〈大正〉を読む・13 和辻と「偶像の再興」・その2―津田批判としての和辻「日本古代文化」論
- 2015年 12月 27日
- スタディルーム
- 子安宣邦
1 津田の記紀批判
「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。記紀によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[1]ともいい切るのである。この津田による記紀批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。
「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」
記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命とともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』の再発見者である本居宣長ぐらいだろう.津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民−国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。
「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」[2]
これは津田の「神代史」の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。記紀の「神代史」とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。
2 偶像の再構築
和辻の「日本古代文化」研究とは、津田の記紀批判という偶像破壊を受けてなされた偶像再興の作業である。記紀における神代史・上代史の記述が後人の創作になるものであることは、「もう疑の余地がないと思ふが」と津田の記紀批判を受け入れるかのようにいいながら和辻は反転する。「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」と和辻はいうのである。もちろんそうだ。津田が記紀の「神代史」を後人の編述になる「作り物語」というとき、そこに編み込まれた説話・民話の類いがすべて後人によって創作されたなどといっているのではない。一定の意志をもった後人の編述を創作といっているのである。その創作的意志の遂行の過程で説話の原形もまた変容されるのである。説話は作為をもって「神代史」に編み込まれるのである。それを明らかにするのが津田の詳細な本文批評をもってした記紀批判である。津田がいう「神代史」の編述を貫く後人の創作意志とは、皇室の創成を神話的起源に由来する創成史として、いいかえれば高天原の主宰神である日神を皇祖神とした皇室の創成史として、すなわち「神代史」として語り出そうとする創作意志である。
だから津田の記紀批判は、皇祖神を中心とした皇室の思想を「神代史」の骨子として明らかにするのである。皇室の存在は津田の記紀批判によって記紀の創作意志との相関のうちに置かれることになるのである。それは津田自身の皇室観とかかわることではない。それは「神代史」を「作り物語」とする津田の文献批判の論理、私が〈脱神話化〉という記紀批判の論理に由来することである。津田の記紀批判は、たしかに神話的起源をいう天皇制国家権力にとって禁止されねばならない学術的言論であった。そして和辻にとっても津田の記紀批判は、いま始まる再興の作業が過去に葬るべき偶像破壊を意味したのである。
偶像破壊とは人びとの奉じる神を殺すことである。偶像の再興とはその神を再び祭壇上に奉じることである。津田の記紀批判は神を殺したわけではない。神を裸にしてしまったのである。日本の神がまとっていた民族的、共同体的な〈神話〉的装いを彼ははぎ取ってしまったのである。それが『記紀』の〈脱神話化〉である。『記紀』は皇室の成立を語っても、民族の成立を語るものではないと津田はいった。『記紀』の「神代史」とは、国民の精神の結晶というべきものではないともいった。それを奉じる人びと(民族・国民)から切り離された神とは、殺されたにも等しいというべきだろう。
和辻は津田の記紀批判を偶像破壊だとした。彼は破壊された偶像を再興しようとする。ではどのように再興するのか。はぎとられた民族的、共同体的装いをもう一度日本の神々に着せることによってである。神代史に編み込まれた説話や民話からもう一度、それらを語り伝えた人びとの息づかいを聞き出すことによってである。神が再び共同体の神として、神と民族とが一つのものとして神代の物語から読み出されたとき、偶像は再興されたといえるだろう。『古事記』がもう一度発見されなければならないのである。
3 『古事記』の復興
