書評:内田弘の快著『啄木と秋瑾』の印象的評
- 2011年 1月 17日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
内田弘教授から『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年)を去年の末に贈られた。記して感謝する。副題に「啄木歌誕生の真実」とある。真に気になる題名である。私は短歌というより和歌が好きである。時にふれて詠歌することもある。拙著『20世紀崩壊とユーゴスラヴィア戦争 日本異論派の言立て』(御茶の水書房、平成22年)の「あとがき」は、私がバルカンの戦域で詠まざるを得なかった歌から成る。かといって、特定の歌人が好きということはない。とくに明治以降の歌人は、日本常民社会の常識が伝えてくれた歌だけしか知らないといってよい。例えば、明治天皇の「浅みどり・・・」、「四方の海・・・」、晶子の「君死にたもふことなかれ・・・」、啄木の「東海の・・・」、「働けど働けど…」等。
秋瑾の名は民国革命の先駆者であって、刑死にあたって名せりふ「秋雨秋風人を愁殺す」をはいた人であることだけしか知らなかった。本書でそれが秋瑾のオリジナルでなく、「陶澹人の漢詩『秋暮遣懐』の一節」(p.272)であることを教えられた。もちろんのこと、啄木と秋瑾なる一対、しかしながら言ってみれば、啄木の秘めたる一方的片思い、思想的激情的プラトニック・ラブ―内田はこのような言表を用いていないが、内田の説くところを私、岩田なりに要約すれば、こうなる。―などは全く想定の外、意外事である。
内田が本書で開示した新発見は、啄木歌生誕の秘密が、終末期清朝を革命する準備体操として日本に留学していた陳天華と秋瑾の悲痛な運命に対する啄木の心の奥底に生じた振動的共鳴にあるとする仮説とその情況的・詩魂的証明である。一例として、「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹と戯る」をとってみよう。私などは、この歌を少年的・青年的感傷の名歌として読んでいた。ところが、内田によれば、この歌の直近背景に日中関係史上の一悲劇があった。1905年12月8日、清国留学生陳天華は、時の日本政府の「清国人留学生取締規則」とそれに連動する主流派メディアの軽侮的言論「清国人特有の放縦卑劣」に怒り、「絶命書」に「東海にこの身を投げて、諸君のために祈念とする」(p.206)と書き残し、大森海岸で抗議自殺した。同志秋瑾は、陳天華の死の翌日、東京神田「錦輝館」で追悼集会を開き、その年のうちに清国人留学生7~800人を引き連れて、抗議帰国した。かくして、排満興漢の国民主義革命の実践に身を投じ、1907年7月15日、紹興起義に失敗し、斬首される。その報は、ただちに日本=東海の小島に届き、啄木とその友は強烈な衝撃を受ける。そして、求めうる限りの秋瑾詩詞を集中的かつ持続的に読んで、そのプロセスから啄木歌が誕生したと内田は説く。秋瑾の詩に「泛東海歌」があり、趣旨は興漢を目指し、日本へ留学するところにある。「因之泛東海、冀得壮士輔」なる句がそこにある。日本に行って、心ある日本人の支援を求めたいという意であろう。残念ながら秋瑾の目に映った東海=日本(の一部)は、「取締規則」であり、「清国人の放縦卑劣」なる言論であった。これが秋瑾の斬首につながり、啄木歌誕生「短歌爆発」に至る。以上のような時代情況を教えられると、「東海の・・・」は、もはや少年的・青年的感傷の名歌であることはできない。「泣きぬれて」は、まさに「くやし泣き」、陳天華と秋瑾の、そして彼らの志と心情に呼応しえなかった日本人青年の「くやし泣き」である。今日でさえ、「東海の」を「南海の」に変えれば、沖縄県民の「くやし泣き」、そして彼らの米軍基地撤廃要求に呼応できない本土日本人(の一部)の「くやし泣き」の歌として切実であろう。
