ゾルゲ事件とヴケリッチの真実(2/2)
- 2016年 1月 23日
- スタディルーム
- 渡部富哉
*長文にわたるため、編集部で2回の掲載に分割いたしましたことをご了承ください。(ちきゅう座編集部)
第9回 ゾルゲ事件 国際シンポジューム
於 オーストラリア・シドニー工科大学
2015年12月4日
「ブランコ・ヴケリッチの回想」解題
■ヴケリッチの先妻で、ゾルゲ機関の無電基地になり、上海で連絡の任務にもついたことのあるエディットが、息子を連れて日本を脱出し、オーストラリアに行ったのは、ゾルゲ事件で最初に挙げられた北林トモの検挙(9月27日)の2日前、9月25日、または26日だという。当時12歳というポールはどうしてこの月日を記憶していたのであろうか(注、ヴケリッチの供述調書には書かれているが、ポールによるとパスポートによるという)。当時、ゾルゲ機関員は全員、特高の監視下にあったはずである。なぜ、エディット母子だけがゾルゲグループの検挙直前に日本脱出に成功したのか。それはどんなルートで可能になったのか。もし、エディット母子にその途があるのなら、ゾルゲ機関の他の者にもそれは可能だった筈ではないのか。
さらに「9月25日、日本脱出」というのはゾルゲ事件の摘発の端緒である北林トモが検挙された9月27日と関係がないのか、これまで定説になっていた伊藤律端緒説を明確な根拠をもって覆したいという思いで、どうしてもそれを聞き取りたいと思った。当時、ゾルゲには上海ルートで、緊急避難のルートが確保されていた。(モスクワ資料による)
この記録によってエディットとデンマーク大使との親交にその謎を解く鍵があるということがわかった。エディットはデンマーク体操の教師の資格をもって日本に入ってきたから、何かしらの関係があったのだろう。そこでこの証言の裏付け調査を開始した。
まず国会図書館で朝日新聞(昭和16年9月27日付)【図k】
を調べた。すると当時12歳だったポール証言に欠落している重要なことが判明した。ポール証言によると、この船は「アンフェイ号」というが、それは英語読みであって、「安徽号(3494トン)であり、新聞記事には「徽」にはわざわざ「き」とルビが振られている。「この船はロンドンにあるチャイナ・ナビイゲーション・カンパニーの南支那沿岸航路船で、乗組員は145名、旅客収容力は小型ながら2000名で、引き揚げ客のため平素は苦力などをつめこむ船室を片づけて、組み立てベッドなどを用意してある。
引き揚げ客の持ち出し旅具検査は25日中に終わっているので、出帆は検査終了次第26日午後出港、香港へ直行の予定だが、検査が4時以後までかかれば27日早朝出帆する。」と記事には書かれている。ポール少年がパスポートで調べた「25日乗船」とはこのことを裏書きしているが、ポール母子が乗船した日は「持ち出し旅具検査」が25日に終わっているから、24日には乗船したであろう。
だが、翌9月28日付の朝日新聞によると、「安徽号は26日夜、横浜港4号岸壁を離れ、14号浮標に繋いだまま、27日正午に至るも出港許可がおりず、レーサム豪州公使および引き揚げ客361名の焦燥を余所に、いつ出帆できるか判らぬ船体を横たえている。」と書かれている。
「25日に検査は終了し、26日に横浜港の岸壁を離れながら、27日正午になっても出港できない」とは、安徽号に一体何が起こったのか。「27日早朝に出帆」の予定ではないのか。船は岸壁を離れると船長の指揮下に入るのではないのか。「レーサム豪州公使の焦燥」とは何を意味するのだろう。
あえて推測をたくましくするなら、後述するニューマンの事例から考えられることは、特高の監視下にあったエディット母子の逃亡を察知した検察が手を回わしたと考えられないだろうか。勿論、それは単なる推測に過ぎず、根拠はない。特高が監視していた和歌山県粉河在住の北林トモ(ゾルゲ事件の検挙第一号)が検挙されるのは27日のことである。筆者にはこれが偶然とは思えない。ゾルゲ事件の検挙は検察がソルゲグループの逃亡を知って、「一刻の猶予ならじ」と、北林トモの検挙から張りめぐらした捜査網を一挙にたぐり寄せることにしたのではないか。
■『スメドレー・炎の生涯』【図l】(ジャニス・R・マッキンノン著、筑摩書房刊)
