2016年の歌会始は、変わったか
- 2016年 1月 19日
- カルチャー
- 内野光子
不覚にも
前の日までは覚えていたのだが、洗濯や布団干しをしているうちに、1月14日「歌会始」のテレビの視聴も録画も忘れてしまった。その日の夕刊と翌日の朝刊で、その様子を知ることになる。
その新聞報道によれば、応募歌数は1万8962首、下記の宮内庁発表「最近のお題及び詠進歌数等」の数字の違いは、報道が有効応募歌数に限っているので、生じるらしい。応募歌数の推移は、宮内庁発表の数字を見ても、平成に入って直後は別にして、劇的な変化は乏しく、多いときは2万8000台までとなったが、現在は、2万前後を推移、大きな流れから言えば、低迷していると言えよう。
「歌会始」に舞い上がる人たち
今年の選者は、1993年(平成5年)以降務めていた岡井隆(1928年生)が、今野寿美(1952年生)に代わって、選者はそれぞれ篠弘1933年、三枝昂之1944年、永田和宏1947年、内藤明1954年生まれなので、平均年齢は下がり、河野裕子没後いなかった女性も参入したのだが、応募状況はむしろ下降した。応募者全体の年代別状況はわからないが入選者を見ると、10人中入選者は、80代・70代各1、60代4、50・40・30・10代各1という分布ながら、これは、応募者の割合というよりは、かなりの配慮の末だろう。佳作の17人中80代2、70代9、60代3、50代・20代・10代各1という分布であって、70代だけで半数以上を占める。さまざまな「テコ入れ」をしても、応募者は高齢化の一途をたどるだろう。若くても高齢でも、「入選」の栄誉は、地方紙などでは、「郷土の誉れ」的な感覚で報道されることが多いのが現実なのだが、やがては若い応募者の学校単位の“熱血”指導者も消えてゆくのではないか。皇室制度自体への関心が薄れる中で、皇室の一儀式が、日本の伝統文化、日本人の民族的な文化になぞらえて、引き継がせようとするところに、ムリがある。
「歌会始」は、伝統を受け継ぐ文化行事なのか
今年になって、歌会始の直前、1月10日、『朝日新聞』は「文化の扉」欄で、「はじめての歌会始」を特集している。そこでは、「皇室と国民 同じお題で心詠む」との見出しで、「国民参加型の文化行事」と位置付ける。いまだ皇族らの和歌指南、御用掛を務める岡井隆に「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と語らせた。昨年、陪聴者として招かれたという「ベルサイユのばら」の作者、池田理代子は「式場に入ると、入場者の緊張感がものすごい。一般の人が天皇陛下の前に出られる数少ない機会ですし、みなさん第一級の正装です。そこへ皇族方が入って来られ、厳粛で華やかな雰囲気に包まれる」と舞い上がり、「歌を聞いていて、日本という文化度の高さを感じました。万葉の時代から庶民も含めみんな歌を詠んできた。そして今も、いろんな層の方々が素晴らしい歌を詠まれる」と明治になって定着した国語教科書的な「万葉集」観を披歴する。「歌会始」は、岡井が言うように「脈々と続いている」伝統ではなく、民間の歌人が選者になり、いまのような形になったのは、敗戦後の1947年以降で、明治時代、国民に対して狭い門戸が開かれただけで、それまでは「御歌所」という役所が仕切っていた閉鎖的な「皇室行事」であった。「歌会始」に「伝統」をふりかざしてやまない岡井は、選者就任が決まった1992年には、「歌会始は、もはや最大規模の短歌コンクールに過ぎない」と言って宮廷入りしたことであった。「万葉の時代から庶民も含め歌を詠んだ」という池田の言も、その証ともされる「万葉集」の詠み人知らずや防人を指していると思われるのだが、その「万葉集」の成立過程と編集意図を検証すれば、かれら「庶民」の作品を収録したことの政策的な意図は明らかで、広く「庶民」が歌を詠んでいたことの証明にはならなかったのだ。さらに、明治以降、とくに昭和の戦時体制下では、「国民歌集」として「忠君愛国」のテキストに利用された時代もあったのである。
「歌会始」の政治力学
もう、ここでは詳しく繰り返さないが、歌壇における「歌会始」への無関心という状況は、あくまでも表面上のことであって、水面下では、ヘゲモニーをめぐっての過酷な争いが展開しているとみてよい。いや、ある友人によれば、すでに決着がついたのではないか、とも言われている。実にくだらないことながら、選者の出身結社ないし師の系統図からみて、かつては、少なくとも、2000年前後までは、 良くも悪くも、バランスがとられていた。その出自は、アララギ系(アララギ、未来)、佐佐木信綱系(心の花)、窪田空穂系(まひる野)、北原白秋系(コスモス)、太田水穂系(潮音)、尾上柴舟系(水甕、創作)、前田夕暮系(詩歌、地中海)、釈迢空・岡野弘彦系などに分かれていた。しかし、現在は、そうした結社の違いが薄弱になっていく一方、逆に、「選者」になることは、選者自身の歌壇上のステイタス、短歌メディアへの影響力を強固にし、自らの結社の会員獲得のいわば「広告塔」としての役割をいっそう強めている。
ちなみに、現在の御用掛の岡井(未来)、選者の篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、馬場あき子(まひる野⇒かりん)の「かりん」から飛び出した三枝・今野を選者にしたのは、岡井の馬場への牽制だというのが、友人の分析でもある。要するに、「歌会始」の、あの独特な“のどかな”朗詠の陰に渦巻き、「歌会始」は、まさに、歌壇政治に利用されている側面は拭い去れないのである。
選者にならずとも、毎年、「陪聴者」として招かれる各界の名士の中に混じって、多くの歌人たちの顔が見える。その待合室もかなりの混み様なのか、「歌会始」に無関心を標榜する歌人が増えているような気がする。
いまや、結社やグループなどを経ずに、一人で、あるいはネット上のつながりで、作歌に励む人たちも増えた。彼らの中からの応募も少しは増えているのだろうか。「歌会始」に限らず、新聞歌壇やさまざまな短歌コンクールに応募して、自分の名前や作品が広く読まれることを楽しみにしている人たちもいる。しかし、これが高じて、「何勝何敗」とか「入選攻略法」まがいのハウ・ツーが駆け巡るのもいかがなものかと、文芸としての「短歌」を願うのは、”昭和”の人間だからだろうか。
参考過去記事 :以下の記事の他、キーワード「歌会始」で検索していただければ、関連の過去記事があるので、あわせてご覧いただければと思う。
・2015年12月29日 (火) ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に
参考(宮内庁ホームページより)
・お題一覧と各年詠進歌(昭和22年から)
http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/odai.html#odai-02
・最近のお題と詠進歌数等(平成3年から)
http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/eishinkasu.html
初出:「内野光子のブログ」2016.01.17より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/2016-da8c.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0197:160119〕
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