〈大正〉を読む・12 和辻と「偶像の再興」・その1 ─津田批判としての和辻「日本古代文化」論
- 2015年 12月 16日
- スタディルーム
- 子安宣邦
1 偶像の破壊
『日本古代文化』の大正9年初版[1]の序で、「在来の日本古代史及び古代文学の批評」は彼にとっては「偶像破壊の資料」に過ぎなかったといっている。少年時代以来、和辻はさまざまな理由から「日本在来のあらゆる偶像を破壊しつくして」きたという。明治22年(1889)生まれの和辻にとってその青少年期は日露戦争の戦後という時代であった。日本近代史は最初の戦後をその時期に経過し、人びとも最初の戦後をその時期に体験したのである。日本は日露戦争とともに帝国主義的近代に入っていく。和辻ら明治後期の青年における近代意識の形成は、眼前の近代への批判意識の生起とともになされるものであった。あるいはむしろ批判意識とともに近代が彼らに自覚されるのである。青年和辻の最初の著書が『ニイチェ研究』であることは象徴的である。彼らは近代にそれが作る偶像の破壊を通して向き合うことになるのである。
和辻にとって「偶像破壊の資料」に過ぎなかったという「日本古代史及び古代文学の批評」とは何を指しているのか。津田の記紀批判の最初の著作『神代史の新しい研究』が公刊されたのは大正2年(1913)である。『古事記及び日本書紀の新研究』の刊行は大正9年(1919)である。その間に津田は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の「貴族文学の時代」「武士文学の時代」「平民時代・上」を刊行している。津田のこれらの書が和辻にとって重要な意味をもってくるのは、むしろ和辻の「偶像の再興」期における和辻の批判的文脈においてである。和辻の「偶像破壊の資料」というのは、津田のこれらの書に具現化されていった当時の史学的・文学的「批評」作業をいうのだろう。和辻がいう「批評」とは古典的文献に対する「高等批評」の謂いであり、文献学的なテキスト批判、史料批判を意味している。明治末年から大正にかけての時期、古典的文献・古代史料のテキスト批判的な吟味が古代史・古代文学研究の基本作業として重視されていった。津田の『神代史の新しい研究』の刊行に先立つ時期に白鳥庫吉が「『尚書』の高等批評」[2]という論文を発表している。白鳥は津田を先導する文献批判的方法意識をもった最初の東洋史学者である。同じく文献批判的方法意識をもった内藤湖南が東洋史講座開設のために京都大学に赴任するのが明治40年(1907)である。彼らによって新たな東洋学あるいは支那学が成立するのである。
この支那学の成立とともに四書五経といわれる儒教経書の原典性そのものが批判的に吟味されるようになる。聖なる成立時に鎮まっていた『論語』の原典性は容赦ない文献批判によって、後世的な長い編纂過程からなる人為的なテキストへと変容・解体されていくのである[3]。それはまさしく偶像の破壊である。この偶像破壊的な文献批判が白鳥を介した津田によって『古事記』『日本書紀』という日本の国家的原典に向けてなされていくことになる。
『記紀』とは明治日本において国家の原初的な成立を証す根元的史料であった。『記紀』をこの意味での根元的史料としたのは明治国家である。明治における近代国家としての日本の成立が『記紀』をこの根元的史料として要請したのである。そこから神話における「神武創成」が日本国家の歴史的紀元とされることになった。『記紀』とは日本近代が「日本国家」とともに作り出した偶像である。この『記紀』という偶像に向けていま文献批判という偶像破壊的方法が用いられようとする。これは近代国家日本が直面する逆説的な事態である。あるいは王政復古的な日本近代がもった逆説というべきかもしれない。文献批判・史料批判を前提にした近代的な歴史研究・古代研究の成立が、近代が「国家」とともに作り出した「国家的原典」という偶像を破壊しようとするのである。それは明治末年から大正にかけての時期である。24歳で『ニイチェ研究』を処女出版した青年和辻も、この偶像破壊的な時代的エートスの中にいたのである。
2 偶像の再興
「日本文化、特に日本古代文化は、四年以前の自分にとつては、殆ど「無」であつた」と前に引いた『日本古代文化』の「初版序」で和辻はいっている。「四年以前」とは和辻が『ニイチェ研究』を出した時期、明治末年から大正の初年にかけての時期である。その時期、『記紀』の日本古代文化は彼にとってほとんど無かったのである。顧みるべき何物でもなかったのである。それは『日本古代文化』が出る大正9年(1920)に先立つ僅か四年以前の時期であった。津田による『記紀』文献批判的な偶像の解体が始められていったのもその時期である。だから和辻は「日本古代文化」の価値を再発見しようとするこの書で、「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と書いているのである。明らかに和辻は津田の日本神代史を「作り物語」とする見方を認めているのである。だがそのことを告げる和辻の言葉は、「もう疑の余地がないと思ふが」と反転し、「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」(「上代史概説」5)というのである。これは『記紀』の再発見的読みの可能性をいう言葉である。和辻の『日本古代文化』は、一度破壊された『記紀』という偶像の再興を図ろうとする書である。だからかつて偶像破壊者であった自分はいまここでは「すべてが破壊しつくされた跡に一つの殿堂を建築すべく、全然新しい道を取らなくてはならなかつた」(初版序)と書くのである。和辻はいまや偶像の再興者になったのである。
