのでどうにもなりません。
連れ合いが日本人で子どももいたので仮釈放になり、一カ月の滞在許可が出ました。それを何度かくり返し、彼は日本に帰化しようとしました。しかし、不法滞在者で仮釈放の人には帰化は認められません。その後、特別在留が認められたので、ようやく日本国籍取得の手続きができるようになりました。今では日本国籍を取っていると思います。
■外国人と見なされた旧「日本人」
このように植民地を持つ日本は、日本人と朝鮮人、台湾人を戸籍で分類していました。これは戦後の補償の問題にもかかわってきます。
すでに触れたように、敗戦後すぐに選挙法が改正され、在日朝鮮人と台湾人の選挙権が奪われました。そして、昭和天皇最後の勅令が、憲法施行の前日1947年5月2日に出されます。「外国人登録法」です。これには「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、外国人と見なす」とあります。「見なす」のです。
「サ条約」が発効するまで朝鮮人も台湾人も日本国籍を持っています。その彼らを「外国人」として登録させようというのです。「外国人と見なされた日本人」という処遇です。
敗戦から1952年まで、日本政府の在日朝鮮人の処遇には、このように多くの問題が残りました。「日本の中のアジア」という時、在日の外国籍の人をどのように処遇してきたのか、また、現在、どのように遇しているのかという問題を一緒に考える必要があります。
「平和憲法」もジェンダーや旧植民地の人々の視点から見た時、はじめの一行からこのような問題を抱えています。憲法を守るのには、こうした問題点も合わせてとりあげ、時には国籍法や戸籍法を改正することで、さらに憲法の理念が豊かなものにしていくことができると思います。
それでは、彼らマイノリティの視点もふまえながら戦後の日本を見てきたいと思います。
Ⅲ.戦争裁判と植民地支配
A.「ポツダム宣言」の受諾
■捕虜虐待と賠償問題
英米中は「カイロ宣言」(1943年11月27日)で、「やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と宣言し、それを「ポツダム宣言」に盛り込み、その「ポツダム宣言」を日本が受諾(1945年8月14日)しています。ポツダム宣言には、このカイロ宣言の履行、日本の主権と領土、戦争犯罪を厳しく裁くこと、賠償の支払いなどの条項がありました。
ポツダム宣言が日本に通告されたのは7月26日です。鈴木貫太郎首相は記者会見で「無視する」と発言しますが、これが黙殺「ignore」と訳され海外に発信されました。米英のメディアは「reject」と翻訳して報道しています。これが、「日本は戦争を続行する意志がある」と解釈され、ソ連は宣戦を布告し、アメリカは原爆を投下しました。
この「ポツダム宣言」には、戦争犯罪を厳しく裁くことと賠償の支払い条項があります。
第10項は「われらの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし」という条文です。
東京裁判やBC級戦争裁判で何が裁かれたのか、この条文はそれをあきらかにしています。捕虜虐待が重視されています。
もちろんその他の戦争犯罪も裁かれていますが、「ポツダム宣言」に特記するほど、日本の捕虜のあつかいはひどかったのです。
捕虜を虐待した日本は絶対に許さないという連合国の強い決意が裁判に反映されています。英米捕虜の27%、オーストラリアの場合は30%を超す捕虜が死亡しました。
映画「戦場にかける橋」は小説をもとに映画化されたものですが、日本の鉄道聯隊が連合国の捕虜を使用して建設した泰緬鉄道を舞台としています。1万3000人もの捕虜が栄養失調と医薬品の不足のなかで重労働を強いられ、死亡した現場です。
別名「死の鉄路」と言われ、イギリス、オーストラリアでは有名です。北ボルネオでは2000人を超す捕虜が死亡、殺害された「サンダカン死の行進」があり、オーストラリアでは日本軍の残虐さを物語る話としてよく知られています。アメリカで有名なのがフィリピンの「バターン死の行進」です。
ポツダム宣言でもう一つ見ておかなければならない点は、賠償の支払い(第11項)です。日清戦争で勝った日本は、当時の国家予算の4年分程の賠償を清国から取りましたから、負けた国が勝った国に賠償を支払うことは認められていました。そのため、日本は、再軍備をするための産業は許されませんでしたが、経済を支えかつ公正な実物賠償の取り立てを可能にする産業を維持することが許されました。
こうして日本は賠償を支払う条項をふくむ「ポツダム宣言」を受諾しました。
B.極東国際軍事裁判(東京裁判)
占領下で戦犯容疑者の逮捕が続きました。最終的に28人の被告が選定され、1946年4月29日に起訴状が提出され、5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷しました。東京市ヶ谷台の旧陸軍士官学校大講堂が法廷です。裁判席には11カ国の裁判官が居並び、その対面には28名の被告が着席しました。
この被告28名の中に朝鮮総督が2人、南次郎(在位1936.8~42.5)とその後任の小磯国昭(同1942.5~44.7)そして元朝鮮軍司令官板垣征四郎(同1941.7~45.8)がいました。当然、朝鮮植民地支配を裁いていると思っていましたが、訴因に植民地の犯罪はありません。
もっと皮肉なのは、朝鮮人から名前を奪い、言葉を奪い、内鮮一体化政策を強力に推し進めた一人、朝鮮総督府学務局長だった塩原時三郎が弁護人席に座っています。南次郎総督から懇望されて秘書官に就任し、1937年8月に学務局長に昇進し、「皇国臣民の誓詞」を制定(1937年10月)した責任者です。さらに、大野緑一郎朝鮮総督府政務総監、田中武雄政務総監、井原潤次郎軍参謀長など、植民地支配を中枢で担った人たちが証人で出廷しています。あくまで証人であり、被告ではありません。
