来たる年にこそ、力を合わせてアベ・ビリケン(非立憲)内閣を懲らしめよう。
- 2015年 12月 29日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
今年も残すところあと僅か。ちらほらと、フライングの新年の挨拶状が届く。暮れの慌ただしいさなかに場違いな感を否めないが、年越し前の週刊紙誌の新年号配達はやむを得ない。
本日、新宗教新聞の元日号が届いた。一面のトップに、穂積秀胤新宗連理事長による長文の年頭所感が掲載されている。その中見出しが、「絶対非戦の平和活動を推進」「信教の自由、立憲主義を堅持し」となっていることに注目せざるを得ない。「戦後70年の」2015年を振り返っての文章の中に、次の一節がある。
「昨年9月19日、日本の戦後防衛政策の大きな転換となる安全保障関連法が参議院本会議で成立しましたが、先立つ17日の参議院特別委員会では『議場騒然、聴取不能』と議事録に記載される採決でもありました。新宗連はこうした議会制民主主義を揺るがしかねない採決に対して同日、『安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明』を発表いたしました。声明では、法案採決が正規の憲法改正手続きを経ないまま『憲法を根底から揺るがすもの』と危機感を表し、立憲主義が時の政府の『解釈改憲』によって損なわれることがなきよう訴えました。
今後も解釈改憲が拡大していけば、新宗連の原点である『信教の自由』(憲法20条)をはじめ『個人の尊重』(13条)、『思想・信条の自由』(19条)、『集会・結社・表現の自由』(21条)も歪められる恐れがあります。
新宗連といたしましては、時代がどう変化しようとも断固として、基本的人権の根幹たる『信教の自由』を守りぬかねばなりません。その決意をあらたにするところでございます。」
政権の解釈改憲に心を痛め、その強引な国会運営に憤り、そして時の政府の解釈改憲手法に将来への危機感を持つ人々がここにもいる。そして、アベ政権の解釈改憲手法の拡大が憲法上の権利を侵害していくことを恐れるだけでなく、断固として憲法原則を守り抜く決意を表明していることに感慨を覚える。
保守か革新か、強引な線引きをすれば新宗連は明らかに保守の側に分類されるだろう。かつて新宗連は、組織内候補を国会に送ったが、その所属は自民党だった。その新宗連も、アベ政権とは一線を画さざるを得ない。立憲主義をないがしろにするアベ政権を、自分たちに牙をむきかねない危険な存在として批判せざるを得ないのだ。アベ政治の基盤は、けっして強固なものではない。
私は、今年9月、新宗連が「安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明」を発表したとき、次のように評した。
「真面目に社会と関わろうする姿勢を持ち、真面目にものごとを考えようとする集団は、必然的にこのような政権批判の声明を出すことになるのだ。かつては、必ずしも『真面目な集団=反自民』ではなかった。しかし今や、宗教団体でも平和団体でも、女性団体でも消費者団体でも、『真面目な集団=反安倍政権』の図式が確立していると考えざるをえない。新宗連がそのよい実例ではないか。願わくは、この姿勢をぜひ来年夏の参院選挙まで持続して、安倍政権の追い落としに力を貸していただきたい。」(9月28日・新宗教新聞1面に「安保法案 強行採決に反対、抗議」の記事)
http://article9.jp/wordpress/?p=5681
新宗連の年頭所感で、さらに注目すべきは、「平和推進事業の一端として、今年度は『立憲主義の堅持』をテーマとする学習会の開催を検討している」としていることである。立憲主義は、かくも社会に根付き、かくも実践的なテーマとなっているのだ。立憲主義が崩れるとき、政権の専横を止めようのない事態に陥る。人権も、議会制民主主義も、平和も崩壊の危険にさらされる。そのことが、真面目にものを考える人々の間に、浸透し始めているのだ。
今年は、アベ・ビリケン(非立憲)内閣が持ちこたえた。しかし、来年こそはこのビリケン内閣を窮地に追い込まなければならない。
(2015年12月28日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2015.12.28より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=6129
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3188:151229〕
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