若き日に偶像破壊者であった和辻は転向した。大正7年(1918)に刊行した評論集『偶像再興』(岩波書店)の冒頭の「序言」でいっている。「予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあつても、とにかく予としては必然の道であつた。さうしてこの歯の浮くやうな偶像破壊が、結局、その誤謬をもつて予を導いたのであつた」[4]と。羞恥とともに回想される偶像破壊とは、自己の未成熟からくる模倣的な破壊衝動であったのか。ともあれ彼は転向する。そして偶像は再興さるべき権利をもっていると書くのである。「破壊せらるべき偶像がまた再興せらるべき権利を持つといふ事実は、偶像破壊の瞬間においてはほとんど顧みられない。破壊者はただ対象の堅い殻にのみ目をつけて、その殻に包まれた漿液のうまさを忘れている。」
少年和辻をかつて偶像破壊へと向かわせた理由について、「数知れぬさまざまな理由」と『日本古代文化』の「初版序」に和辻は書いている。ではその彼を偶像の再興者へと転向させた理由は何か。「一人の人間の死が偶然に自分の心に呼び起した仏教への驚異、及び続いて起つた飛鳥奈良朝仏教美術への驚嘆が、はからずも自分を日本の過去へ連れて行つた」と和辻は同じく「初版序」に書いている。かつての彼にとって無きに等しかった「日本古代文化」の再発見に彼を導いたのは「一人の人間の死」であったといっているのである。和辻の精神の転換を導くほどの重い意味をもった「一人の人間の死」とは何であったかを探る手段を私はもっていない。和辻の「年譜」にはそれを窺わせる記事はない。「ある子供の死(なき坂秀夫の霊に手向く)」[5]という『思想』(大正10年11月)に載った文章があるが、その「子供の死」が上の「一人の人間の死」であるかどうかは分からない。ともあれ「一人の人間の死」が和辻における精神的な転換を導いたのである。『偶像再興』に「転向」を記したその翌大正8年に和辻は『古寺巡礼』を出版する。和辻の名を今に留める名著である。『日本古代文化』が刊行されるのはその翌大正9年である。
和辻の人生において重い意味をもった「一人の人間の死」が彼の精神の転換を導いた。偶像の破壊者であった和辻は、再興さるべき権利をもったものとして偶像を再び見出すのである。日本の古代とその文化は、いま再発見者和辻をもつことになるのである。「一人の人間の死」は和辻の個人史をこえた重い意味を日本文化史あるいは日本近代史の上にもつことになるのである。
3 津田の記紀批判
「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。『記紀』によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[6]ともいい切るのである。この津田による『記紀』批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。
「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」
記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命とともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。
そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』再発見者である宣長ぐらいだろう。津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民ー国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。
「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」[7]
これは津田の神代史の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。『記紀』の神代史とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。
[1] 和辻『日本古代文化』初版・序(岩波書店、1910年初版)。
[2] 白鳥庫吉「『尚書』の高等批評」、『東亜研究』1912。
[3] 東洋学・支那学の成立については、「近代知と中国認識ー「支那学」の成立をめぐって」『日本近代思想批判ー近代知の成立』(岩波現代文庫、2003)を参照されたい。
[4] 和辻『偶像再興』岩波書店、1918。
[5] 「ある子供の死(なき坂秀夫の霊に手向く)」『和辻全集』第20巻所収(岩波書店、1963)。この文章は、『思想』大正10年11月号に掲載された。全集最終巻(第20巻)の「小説・戯曲」と分類された篇中に収められている。それからするとこの文章は小説の形を取った亡き子への追悼文であるのかもしれない。なお『日本古代文化』は「亡き児の霊前に捧ぐ」の献辞をもっている。
[6] ここに引くのは『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8)を改訂した『古事記及日本書紀の研究』(大正13)の「結論」の章からである。
[7] 『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』(岩波書店、大正5年)は戦後改訂され、『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として昭和26年に岩波書店から刊行された。ここの引用は『津田左右吉全集』別巻第二所収の大正5年初版本によっている。なおこの引用冒頭の「こんな風であるから」とは、漢文の知識も漢字利用も少数の貴族のものであって、国民の多数のものではなかった上代日本の風をいっている。
初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.12.15より許可を得て転載
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〔study686:20151216〕
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