極東国際軍事裁判では、朝鮮・台湾での植民地犯罪は審理の対象から外されています。天皇の戦争責任、治安維持法などによる自国民に対する日本政府・軍部の犯罪も裁かれていません。連合国の戦争犯罪ももちろん対象外です。
裁判は連合国に対する日本の戦争犯罪を裁いています。英米蘭仏の植民地における日本の戦争犯罪も一部ですが取り上げています。
被告は「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」の三つの「罪」で起訴されました。
C.BC級戦犯裁判
戦犯裁判の法廷は、日本が占領していた「大東亜共栄圏」の各地でも開かれました。捕虜虐待、殺害、住民虐待、略奪、強かんなど戦時性暴力、民間人抑留など「通例の戦争犯罪」が裁かれました。
日本が描いた大東亜共栄圏の構想には、オーストラリアやインドまでふくまれています。開戦直後に日本軍はオーストラリアのダーウィンを爆撃し、シドニー湾を特殊潜航艇が攻撃しています。インドにも攻め入ろうとインパール作戦を強行しました。
この大東亜共栄圏の中にはアメリカ、イギリス、オランダ、フランスなどの植民地があります。その植民地に日本軍が攻め込み、占領しましたが、日本が負けると宗主国が植民地に戻り、そこで戦争裁判を開いています。日本の敗戦と旧宗主国の再占領の間隙をぬって、アジアは独立へと動きはじめます。
インドネシアの例をあげます。オランダは300年以上インドネシアを支配していました。日本の敗戦後、そのインドネシアに戻ってきたオランダは、12カ所で戦争裁判をおこなっています。
大島渚の映画「戦場のメリークリスマス」は、ジャワ俘虜収容所が舞台です。その所長がミュージシャンの坂本龍一が演じたキャプテン・ヨノイ(曽根憲一)です。収容されていたオランダ人にとっては、名前を聞くだけで背筋が寒くなるといわれるほど「虐待」をしたといわれています。ビートたけしの役は森正雄軍曹。あだ名はバンブー森です。この人も捕虜を籐の杖でたたいたので有名な人で、それで「バンブー森」というあだ名がついています。
オランダが植民地にしていた蘭領東インド、いまのインドネシアですが、そこにはジャワで捕虜になったオランダ人やオーストラリア人、イギリス人たちが収容されていました。彼らへの虐待が裁かれました。
もう一つは、蘭印にはオランダの民間人(女性、子ども、老人)が9万人ほどいましたが、彼らが「敵国人」として収容されています。戦争は戦場でドンパチだけが戦争ではない。このような銃後の戦争もありました。
ここでまた「国籍」が問題になりますが、宣戦布告した敵国の国籍を持つ民間人が「敵国人」として抑留されました。日本人、日系人もアメリカやオーストラリアで強制収用されています。
■日本人の戦犯となった「外国人」
では、日本は何カ国を敵国としたのか、外務省条約局の資料を見ると34カ国があがっています。この中に中華民国政府ははいっていません。中国は交戦国ではなかった、「事変」ではあっても宣戦布告した戦争ではなかった、日本はこう主張しています。一番最後がソ連であるのはご存じのとおりです。これらの敵国・断交国に暮らしている日本人は、国によっては強制収容されます。
日本が占領した地域で暮らしている宣戦布告した国の国民は、敵国人として抑留されました。
先ほどふれたようにジャワにはオランダ人やオランダとインドネシアのダブル、いわゆる「混血」のオランダ人がいました。戦局が思わしくなくなると軍部は、この人たちを軍抑留所に強制収容します。
その抑留所から一部若いオランダ人女性を連行して作ったのがスマラン慰安所です。しかし、連合国の女性への性暴力、強制売春をさせるのは国際法上の捕虜の取扱に関する条約に違反していますから、この慰安所は数カ月で閉鎖され、戦後、その責任者が戦争裁判で裁かれています。
「大東亜共栄圏」49ヶ所で戦争裁判が行われました。
裁判件数 2244件
起訴人員 5700人
内無罪 1018人(日本人・朝鮮人・台湾人を含む) 死刑 984人(死刑執行された者937人) その他 279人(獄中死台湾人5人を含む) 有罪者数 4403人
戦犯者のうち植民地出身者 朝鮮人148人 (うち死刑23人) うち129人捕虜収容所の監視員。 1人 フィリピン俘虜収容所長 台湾人173人 (うち死刑21人 獄中死5人) *有罪者にしめる旧植民地出身者 7.29% |
BC級戦犯裁判で起訴された人と有罪となった人の数です。東京裁判の28人は有名ですが、じつは5700人もが起訴され、そして937人が死刑になっています。
戦犯の中に朝鮮人148人、台湾人171人(獄中死5人を含む)がいます。日本人として戦争に動員されて、戦後は戦争犯罪人になったのです。
■植民地を巻き込んだ太平洋戦争の戦火拡大
ここで先ほどの植民地の問題にもどりますが、日本はアジア太平洋戦争を日本人だけで戦ったのではありません。また日本がフィリピンで戦ったのは米比軍。マレー、シンガポールで戦ったのは英印軍。インドネシアで戦ったのは蘭印軍。このように、日本が交戦していたのは、植民地の人たちをまき込んだ連合国の軍隊でした。人数的には本国兵より植民地出身者の方が多かったことが捕虜の数から推定されます。その軍隊と戦った日本軍にも朝鮮人・台湾人兵士がいます。アジア太平洋戦争は植民地の人々を巻き込んだ戦争だったのです。
その戦争で日本軍は30万人ちかい捕虜を獲得しました。しかし、これだけ大量の捕虜を抱えられないので、白人のみを捕虜とし、アジア人は「解放」しました。
米比軍の場合は、フィリピン兵は捕虜にしていません。当時の『写真週報』を見ていただくと、「解放に喜ぶフィリピン人」などという写真が掲載されています。インドネシアでは蘭印兵のインドネシア人を宣誓させて釈放しています。そして残った13万余の白人捕虜を収容します。それでも13万人からの捕虜を三食食わせなければならないわけです。
■ジュネーブ条約で定められた捕虜の待遇