内田の独創的主張は、啄木は秋瑾詩詞を土台に韻字詠歌法、主に用韻法を駆使して、「石破集」の51%、「新詩射詠草 其四」の55%、「虚白集」の43%、「謎」の27%で直接・間接に秋瑾や陳天華を詠っている(p.339)とする。問題は、「啄木の書いたもの(=広義の著作、すなわち短歌・詩・小説・評論・書簡・日記など)に、秋瑾そのものの名前は存在しない」(p.24)ところにある。とすれば、啄木は秋瑾を知らなかった。したがって啄木歌と秋瑾詩詞とは全く無関係となる。内田の仮説は、十分に知っていたが、当時の言論統制条件の下で秋瑾の名を明記することは極度に危険であり、用心に用心を重ねてその名を伏せた、というものである。本書第2章「啄木は秋瑾を知っていた」は、その詳細な実証と詩論的証明である。内田の叙述は、説得力がある、しかしながら詰めを欠いている。それは、「日記に『不敬』の条があったとされ、不敬罪で禁固四カ月の判決を受けた」(pp.265-266)橋浦時雄事件を知った啄木が、大逆事件(1910年)を日記・書簡に記すことを(やめたのではなく)公判終了まで待ったという事実に表明されている。「1911年(明治44年)1月24日、啄木は日記に書く。『夜、幸徳事件の経過を書き記すために12時まで働いた。これは後々への記念のためである』」(pp.264-265)。私、岩田にとって、明治天皇暗殺を企画したとされ、多数の刑死者を出した大逆事件=幸徳事件を日記に明記する気力のあった石川啄木に異朝の反逆者・刑死者の秋瑾の名前を「政治的修辞的表現法」(p.25)をかくも完璧に使用し、かくも完全に隠蔽する必然性があったろうか、それが疑問である。大逆事件明記の方が秋瑾斬首明記よりも百倍危険であろう。
内田の韻字詠歌法的啄木歌解読に触発されて一言してみたい。第16章冒頭の「秋の雨に逆反りやすき弓のごと、このごろ君のしたしまぬかな」と「秋の風夜昼ひびきぬ人訪はぬ山の祠の石馬の耳に」は、平家物語の巻六「小督」に和韻するともいえる。「主上は御涙にくもりつつ」、「仲国、竜の御馬給わって」、「嵯峨のあたりの秋のころ」、「峰の嵐か松風か、たづめる人のことの音か」と見てゆけば、二首には「ことの音」がないだけで、「弓」は武士の「仲国」に、「雨」は主上の「なみだ」に隠れてあり、「秋風」、「訪」、「馬」は陽にある。韻字詠歌の反語法と言えまいか。内田のあげる「虚白集」の第90首、第91首、第94首、第97首、第99首、第101首、第102首は、私、岩田のような常民的感性によれば、白楽天の長恨歌に韻字しているように感じられる。幕末の光崎検校が長恨歌に基づいて作曲した筝組歌は、「秋風の曲」と呼ばれている。以上は私、岩田の冗談であって、本気にとらないでほしい。「東海の」や「ふがひなき我が日の下の女らを秋雨の夜にののしりしかな」のように秋瑾詩詞を念頭に置くと、詩像がより鮮明になる歌が多い。私のように、やれ平家物語、やれ長恨歌と右往左往するのではなく、韻字詠歌法の対象をただ一つ秋瑾詩詞に定めることによって、啄木歌の多くを統合的イメージで味わうことができるのは、内田説の優位性であろう。
最後に、本書を通して、秋瑾詩を読んで、平川祐弘教授が「閑雅な生きる喜びが感ぜられる」と評した清朝18世紀の詩人袁枚(1716-1797年)の詩生活について秋瑾(1875-1907年)をして評せしめれば、「一睡沈沈数百年、大家不識做奴恥」(宝刀歌)に沈没してしまうのか、と粛然となった次第である。専門研究者による『啄木と秋瑾』の評をぜひ読みたい。
付書すべきことがある。第1に、第17章の「日露戦争の戦費は・・・ロシアから奪った賠償金で返済した」(p.267)は誤りである。戦力の尽きていた日本は、南樺太の獲得で満足せざるを得なかった。期待していた賠償金なしの講和に日本常民は猛反対し、日比谷焼き打ち暴動を起こした。第2に、第19章において、従来の内田の論調に見られた「博愛(友愛)」や「友愛(博愛)」が姿を消し、「友愛」だけで一貫して議論している。私、岩田の年来の主張を受け入れてくれたのであろうか。賛成である。
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