和辻は『日本古代文化』における『古事記』再評価の章の冒頭でこういっている。「古事記を史料として取扱ふためには厳密な本文批評を先立てねばならぬ。しかしこれを想像力の産物として鑑賞するつもりならば、語句の解釈の他に何の準備も要らない。しかも古事記がその本来の意義を発揮するのは、後者の場合に於てではないだらうか。」この文章が津田による記紀の解体的批判後のものであることは明かである。だがここでは津田の記紀批判は和辻なりに理解されている。和辻は津田の記紀批判における厳密詳細な本文批評を『記紀』の史料性の吟味にかかわる作業としている。これは『記紀』の「神代史」を後人の創作とした津田の見方を、恐らく意図的に欠落させている。和辻は津田の解体的批判は『記紀』を歴史的史料としてみなすことの上になされたものであった。歴史的史料とみなすかぎり、「帝紀」に対して「旧辞」的な説話的部分を多くもつ『古事記』の史料的な意味はほとんど津田によって否定されると和辻は解するのである。こう解することから津田批判としての和辻の『古事記』復活の論理が展開されることになる。『古事記』が歴史的資料としてではなく、文化的あるいは文学的資料としてみなされるならば、その意義は別個に、積極的に見出されるはずだと和辻はいうのである。和辻はここで「想像力の産物」としてみなすならばという。和辻のいう想像力とは恣意的な空想をいうのではない。民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等であるような、民族の文化的な統一を作り出す文学的創作力をいうのである。『古事記』をこの意味での「想像力の産物」とするならば、その意義を解するには文学的解釈力だけがあればいいと和辻はいう。『古事記』の復興は文学的解釈力を自負する和辻によって担われるのである。
『古事記』とは日本の古代史のどこにもそれを歴史上に繋ぎ留める釘をもたない、いわば歴史的には浮游するテキストである。その成立は太安万侶の序という自己証明しかもっていない。その序には撰録が成って安万侶が『古事記』を元明天皇に献上したのは「和銅五年正月二八日」だと記されている。和銅5年とは712年である。だがこの年における『古事記』の成立を傍証するものは何もない。ちなみに『日本書紀』は養老4年(720)に成ったことが『続日本紀』に記されている。『古事記』が日本の最古の古書として見出され、その意義が評価されるに至ったのは本居宣長によってである。宣長は太安万侶の序を真実のものと信じた。「序は安万侶の作るにあらず、後の人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり。すべてのさまをよく考るに、後に他人の偽り書る物にはあらず、決く安万侶朝臣の作るなり。」(『古事記伝』二之巻)と宣長はいう。「序は恐らくは奈良朝の人の追て書し物かとおぼゆ」と宣長に告げたのは師である賀茂真淵であった[3]。宣長は師に逆らう形で安万侶の序を真としたのである。これを真とすることは何を意味するのか。そのことはまず和銅5年(712)の『古事記』の成立を真とすることを意味する。さらに重要なことは、『古事記』成立の背後に天武天皇(命令者あるいは原形的古記録の選定者)と稗田阿礼(誦習者)とそして太安万侶(最終の撰録者)という統一的な意志をもった作者たちが存在することを序によって認めることである。古の事を古の言にしたがって正しく後に伝えようとする意志が『古事記』成立の背後に読み取られることになるのである。『古事記』テキストの成立過程に天武天皇の命にしたがってなされた稗田阿礼による誦習の過程を認めることは、このテキストがもつ古代性をいっそう確実にするのである。師に逆らってこの安万侶の序を真とすることによって、宣長の大著『古事記伝』ははじめて成るともいえるのである。
だが『古事記』とは危うい書である。虚心にこの安万侶の序を読むならば、これが何かを隠すがごとく装われた文章であることを直ちに認めるはずである。装飾的漢文の作為をにくむ宣長がそれに気づかなかったはずはない。しかし宣長はなおかつこれを真としたのである。宣長にこれを真とさせたのは、『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への信であったのかもしれない。『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への宣長の信が、安万侶の序をも真実とさせたのだろう。私がいいたいことはこうだ。『古事記』の古典性とは、後世における再評価的な発見者なり解釈者の存在と相関的だということである。『源氏物語』は宣長をまたずともわれわれにとっての古典でありえている。だが『古事記』は宣長なしにはわれわれにとっての古典ではない。『古事記』に対する宣長のこの位置を近代で継承し、再現するのが和辻だと私には思われる。