日本はジュネーブ条約という、「1929年7月27日の捕虜の待遇に関する条約」を批准しなかったのですが、開戦直後に「準用」をアメリカやイギリスなどに回答しています。これをアメリカなどは「批准」と同じようにとらえました。
ところが、東条英機は東京裁判への尋問調書の中で「準用とは、必要なところは修正を加えて適用することだ」と答えています。都合がいいように変えるといいながらも、実際には何もしていません。
現場では、捕虜はジュネーブ条約をもとに権利を主張します。ところが、日本兵や朝鮮人監視員などは、そんなものは知らない。教えられていないわけです。将校は強制的に労働させてはいけないことくらいは、日本の将校も知っているでしょうが、現場では捕虜将校に労働を強制せざるを得ないくらい追いつめられていました。「タダ飯」を食わせる余裕がなかったのです。抵抗する捕虜を日本兵や朝鮮人監視員たちがぶん殴ることもありました。
もっと重要なのは、条約が適用される捕虜の場合、食べるもの、着るもの、労働のあり方がすべて条約で決まっています。たとえば、軍需産業に捕虜は使ってはいけないとか、さきほどお話しした、将校に労働させてはいけないことなどです。では、どうしたら働かせることができるのでしょうか。
「みずから望む時」、すなわち、捕虜自らが志願したら働かせてよろしいと定められています。どのように「志願」させるのかですが、志願せざるを得ない状況を作るのです。フィリピンで投降したウェインライトの日記には、食事が減らされ、これ以上は生存できないところまで体重が減少した後で、彼が労働を志願したことが書かれています。その間、減少する体重を俘虜郵便で家族へ暗号のような形で送っていました。ちなみに、捕虜は俘虜郵便が出せるということも、定められています。
■死刑が求刑された捕虜虐待の罪
日本国内には3万人以上の捕虜が連行されていました。強制連行、強制動員というと、朝鮮人や中国人の場合があげられますが、その中に連合国の捕虜もいました。日本全国135カ所の収容所に収容されています。例えば九州の三井三池炭鉱、北海道の夕張炭鉱、それから秋田県花岡の鹿島組花岡事業所など全国各地で捕虜が労働させられていました。
東京裁判がはじまる前に、アメリカ第8軍が開いた横浜法廷で福岡俘虜収容所第17分所(大牟田捕虜収容所)所長の由利敬中尉に絞首刑の判決がでました。スガモプリズンで執行されています。彼は三池炭鉱に捕虜を出す収容所の所長でした。日本国内にいた連合国の捕虜に対する虐待が、横浜で行われた裁判の中心です。横浜では331件が起訴されました。大多数は俘虜関係です。俘虜収容所の関係者は31人が死刑になっていますが、それは横浜裁判の死刑(51人・執行)の過半数を占めています。
■裁かれない強制連行
連合国の捕虜を虐待することは戦争犯罪として厳しく裁かれましたが、朝鮮人や中国人の強制動員、強制労働は、どのような責任が問われたのでしょうか?
中国は日本に宣戦布告をした国と見なされていなかったので、中国人を正式な捕虜と見なしていません。これが日本の立場です。しかし、中華民国は連合国の一員ですから、東京裁判に判事・検事を送っていますし、中国で戦争犯罪の裁く法廷を開いています。日本国内の中国人虐待について調査し、二件だけ裁判をしています。鹿島組の花岡鉱業所と大阪築港で働いていた中国人捕虜・労働者への虐待です。
しかし、朝鮮人の動員、虐待では戦争裁判になった事例は一件もありません。
■多国籍軍だった日本の軍隊
東南アジア各地に13万人を超す白人捕虜を収容する俘虜収容所が開設されます。この俘虜収容所の監視のために集めたのが、朝鮮と台湾の青年です。日本は中国侵略以降、この戦争が日本人、いわゆるヤマト民族だけでは戦えないという兵力計算をして、朝鮮と台湾に志願兵制度を導入します。志願兵として集めた植民地出身者を軍隊に編入し、そのあと徴兵制を実施しています。敗戦までに40万をこす朝鮮人・台湾人が日本軍に編入されたのです。
日本は南方の占領地を確保していくのに、アジア人の軍隊を作らないと維持できないことも計算しています。インドネシアの場合「郷土防衛義勇軍」を作ります。インドネシア人を訓練して、彼らを日本軍と共同で戦えるような軍隊として養成します。この「郷土防衛義勇軍」は、戦後、オランダが再侵略した時に独立運動の中核になります。
もう一つ忘れてはいけないのは、補充兵として日本の軍隊に編入された兵補です。
このように日本の軍隊もまた、朝鮮人や台湾人やインドネシア人兵補などを編入した多国籍の軍隊でした。数は日本兵に比べて少ないですが……。
俘虜収容所の監視員になる朝鮮人、台湾人を軍属として集めています。収容所は人数の上からほとんど朝鮮人と台湾人が動かしていました。事務などの管理部門に日本人将校や下士官がいましたが捕虜と接触する現場には朝鮮人、台湾人軍属が配置されていました。
■捕虜虐待の実行者と見なされた植民地の青年たち
ここでポツダム宣言「われらの捕虜を虐待せる者は……」を思い出してください。捕虜虐待が日本の戦争犯罪の中心として追求される、その現場に置かれたのは朝鮮人、台湾人です。連合国はこの朝鮮人・台湾人を日本人と見なし、「日本人」として裁いていきます。それが前述の数字です。死刑になった朝鮮人は23人、台湾人は21人います。
日本の戦争犯罪が裁かれた裁判、その中に旧植民地出身の人たちがいました。計算したら有罪者の7.3%が旧植民地の人でした。どういう戦争犯罪を裁かれて、だれがそれを担ったのかが、この数字から見えてきます。
■弛緩した高級参謀たち
東京裁判の被告にならなかった旧軍の高級参謀たちは、いったい、戦後何をしていたのしょう。印象に残っている映像があります。NHKが放送した一枚の写真です。
GHQのウィロビーが真ん中に座り、その横に河辺虎四郎いました。熱海かなにかの温泉で肩を組み、お互いに酒を飲ませあっているふざけた集合写真です。職業軍人として戦争を中枢で担った人物が、かつての「敵」である反共主義者のウィロビーの下で、労働組合や共産党の集会などに潜り込んで、情報を集めていたといわれています。この写真には弛緩した旧軍の将校たちの顔がありました。