によると、「41年5月初めまで、スメドレーは香港にいたが、この年の五月下旬に、一文なしでロスアンゼルスに帰って、中国に関する本とそれを補うための講演の準備した」と書かれている。
このポール氏の回想が正しければ、「一文なしで5月にアメリカに戻ったスメドレー」は再び9月に香港に舞い戻って来て、横浜から出航したエディット母子と船中でめぐりあったことになる。偶然にしてはあまりにもできすぎていないか。これはゾルゲ組織からの連絡があってのことではなかろうか。その点については『スメドレー炎の生涯』には一文なしのスメドレーが再び香港に舞い戻ったなどということは何も書かれていない。
またエディットがスメドレーとそれ以前に会ったという記録はこれまでないから、行きずりの人なら「狼狽」したりすることはないだろう。少年ポールはどうしてスメドレーとエディットが会ったとき、母親が狼狽したなどと記憶していたのだろうか。後年、母親から聞いたのであろうか。
■エディットはヴケリッチと別れた後も、ゾルゲ機関の無電基地として自宅を提供していた。当局の電波監視の方位測定はこの時期にはかなり発信場所の特定は狭まっていた。その狭い地域に居住する外国人は当時、多くはなかった。離婚したのちでもエディットの家は特高の監視下にあった。
■ポール氏の回想にある「憲兵隊に逮捕されて自殺した英国人」とは、ロイター通信社のジェームス・コックス【図m】のこと
である。筆者の年譜から引用すると、「ゾルゲたち外国人特派員たちを極度に緊張させる事件が起きた。大規模な英国のスパイ団が摘発され、逮捕される。7月29日、収容中のコックスは憲兵隊で訊問されていたとき、四階から飛び下り自殺をした。」これについての記録は大谷敬二郎著『憲兵秘録』にも書かれており国際的にも大きな問題になった。
コックスの自殺はゾルゲ機関にも大きな衝撃をあたえた。この事件とゾルゲ機関はいかなる関係があったかは明らかではない。英国の情報機関(MI5)も日本で活動していた。その前年には北陸地方で英国スパイ団の検挙があり、反英キャンペーンが繰り返されていた。その活動の一部はリチャード・ディーコンの著作にしばしば登場するが、コックスとゾルゲ機関の関係は明らかになっていない。これは徹底調査の必要があると思っていた矢先、ポール氏のこの証言である。
もっとも注目すべき点は、昭和15年7月30日付の東京朝日新聞の記事【図n】
によると、コックスの先妻はロシア人であったという。しかもポール氏によると、コックス一家はポール母子やヴケリッチと非常に親しく家族ぐるみのつきあいだったということだ。さらに重要なことは、「コックスの住所は神奈川県茅ヶ崎市の菱沼新井別荘で夫人のベルギー人アニー・ゴリスと住んでいた」と書いている。「表向きは『古楠』(楠木正成の略)などと称して親日家を装っていた」とあるが、ヴケリッチの場合は「武家利一」と称していたことと共通している。
コックスの自殺はゾルゲグループとはどんな関係があったのか、以前から筆者は調査対象にしていた。それはコックスの住所が茅ヶ崎菱沼新井別荘だという点にある。
クラウゼンの供述によれば、無線基地は「茅ヶ崎海岸の別荘から漁船に乗って海上から無電を発信した。そこは無線機を隠すにも都合がよかった」という供述がある。クラウゼンの「茅ヶ崎の別荘」とはコックスの住所ではなかったのか、そんな思いで筆者は茅ヶ崎在住の友人に頼んで調べてもらった。「二匹の優秀な猟犬を放った。確かに外国人別荘地はあった」とはそのときの友人からの報告だった。筆者も茅ヶ崎市の菱沼新井別荘を訪ねた。海岸べりの「外人別荘地」は茅ヶ崎市史には記録があるが、はるか70年を越える遠くの歴史で、筆者の思いをとどめただけにすぎなかった。
■ヴケリッチが獄死したのは45年1月13日であった。「彼の死は国際赤十字が1945年に電報で知らせてくれた」ということも興味深いものがある。国際赤十字はどうしてエディットたちの住所を調べたのであろうか。通知された時期は日本の敗戦の年である。誰かが国際赤十字を通して、ブランコ・ヴケリッチの獄死を遺族に知らせたいと連絡したのだろう。それは生前の山崎淑子さんに聞き損ねたが、彼女の可能性は極めて高いと思われる。ヴケリッチの死を知る者は限られていたからである。