天武天皇は「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流」えることを欲せられ、稗田阿礼に「勅語して帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習」わしめたと太安万侶の序はいっている。後に安万侶はこれによって『古事記』を選録し、元明天皇に献上したというのである。和辻はこの安万侶の編集作業をこう考える。「もし安万侶が何らか手を加へたとすれば、それは従来離れてゐた帝皇日継と先代旧辞とを混合したことに過ぎないであらう。・・・古事記を芸術品として見るときには、右の混合は全体の統一に対する最も不幸な障害である。然らば安万侶は旧辞の芸術的価値を減殺する以上に内容的には何事をもしなかつたわけになる」と和辻はいうのである。安万侶の編成作業とは『古事記』がもつ「芸術的形式を破壊したに過ぎ」ないのである。ではもう一度『古事記』を高い芸術性において輝かすためにはどうするか。
「でもし我々が現在の古事記から帝皇日継と先代旧辞とを分離するならば、(即ち誤つて混合せられた系譜と物語とを、──散文的な現実の記録と想像から出た詩的叙述とを、──自然主義的記述と理想主義的記述とを、分離するならば、)そこに現はれた先代旧辞こそは、継体欽明朝に製作せられた一つの芸術的紀念碑なのである。」
『古事記』という一つのテキストから旧辞的部分だけを分離するというのはまったくの恣意である。だがこの恣意的操作によってはじめて『古事記』は現代に芸術的価値をもって甦るものであることを和辻のこの言葉は教えている。『古事記』とはたしかに危うい書なのだ。だが私が和辻による『古事記』再評価をめぐってのべてきたのは、『古事記』のこの危うさをいうためではない。和辻の『古事記』再評価によって、何が、いかにして甦るかである。何が、いかにして再興されるかである。
4 日本民族の読み出し
和辻は『古事記』の混合テキストから帝皇日継を洗い去ったところに「先代旧辞」という「一つの芸術的作品」を認めるのである。『古事記』の旧辞とされる神話・民話はただ寄せ集められた多数としてあるのではない、和辻はそれらを一つの芸術的な作品として見るのである。これを一つの作品とすれば、そこに作者が存在することになるだろう。「その作者が(単数であると複数であるとを問はず)上代のすぐれた芸術家であつたことを認める」と和辻はいうのである。その芸術的な価値においては『日本書紀』は『古事記』にはるかに及ばないと和辻はいう。その『日本書紀』について和辻は作者をいったりはしない。では『古事記』の「先代旧辞」の作者とはだれか。宣長はすでに和辻がいう「先代旧辞」の作者を天武天皇と稗田阿礼の二人に見ていたように思われる。和辻もまたこの二人を作者としていたのかもしれない。だがこの二人に見る作者とは、多くの異本群からこの「先代旧辞」を最良のものとした選定者であり、その旧辞の言語を誦習し、記憶にとどめた宮廷の語り部ではないのか。本当の作者とはその旧辞の中にこそいるのではないか。神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』の「先代旧辞」を和辻が一つの芸術的作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。
『日本古代文化』の冒頭の章「上代史概観」で和辻は、「我々の上代文化観察はかくの如き「出来上つた日本民族」を出発点としなければならぬ」といっている。彼は考古学的遺物をはじめ歌謡、神話、信仰、音楽、造形美術などによって上代文化を考察するが、その文化の共同的形成主体である日本民族がすでに出来上がっていることを前提にするというのである。混成せられた民族がすでに「一つの日本語」を話すところの「日本人」として現れてきていることを前提にするというのである。『古寺巡礼』の作者和辻にしてはじめてなしうるような日本上代文化の考察とは、芸術性豊かな日本民族を文化的遺物によって読み出すことでもあるのだ。『古事記』とはこの日本民族の最初にして最古の芸術的作品である。昭和の偶像はこのようにして再興された。
[1] ここに引くのは『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8)を改訂した『古事記及日本書紀の研究』(大正13)の「結論」の章からである。
[2] 『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』(岩波書店、大正5年)は戦後改訂され、『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として昭和26年に岩波書店から刊行された。ここの引用は『津田左右吉全集』別巻第二所収の大正5年初版本によっている。なおこの引用冒頭の「こんな風であるから」とは、漢文の知識も漢字利用も少数の貴族のものであって、国民の多数のものではなかった上代日本の風をいっている。
[3] 真淵が宣長宛書簡(明和5年3月13日)でいっている(『校本賀茂真淵全集』思想篇下、弘文堂書房、1942。
初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.12.15より許可を得て転載
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〔study689:20151227〕
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