戦争裁判で処刑が行われている時です。公職追放もありました。その中でGHQに協力した高級参謀たちは、あの物のない時代に「いい思い」をしているのです。
東京裁判の被告は28人です。48年12月23日、7人が処刑されます。その翌24日は、岸信介たちが無罪放免された日です。第2次東京裁判としてスガモプリズンに拘留されていた17人、病院にいた2人、19人が今後、訴追されることがないと釈放されました。1948年12月24日です。
その後、戦後一貫してあった東京裁判を否定する論調に、これらA級戦犯容疑者たちがどうかかわっていたのか、ぜひ調べてみてください。一部の人は「戦犯受刑者世話会」に名前を連ねています。
A級戦犯が処刑されたあと、まだスガモにはBC級の人たちが残っていました。まだ、かれらの裁判が続いていました。海を越えてオーストラリアのマヌス島でもまだ続いていました。
Ⅳ.サンフランシスコ平和条約
A.冷戦の中の賠償
連合国軍の中心となったアメリカは、当初、賠償の厳しい取り立てを考えていました。アメリカは「初期対日方針」(1945年9月22日)で、平和的日本経済、占領軍への補給のために必要でない物資や資本設備・施設を引き渡すよう指示しました。それは日本の戦争能力を将来にわたって徹底的に除去するための厳しい賠償の取り立てであり、外務省が「制裁、復習、懲罰の色合いの濃い、戦争中の反日感情を反映した厳しいものであった」と嘆くほどでした。もしこれが全面的に実施されていたら、日本の工業生産力は1928~33年程度の水準にまで引き下げられていたといわれます。
しかし、この賠償が変質していきます。その理由は冷戦です。アジアの冷戦激化のなかで、アメリカの対日管理政策は、日本の非武装化から経済の自立へと転換していきました。決定的になったのは朝鮮戦争です。
1949年5月、極東委員会は中間賠償の取り立中止を声明しています。そして1950年6月22日に朝鮮戦争が勃発すると、日本は再軍備、警察予備隊の発足、旧軍の軍人の追放解除、そして経済復興へと進んでいきます。
朝鮮戦争のさ中、国連軍がピョンヤンを占領した1950年11月24日、アメリカ国務省は「対日講和7原則」を出します。これは、「日本に賠償を払わせない」というアメリカの方針です。無賠償で日本を国際社会に復帰させる、これがアメリカの政策として出されてきます。何よりもアメリカが重視したのは日米安保と講和です。
アジアの冷戦の中で最も恩恵に浴したのは日本だ、といわれるのは、こういうかたちで賠償が変質していったこともあげられます。そして「賠償支払いの4原則」(存立可能な経済の維持、他の債務の履行、連合国の追加負担を避ける、外国為替の負担を日本に課すことを避ける)が定められます。
■アメリカの無賠償方針に反対したアジアと捕虜たち
日本が現金で被害を受けた国にお金を払っていたのでは、アメリカの占領経費がかさんでしようがない――それで、日本を経済的に復興させてアメリカの占領経費を抑えたい、これはアメリカの要求でもありました。そこで原則、無賠償の方針を出しました。
しかし、フィリピンなどアジアの被害国が強硬に反対しました。さらに、もう一つの反対勢力は、連合国の捕虜たちです。あんなひどい目にあって、補償ももらわずに日本を国際社会に復帰させることはできないと激しく反対しました。
私たちは捕虜の虐待といっても、想像力がおよばないわけです。泰緬鉄道の話も、多少労働力として酷使したくらいのイメージしかありませんが、被害者は忘れていません。恨み骨髄です。その語り伝えられている体験は本当にすごいものです。
こんなエピソードがあります。昭和天皇の重体報道があった時に、イギリスで「ヒロヒトが死んだら墓の上でダンスを踊ってやる」というような記事が大衆紙に出て、日本の大使館が抗議したことがありました。すると、それに対して逆に、怒った元捕虜たちから激しい反論がありました。
「労働がきつかったのではない、そんな言葉ではおいつかない。食うものがない。」「骸骨が靴を履いている」と、日本鉄道小隊長の記録に出てくるくらいの餓死寸前の状態での労働です。さらに医薬品がありません。6万からの捕虜をジャングルに投入したのに、野戦病院一つ作らなかったのです。いや作ったのですが遅すぎたのです。手を伸ばせば届くような黒雲に覆われたジャングルの雨期、しかも労働がきつく、食糧も医薬品も何もかも不足していた最悪の時に、間に合わなかったのです。
私が話を聞いた元捕虜の人は、自分から志願して病院で働いたといいます。病院といってもただ死ぬのを待つだけの隔離小屋で、自分の仲間がコレラ、熱帯性潰瘍――ちょっとした傷口から肉が腐り、ひどくなると骨まで見えてくる――、マラリア、コレラなど、もう手の施しようがない状態の捕虜が死ぬのを待つだけの場所です。彼はそうした仲間の面倒を見たのです。
連合国の捕虜の人たちがよくいうのは、POW( Prisoner of war 戦時俘虜)は人間らしい扱いをされなかった、ということです。ちょっとした薬、ちょっとした食べ物があったら助かった命が失われていったといいます。私がインタビューしたトム・モリスという人は、「日本人を見ると、その絶望の中で死んでいった仲間を思い出す。竹の小屋のなかで、垂れ流しで糞尿にまみれ、竹の床の上に身を横たえて、自分の方を絶望的なまなざしで見ていた、あの仲間を思い出して、どうしても日本人を許せなかった」といっていました。その体験をはきだし、記録することで、ようやく過去から解放されたので、私にも話してくれたのです。
日本ではあまり知られていませんが、北ボルネオのサンダカン死の行進があります。北ボルネオの捕虜収容所にいたオーストラリア人、イギリス人捕虜2434人のうち、サンダカンからラナウまでの行軍で1047人、収容所で 1381人が殺されています。生き残ったのは逃亡した6人のみというすさまじい殺戮がありました。