■エディットの回想によれば、当局の調べや弁護士からインタビューの誘いがあったようであるが、それを頑に拒み続けたことが記されている。しかし、ウイロビー機関とも近い関係にあった、ゴードン・プランゲ著『ゾルゲ・東京を狙え!』によると、エディット母子の日本脱出の日付は「9月25日」と明確に記されている。(注、「供述調書」に書かれている」)
ゾルゲ事件の研究者としても著名な石堂清倫は「尾崎検挙のしばらく前、翼賛会の講演で、彼が北海道に行き、帰途、東北線で水野成夫、浅野晃、柘植秀臣と当日、飯坂温泉で下車し、尾崎が一同を招待する約束になっていたところ、車中で外国人婦人とすれちがったところ、尾崎の態度が急変し、飯坂下車は取りやめ、後日、改めて一席を設けると言って彼は上野に直行した。
一同はしかし飯坂に一泊した。この婦人が何者であるか、アイノ・クーシネンではなかったかと考える人もあったが、写真は違っていた。アイノはすでにモスクワに帰っているはずで、いまに至るまで正体不明。これが大兄の言われる婦人かも知れませんが、全く検討がつきません。柘植君(秀臣)が生きていれば多少見当がつくかもしれませんが残念な話です。」(石堂清倫から筆者への手紙 93年9月10日)
風間道太郎著『尾崎秀実伝』によると、「尾崎は8月10日に戸隠から東京に帰り、一日おいて12日の夜、北海道への旅にたった。一高時代に一年上級にいた水野成夫から頼まれて、当時水野がその専務であった大日本再生紙(現在の国策パルプ)の北海道工場で講演するためであった。」とある。
これらから考えて、車中で尾崎がすれ違った外国の婦人はこのエディットであるか、またはゾルゲの連絡員の可能性が濃厚と思われるが、エディットは尾崎を知らないはずだ。
■クラウゼンの供述によると、ゾルゲの請求によって、駐日大使館のセルゲイから、エディットの旅費として米貨幣500ドルを受け取るのは、10月10日のことだった。(『現代史資料』)エディットたちの日本脱出が9月25日であるならば、誰かが立替えなければならなかった。モスクワ資料によれば、クラウゼンのところにはゾルゲから、エディットの手切れ金として400ドルを支払ってほしい、と原稿がなっていたが、クラウゼンは安すぎるとして、これを500ドルに書き替えて送信した。という記録がある。この4日後に尾崎秀実は検挙されている。エディット母子の日本脱出は奇跡の一語につきるだろう。
■付言すれば、コックスが自殺した2日前の27日、英国人多数がスパイ容疑で検挙されたことが報道されているが、この事件を摘発した功績で兵庫県警察部外事課の広利武太郎が警察官の最高の栄誉である内務大臣功労記章を授与されたこと、また事件の詳細を「英国軍事スパイの検挙」
に書いているが、「一カ年有余雨の日も風の日も日曜も祭日も、瞬時も彼らの行動から目を離すことなく、観察を続け」「昨年1月17日神戸出帆の大洋丸で香港に帰ってしまうことになったので、愈々意を決して検挙することになった」(「警察協会雑誌」昭和16年2月号)とある。
エディス母子の場合と全く同じケースといえるだろう。
独ソ戦の開始とヴケリッチの活動
「6月21日(土)の午後、ロベール・ギランが支局にいると、2時か3時頃、ヴケリッチがひどく興奮した様子で職場に飛び込んできた。スクープだ。始まったのだ。戦争が。ロシアで戦争だ。もう始まったのか。いや、だがまさに勃発寸前。22日払暁、つまり、24時間以内に始まる……。X氏(ゾルゲ)がニュースをつかんで、はっきりいった。確実なのだ。まるでラジオのアナウンサーのようにヴキはこの驚天動地のニュースを繰り返した。22日払暁、ドイツ陸軍は全戦線においてソ連を攻撃する。わたしたち二人は落ち着いていられなくなった。歴史の1頁を生きていたのだ。東京はまぎれもなく、状勢把握の特等席だった」(ロベール・ギラン『ゾルゲの時代─アジア特電』平凡社)
〔……〕ヴケリッチはタイプ用紙を手にとって、ありあわせの青鉛筆でさらさらっと書いて淑子に渡した。それは、片手を挙げたヒトラー髭の兎が胸を張って行進して行く、その後ろから、パイプをくわえたスターリン髭の亀がノロノロついて行く漫画だ。下に『The Great Start ! 22.6.41』と赤鉛筆でコメントがあった【図o】。