こういう現場が東南アジアにあります。そこに朝鮮人や台湾人の監視員が働いていました。さきほどのトム・モリスではないですが、どうしても許せない日本――その現場にいた人たちが戦争犯罪を追求されたのです。それが朝鮮人、台湾人戦犯の数になって出てきました。かれらはシンガポールやジャカルタ、中国などで、絞首刑や銃殺刑になっています。問題はそのあとにも残ります。
■賠償だったODA
サンフランシスコ平和条約を日本は結びました。賠償は先ほどいったようにほとんど無賠償です。支払ったのは「生産物」と「役務」による賠償です。ゼロではフィリピンなどアジアの参加国が署名しない、批准しないと困るので、新たな賠償支払いの方法を考え出していきます。現金は直接払わないで、相手が要求するものを日本の会社が作る。道路を作ったりダムを作ったり、工場を建設したり……という支払いです。
フィリピンには日比友好道路もあります。インドネシアにもホテル・インドネシアなどが作られています。製紙会社もありました。これは日本企業が作り、金は賠償で決まった額から日本政府が企業に払う。なお、原材料が必要なときには求償国が準備することになっています。こうした支払いなので日本は外貨を使う必要がない。そして日本に工業生産力がついていく。アジアの要求をある程度満たし、日本の生産力を高め、そしてアメリカのアジアにおける安全保障の強化策という一石三鳥――これが日本の賠償のあり方で、今の経済協力です。ODA(政府開発援助)はビルマ賠償からはじまりました。
このあとの中国との国交回復で中国は賠償を放棄しています。韓国とは経済協力方式での支払いです。「サ条約」で枠組みが決められたアジアに対する賠償支払いは、お金ではなく生産物と役務という経済協力方式でやられたのです。
B.平和条約発効・11条で判決を承認
1951年サンフランシスコ講和会議に、中華人民共和国と中華民国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が招かれなかったということは、ご存じの通りです。日本が占領、植民地支配をした国が排除されたまま、49カ国が講和条約に調印しました(1951年9月8日調印、52年4月28日発効)。
そして、講和条約11条で日本は戦争裁判の判決を承認しました。
「センテンス(判決)を承認しただけで、裁判を承認したのではない」などという人がいますが、裁判があり判決がだされたのです。日本は侵略戦争の戦争犯罪を裁かれ、その判決を承認して、国際社会に復帰していきます。これは日本政府の公式見解です。
そうして、戦争裁判で有罪になった日本国民の刑の執行を引き継ぎました。それがスガモプリズンです。今の池袋サンシャインビルのあるところがスガモプリズンでしたが、独立後は、日本の政府が管理する巣鴨刑務所に看板をかけ替えました。
これを管理する日本の法務総裁は、占領中は、戦犯は「犯罪人である」との見解を出していました。
戦争犯罪人として、連合国の軍事裁判により刑に処せられた者の国内法の取扱いについては、昭和25(1950)年7月連合国総司令部当局と法務総裁と会談の結果、「軍事裁判により刑に処せられた者は、日本の裁判所においてその刑に相当する刑に処せられた者と同様に取り扱うべきものとする。」これが占領中の日本の考え方です。ところが独立した3日後、1952年5月1日に法務総裁見解が変わります。
「この解釈はもともと総司令部当局の要請に基づいたものであり、平和条約の発効 とともに撤回されたものとするのが相当と思料され、昭和27(1952)年5月1日その旨法務総裁から通牒して各省庁関係機関に徹底をはかった。」(『本邦戦争犯罪人関係雑件第一巻』外務省外交史料館所蔵。法務大臣官房司法法制調査局『戦争犯罪裁判概史要』1973 年)
日本が独立したのでこの解釈、通牒は撤回される。つまりスガモにいる戦争犯罪人は国内法の刑に処せられた人と同様にはあつかわない、犯罪人ではない、という通牒です。
この通牒によって、まずスガモプリズンに収容された人たちの選挙権が回復します。スガモプリズンで10月1日の衆議院選挙に際し、9月25日に在所者約300人が不在者投票をしました。
また、同時期にA級戦犯やBC級戦犯の靖国合祀が問題になりますが、犯罪人だったら合祀されません。巣鴨刑務所の戦犯はもう国内法の犯罪人ではないとの解釈です。そのため「刑死」という表現は「公務死」ないしは「法務死」にかわり、援護の対象になり、靖国神社にも合祀されるようになったのです。
Ⅴ.アジア侵略・植民地支配の清算に向けて
A.援護法と戸籍法
「サ条約」が発行した翌年53年8月に、軍人恩給が復活します。遺族年金は、サ条約発効の2日後の4月30日、戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布されました。最初に戸籍にこだわったのはここが問題になるからです。
くり返しますが、40万からの朝鮮人、台湾人が日本の戦争に動員され、軍隊の編成の一部を担った彼らでしたが、日本が独立すると戸籍法の適用を受けないことを理由に援護の対象から除外されます。大島渚の「忘れられた皇軍」は、この問題をあつかっています。
鉄砲の弾は「あなた、朝鮮人ですか。日本人ですか」と選んであたるのではない。空襲の爆弾は軍人と民間人をわけてあたるのではない。戦争被害は、等しく被害をうけるのです。
にもかかわらず、日本の援護法は、空襲の被害を受けた民間人に何の補償もしない。朝鮮人の傷痍軍人・軍属を遺族年金や傷病者年金から排除しています。本人の国籍選択の権利を認めてもいません。戸籍と国籍をうまく組み合わせながら、政府は援護の体制から日本国籍・戸籍を持たない人を排除したのです。
戦傷病者戦没者遺族等援護法は、戸籍法の適用を受けない者を排除します。国籍ではありません。援護法は4月1日にさかのぼって適用されています。朝鮮人の日本国籍の正式な離脱は「サ条約」発効後ですから、4月1日から4月28日まで朝鮮人、台湾人は日本国籍を持っています。彼らを排除するのは国籍法ではなく戸籍でした。先ほども話したように「戸籍法」ということをひとこと入れると、朝鮮人・台湾人は排除される。こういう極めて巧妙なかたちになっています。
■日本人から排除され、日本人として裁かれる:ダブルスタンダード
傷痍軍人・軍属をふくめて戦争に動員された朝鮮人、台湾人たちは恩給や年金からも排除されました。どこにも自分の意思を表明する機会はなく、一方的に押し付けられ、一方的に奪われたのです。
しかし、朝鮮人戦犯の刑の執行は続きました。日本国民の刑の執行を日本政府は引き継いだからです(「サ条約」第11条)。くり返しお話ししたように、朝鮮人も台湾人ももはや日本人ではありません。当然釈放してくれると期待しましたが、釈放はありませんでした。「あなたたちは罪を犯した時日本国民だったので、その刑の執行は続く」。これが日本政府の見解でした。
釈放請求の裁判もおこしましたが、最高裁でも負けました。罪を犯したとき日本人であった、その後の国籍の変更は刑の執行に関係ないというのです。それで朝鮮人戦犯の中には1957年くらいまで巣鴨刑務所にいた人もいます。
巣鴨刑務所を出ると、今度は外国人ですから外国人登録をしなくてはなりません。最寄りの役所に出頭して指紋を押捺して顔写真を貼った登録証を常時携帯する義務があります。
しかも、彼らは家族が日本にいません。出所しても行き先がない――。満期で早く出所した人は友人もいませんから、上野の地下道で寝たといいます。交番に行き朝鮮人がたくさん住んでいるところを教えてもらって川崎にたどり着いた人もいました。
日本人軍人・軍属には、遺族年金だ、弔慰金だと、いろいろな名目で国からお金がでます。しかし、外国人になった彼らには、こうした政府からのお金は一切出ません。こういう仕組みが、平和憲法の下で行われてきました。
私たちは戦後、植民地支配の清算をどこまで考えてきたのでしょうか。被害体験は、はじめにお話ししたように自分をふくめて実体験がありますから、よくわかります。しかし、隣に暮らす在日朝鮮人や台湾人の人びとへの処遇をどこまで考えてきたのだろうか。私たちの無関心のなかで、政府は、戦後、国籍と戸籍を上手く利用しながら旧植民地出身者の人たちをこのように排除してきたのです。
■「忘れられた皇軍」の元軍人たち
戦争で怪我をした日本人には、等級によっても違いますが、生涯に4000万も5000万もの年金がでています。しかし、朝鮮人、台湾人傷痍軍人には一銭も出なかったのです。
それで彼らは運動をはじめました。あのころ、街頭でアコーディオンを弾いて募金している傷病兵をよく見かけました。「異国の丘」というのは、シベリア抑留の人たちの歌ですが、私は街頭で聞いた記憶があります。街頭募金をしている傷痍軍人のいる光景は戦後風景です。その時に、「あの人たちには国から金が出ているんだから、お金は出さなくてもいいんだよ」といわれた記憶があります。しかし、朝鮮人、台湾人たちには出ていなかったわけです。
占領下では戸籍に関係なくでていた傷病年金が、サ条約の発効と同時に一方的に切られました。働けない彼らは生活保護をもらって生きるしかありません。その中で運動に立ち上がった人たちがいて、国会に日参していました。これを記録したのが大島渚の「忘れられた皇軍」です。
その中の一人に、マーシャル群島で怪我をして目が見えない、左手がない朝鮮人軍属がいます。彼の連れ合いは日本人ですが、東京大空襲で失明しました。二人には政府からの援護が届かないのです。
朝鮮人傷痍軍人たちに対して、日本政府は法律は変えずに、まるで当人たちの責任とばかりに「帰化しなさい、日本国籍を取りなさい」と、日本国籍取得をさせます。特別に簡易帰化をさせたのです。
難しい書類を山のように書かなければ日本国籍は取得できないのですが、私がインタビューした人は「ぼくたちは何もやらなかった。法務省の役人が来て、自分たちに聞きながら書類を書いてくれた」といっていました。それによって、彼らは日本人と同じ傷病年金をもらえるようになりました。しかし、これも1965年日韓条約が締結されるまでに帰化した人に限ります。それ以後に帰化した人たちには一銭も出ません。
私がお話を聞いた人は、そうやって日本国籍を取得して、補償のお金をもらえるようになった人もいます。しかし、川崎にいた陳石一さん、石成基さんは、帰化を拒否したので、お金が一銭も出ませんでした。そして、1992年に裁判に訴えますが棄却されました。最高裁まで争いますが2001年4月、その訴えはしりぞけられています。しかし、東京高裁は「傷痍軍属たちを日本国籍をもっている者に準じて処遇することがより適切であり、在日韓国朝鮮人にも援護法の適用の道を開くなどの立法処置をとることなどが強く望まれる」と述べています。大阪高裁でも国に差別的な処遇を速やかに改善するように、国に対して厳しい注文を付けています。
そうして2000年6月7日に「平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族に対する弔慰金等の支給に関する法律」が公布されました。時限立法で、弔慰金の支給を定めた法律です。
B.「戦犯」たちの平和運動
朝鮮人戦犯の人たちは日本国民として、巣鴨刑務所に収容されていました。
巣鴨の戦犯にも未帰還者に手当が出るようになると、当時、日本人戦犯には月に1000円程が支給されました。ところが、これには国籍条項があり、同じ刑務所にいても朝鮮人、台湾人には一銭も出ません。そんなのおかしいとだれもが思います。巣鴨にいた日本人戦犯の人たちが朝鮮人の運動を支えました。
巣鴨刑務所は「三食付のホテルといわれるような状態になっていましたから、外にいるよりも楽だった」、冗談でこういう人がいます。たとえば、米軍管理の時代から、スガモでは国会図書館から本を借りだして読めるようになっています。日本に管理が移ると巣鴨から働きに出たり、所内で職業訓練も受けています。戦犯の人たちは当時珍しい自動車の免許を持っている人も少なくありません。生活に困るからと職業訓練の一環として巣鴨で自動車免許を取れるようにしたのです。