つまり、日本の兎と亀の昔話にたとえてヴケリッチはソ連の勝利を確信していたのである(片島紀男『ゾルゲ事件 ヴケリッチの妻・淑子――愛は国境を越えて』同時代社【図p】、154-155頁)。
この世紀の大スクープをゾルゲは前年の1940年11月18日、「ドイツがソ連侵攻の準備をしている」という報告を送っている。ヒトラーは11月12日に「翌年5月半ば頃までに対ソ攻撃の準備を整えるように」という指令を発した。続いて12月18日、ヒトラーは「41年5月までに対ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備指令」を発した。
ドイツ参謀本部作戦部長ホイジンガーは自分の側近を執務室に集め、総統から送られてきた極秘の指令を伝達した。これが「バルバロッサ作戦案」と題するドイツ最高司令部の12月18日付第21号指令であった。そこには「来年5月15日までに準備を完了せよ」と書かれてあった。
12月18日付けのゾルゲの電報には「ドイツはすでに東部国境に80個師団を配置している。すでにバルト地方で起こっているようにソ連がドイツの利益を損なうような活動を強めれば、ドイツはハリコフ~モスクワ~レニングラードの線までのソ連領を占領するだろう。ソ連の指導者はソ・フィンランド戦争の経験からドイツ並の近代的な軍隊をもつまでにはあと20年はかかるだろうとドイツ側は見ている。」このゾルゲの電報はスターリンとモロトフに回覧されている。
12月28日、ゾルゲはドイツのソ連侵攻計画を最初に伝えた。モスクワに向けて集結するドイツ軍勢力の具体的な数字を打電。開戦の時期は5月末と通知した。これはヒトラーが「バルバロッサ作戦」の承認後10日あまりのちのことである。
ソ連への侵攻作戦についてはゾルゲだけが通報したわけではない。ヒトラーがソ連侵攻作戦「指令21号」を承認したことを、最初にモスクワに知らせたのは、ボイセンとイルザ・シュテーベのグループだった。このメンバーにはドイツ外務省の職員もはいっていた。それはヒトラーがこの指令に署名してから11日後のことであった。
ルーマニアではABCグループ、フランスとベルギーではレオポルト・トレッパー(いわゆる「赤いオーケストラ」)、スイスではシャンドル・ラドーとルース・ウエルナー、ブルガリアではザイモフのグループ、ポーランドではヘルンシュタットのグループが、ドイツではアルブイト・ハルナック(コードネーム「コルシカ人」ドイツ経済省勤務)、シエルツ・ボイゼン(コードネーム「曹長」空軍省勤務)などが活動し、それぞれドイツのソ連侵攻作戦を伝えていた。
5月19日付のゾルゲの電報「ベルリンからの最新の情報によると、ドイツの対ソ攻撃は41年5月末と予想、兵力は9個軍団、150師団」という報告はスターリンを激怒させた。「われわれは貴方の報告の信憑性を疑う」という返信がゾルゲに届いた。諜報局では「ドイツのソ連侵攻」のすべての報告に対して「疑わしい。挑発を意図したもの」として処理された。
ソ連の最高指導部は独ソ戦開始の極秘情報のすべてをドイツ側のデマ情報として葬ってしまった。ドイツ軍の侵攻の前日、スターリンの執務室から出てきたラブレンチー・ベリアはスターリンに報告した。「ドイツがソ連を攻撃する準備をしているかのようなデマで、私を相変わらず爆撃している駐ベルリン大使デカソノフを召喚し、罰するよう要求します。彼は明日、“攻撃”が始まると知らせてきました。しかし私は1941年にはヒトラーはわれわれを攻撃しないという貴方の賢明なる予見をしかと覚えています」(「不意打ちを許したスターリン」「今日のソ連邦」・1990年12月号)【図q】
スターリンとベリア、モロトフが別れてから4時間半後に、ヒトラーの軍隊がソ連に侵入した。6月22日、朝3時30分のことだ。その結果、何をソ連にもたらしたか。戦争の最初の1日だけで赤軍は1200機以上の航空機を失った。戦争が終わったとき、ソ連は2700万人の国民が犠牲になり、1710の都市と7万以上の村が完全に破壊された。捕虜の数は400万人を越えた。その7割が死んだ。
ジョセフ・ニューマンの証言
「ヒトラー、ソ連へ侵攻」という衝撃の大スクープ