■死刑囚となって
李鶴来(イ・ハンネ)さんという泰緬鉄道で働く捕虜の監視をしていて、死刑の判決を受けた人がいます。彼はシンガポール・チャンギー刑務所のPホールという死刑房で8ヶ月、いつ死刑かと死におびえながら暮らした人です。
20年に減刑されて日本に戻ってきました。小学校は卒業しましたが勉強も十分に出来なかったので、スガモの中で猛勉強をします。「なぜ日本の戦争に協力してしまったのか」、自分の過去を考えていたのです。巣鴨の中には彼と同じように考える日本人戦犯たちがいました。彼らがあつまって、あの戦争は何だったのか、自分たちがなぜ、侵略戦争に加担したのか、アジアへの加害者であった自分たちのやったことを手記に書きはじめました。
ジャワで憲兵だった人は、オランダの戦犯裁判で死刑(銃殺刑)になった友人の遺体を埋めようとしたところ、住民から石をぶつけられたそうです。インドネシアのアンボンでは親オランダ感情が強い地域ですが、それでも「ビナタン(けだもの)を埋めるな!」と罵声を浴びせられたといいます。ショックを受けると共に、そのとき、彼ははじめて疑問を持ちました。「あの戦争は本当にアジア解放の戦争だったのか」と。
若い戦犯たちの中には労働もない、本も自由に読める巣鴨の中で、初めて社会科学の本を読んだ人も少なくありません。宮川実(マルクス経済学者)も読まれています。中国革命の本も読んだといいます。勉強会に集まる人たちを共産党のオルグの人が緩やかな形で指導し、巣鴨の中に共産党細胞ができています。
懸命に勉強し、自分の体験を記録したのが『壁あつき部屋――巣鴨BC級戦犯の人生記』です。『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』も似たような記録集です。刑務所の外に収容者の手記を密かに持ちだして刊行したのです。これを読んでショックを受けた安部公房や亀井勝一郎は巣鴨刑務所を訪問しています。
「ここに真に平和考えている人たちがいる」――安部公房はそのような感想を書いています。それを元に作った映像が「壁あつき部屋」と「私は貝になりたい」とです。
「アジア解放の聖戦」という戦争中のイデオロギー、国民に散々宣伝されたこの大義名分の虚構に、巣鴨の若い戦犯たちは早くから気づいて、塀の外に訴えはじめました。「わだつみの会」にもメッセージを送っています。沖縄の伊江島闘争には、なけなしの金を集めてカンパを送っています。新聞や雑誌にも投稿しています。
■罪の自覚をうながした戦争裁判――中華人民共和国
戦争裁判でもう一つ有名なのが中華人民共和国の裁判です。この裁判では「認罪」、一方的に裁くのではなくて、自らがなぜあの侵略戦争に協力したのかを自覚していくプロセスに丁寧に寄り添っていきます。裁くのではなく罪に自覚の過程に付き合っていったのです。
そうやって、中国における戦争犯罪、すなわち「アジアに対する加害責任」――言葉でいうとこういうかたちになりますが――、それを戦犯たちは自身の行為、体験から考え、「アジア解放」のスローガンの虚偽を見抜いていきました。中華人民共和国の裁判を受けた人たち(中国帰還者連絡会)の一連の手記、巣鴨の戦犯の手記は、最も早い段階で日本の侵略戦争を自らの体験から告発したものでした。
しかし「塀の外」の私たちは、スローガンに惑わされて「アジア解放の聖戦」の「実態」が見えていませんでした。自分たちがアジアの人たちの加害者であることが、実感としてとらえられなかったのです。そうした視点が定着していくのは1960年代後半からでしょう。そのきっかけの一つはベトナム戦争、もう一つは賠償を橋頭堡にした日本企業のアジア進出の中で、アジアの人たちの声が日本に届きはじめたからです。
Ⅵ.おわりに
■「赤い死体」から考える
先日、立花隆がやっていたテレビ番組で、「黒い死体と赤い死体、これが戦後日本を語る時の二つのキーワードだ」といっていました。
「赤い死体」はシベリア抑留の画家香月泰男が描いた絵です。彼が目にした「赤い死体」とは、中国人が憎しみのあまりに日本人の死体の皮を剥いだ赤い死体です。
もう一つは、被爆や空襲で黒焦げになった「黒い死体」です。日本の戦争・戦後を考えるにはこの「黒い死体」と「赤い死体」の二つの死体がある。香月は、我々はあの戦争を「赤い死体」から考えなければいけないといいます。何を意味するか、「アジアに対する加害」、なぜ中国人がここまで日本を憎むのか、というのが彼の提起でした。
■東南アジアへの経済進出
賠償によって日本企業がアジアに出向くようになると、アジア情報がマスコミにも増えてきます。ある商社マンが「日本はフィリピンを支配してたんですか?」と尋ねたといいます。笑い話でもなんでもなく私が75年にインドネシアに行った時も似かよった認識でした。
日本のインドネシア軍政について書いた本は、当時まだ2~3冊しかありませんでした。ほとんど何も知らずに出かけた私に、インドネシア人が時には、親しみを込めて時には皮肉に「皇居に向かってヨウハイ(遙拝)」とか「ジャワホウコクカイ(報国会)」「ケンペイタイ」などいろんな言葉を投げかけてきました。日本占領下で日本語教育をしていたのでみんな少し話せるわけです。そこで暮らす中で、ようやく私は、ジャワ、インドネシアで日本が何をしたのかを教えられ、少しずつ考えはじめました。
70年代に入ると日本でもアジアの情報が増えはじめ、「昔、軍隊。今、市民服を着た軍隊」といわれはじめました。これはレナード・コンスタンティーノというフィリピンの歴史学者の言葉ですが、「昔は軍服を着て日本軍がやってきたけど、今は市民服(背広)を着て日本が再びやってくる。侵略しにくる」、こういうとらえ方です。
この中で私たちは、アジアに対する日本の支配、占領を考えていきました。もちろん在日朝鮮人という隣人がいますが。アジアの被害者を日本にお招きして話をしていただいたのが「アジア太平洋戦争の犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」の活動です。被害者の証言にふれて日本の戦争を被害だけでなくて加害者の視点から捉えられるようになったのが70年代後半からではないでしょうか。70年代には、もう日本人のキーセン観光、アジアへの買春観光がはじまり、女性たちが反対運動をはじめました。そういう時代です。
80年代後半、90年代になるとアジアの被害者たちが日本に対して具体的に被害を訴え、謝罪と補償を要求する戦後補償裁判がはじまります。2008年ぐらいまでに80件をこす裁判が起こされましたが、ほとんど全部負けています。しかし、その過程で多くの被害者証言が出てきました。
■戦後100年に向かって
戦後70年、今、多くの資料が開いています。それと同時に、被害者の証言もまだまだ私たちは聞くことができるし、記録も残っています。その今最大の問題として、いわゆる「慰安婦」の問題が出ています。私たちはアジアとの関係でどのような戦後処理をしてきたのか、被害者として、加害者としての視点から、あの戦争を考えることができるようになりました。加害の責任と同時に、被害を受けたことをふまえてアジア太平洋戦争とは何だったのかを考える、戦後70年というのは、それが可能な地点だと思います。
最後になりますが、今から30年くらい前に鶴見俊輔さんに「戦争は100年たたないときちっとした歴史は書けない」といわれたことがあります。「何、悠長なことをいってるんだろう」と思ったことがありましたが、あと30年で100年です。今、資料も情報公開法によりどんどん公開されています。日本でも海外でも資料が公開されはじめています。これからの30年、アジア太平洋戦争の歴史を植民地支配をふまえて描いていくために一緒に努力していきたいと思います。
なお、日韓関係がぎくしゃくしているので最後に朝鮮植民地のことでひとことつけ加えさせていただきます。
韓国は、1945年米軍による直接統治(軍政)の下に置かれました。マッカーサー元帥の名前で「朝鮮の住民に告ぐ」(7日付布告)が出され、「北緯38度以南の行政権は同元帥の権力軍政下」に置かれました。軍政から3年、1948年8月15日に大韓民国政府樹立が宣言されました。朝鮮民主主義人民共和国は9月9日樹立しています。
大韓民国はサンフランシスコ講和会議に参加を希望していましたが、1951年7月9日、ダレスは駐米韓国大使に「日本と戦争状態にあり、1942年1月連合国宣言に署名した国だけが講和条約に署名」できると伝え、韓国は署名国になれないことを通告しています。じつは日本、具体的には吉田茂首相が強硬に反対していたのです。
韓国は連合国とともに「闘ってきた」ことを強調し、講和会議への参加を強く要望したが、招請状は届きませんでした。1951年10月20日から日韓会談がはじまります。交渉は難航し、1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が調印されました(同年12月18日発効)。
14年にわたる交渉のなかで会談はたびたび中断し、ようやく国交が回復しましたが多くの問題が残りました。その一つに韓国併合条約が有効か無効かの問題があります。韓国は、条約は過去の日本の侵略主義の所産であり、不義不当な条約は当初より不法無効であったと解釈していました。日本の見解は一貫して「合法」です。解釈の相違が埋まらないまま、条約が結ばれました。
「請求権・経済協力協定」では、韓国は請求権を放棄、日本は10年間に1080億円(3億ドル)の無償供与、720億円(2億ドル)の借款、1080億円(3億ドル)以上の民間信用の供与という形で結ばれました。この有償無償5億ドルは賠償ではなく、植民地支配への謝罪の性格をもつものでもありませんでした。
この条約で個人の請求権が消えたのか。日本は個人の請求権もふくめて日韓条約で「解決済み」という立場でした。2012年5月24日、韓国大法院(最高裁)は、三菱重工、新日鐵(旧日鉄)の朝鮮人労働者のうち生存者8人に「個人の請求権」が残るとの判決を下しています。
「請求権協定は日本の植民支配賠償を請求するためのものではなく、……韓日両国間の財政的・民事的債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのもの」であり、「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為と植民支配に直結した不法行為による損害賠償請求権が請求権協定の適用対象にふくめられていたと見がたい」
このように韓国大法院は、個人の請求権は残ると明言しています。
被害者から賠償請求という形で、日本のいまだ清算されない、継続する植民地支配が問われたのです。日本政府も企業も「解決済み」との答えをくりかえすだけで、被害者からの訴えに何の対応もしないまま今日に至っています。
「サ条約」の枠組みの中でおこなわれてきた韓国、中国との日本の戦後処理の問題点があきらかになる中で、日本は改めて植民地主義をどう清算し、植民地支配の責任を背負っていくのかが問われている、それが現在だと思います。
※本稿は、東京歴教協第48回研究集会(2015年2月22日)において行われた講演記録をもとに、内海愛子氏から加筆・校正していただきました。(編集部)
(転載ここまで)
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初出:「ピースフィロソフィー」2015.12.13より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/12/blog-post_13.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5805:151213〕
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