「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙記者、ジョセフ・ニューマンはヴケリッチから「ヒトラーのソ連侵攻」の極秘情報を入手していた。もしこれが真実だとしたら世紀の大スクープということになる。東京発でヒトラーがソ連侵攻の準備を進めている」という特電は世界中に衝撃を与えることになるだろう。そしてこの特電は直ちにヒトラーのお膝元ベルリンからの確報、あるいはドイツ政府の正式発表を促すことになる、という展開になるだろう。
このネタ元はブランコ・ド・ヴケリッチだった。ヴケリッチによれば「自分の国のアバス通信はフランス政府と同じくナチスに侵略され、管理下におかれ、自由な報道機関ではない」。ナチスの野望を一刻も早く世界に知らせたいと願っていた。しかしこの情報は他の経験の豊かな特派員たちは誰も信じなかった。軽く一笑に付されてしまった。「ドイツとソ連が戦争するなんて、真夏に雪の塊を天ぷらにするようなものだ。ありえないことだ」と。
世紀の大スクープとニューマンが確信しているなら、なぜその大スクープをヴケリッチは他の記者に洩らすようなことをしたのか。それから数週間。私は躊躇し続けこの重大な情報を温め続けた。5月の末になって私はナチスの占領・圧政からのがれるためにフィンランドを横断し、上海を経て東京にたどりついた欧州人に話を聞くことができた。彼は、ソ連に通じる道路の突貫工事や、ソ連攻撃に備える最近のナチスの行動を詳しく私に説明してくれた。と同時に、日本中枢に通じ、私が最も信頼する日本人の取材源にも「独ソ開戦」の可能性についても確かめた。彼は対ソ侵略の可能性を否定しなかった。(伊東三郎「ジョセフ・ニューマンの軌跡と謎」ゾルゲ事件外国語文献翻訳集・会報・№12)
こうしてニューマンの発信した「ヒトラー、ソ連侵攻へ東京で観測」という世紀の大スクープが5月31日にNYヘラルド・トリビューン紙(朝刊)に掲載された。
「ヘラルド・トリビューンの記事こそニューマンが東京からニューヨークに送った最大の特ダネです。これはナチスが実際の対ソ侵攻が始まる3週間前の記事でした。3週間前とはあまり早すぎて、忘れられかねない特ダネです。『俺はあのとき特ダネを書いたのだ』と威張っても、扱いが小さいため、3週間前の新聞を引き出してこないと特ダネが見つからないようでは新聞記者としては忸怩たるものがあるでしょう。期待された1面全段抜きの大見出しではなく、21面1段の控えめな扱いでした。」(伊藤三郎著『開戦前夜のグッパイ・ジャパン』)
ゾルゲはヴケリッチにジョセフ・ニューマンにこの極秘情報を伝えさせた。日本からの情報がアメリカの著名な新聞に掲載されることで、ドイツのソ連侵攻情報が偽物ではないことを知らせようとした。これはすでにスパイという範疇をはるかに越えた行動だった。
日米開戦の直前になぜニューマンは3週間の休暇をとってハワイに行ったのか
ニューマンは戦時の引き揚げ船龍田丸に乗って41年10月、3週間の休暇をとって、横浜港からハワイに出港した。その豪華客船が東京湾を出た頃、日本の警察官がニューマンの逮捕状をもって彼の支局へ踏み込んだ。ニューマンはすでにその朝、ホノルルに発ったことを知ったとき、警察官は彼を逮捕するために、龍田丸に引き返すように緊急指令を出すことも考えたが、ニューマンが3週間後に日本に戻ってくることを期待してあきらめたという。そんな経緯をニューマンは『グッパイ・ジャパン』(日本語版)のために1993年に新たに書き下ろした「50年目の日本に」のなかで振り返っている。ニューマンが出航したその前日の10月14日、尾崎秀実は検挙され、3日後、ゾルゲたちのグループは検挙された。ニューマンによれば「それは知らなかったし、全くの偶然だ」という。はたしてそれは偶然だったのか。
なぜ日米開戦を目前にして、風雲急を告げる情勢下に、日米開戦の可能性が非常に高かまった緊迫した情勢のなかで、NYヘラルド・トリビューンの特派員が3週間も休暇をとって、ハワイにでかけたのだろうか。(前掲書)
ニューマンは「僕がハワイに行ったのは休暇ででかけただけだ。また日本に帰るつもりだった」と言い張り、ゾルゲ事件の検挙とは偶然の一致だと頑強に主張した。本当に休暇だったのか、この疑問を消し去ることはできない。尾崎秀実が検挙されたその同じ日、ジョーゼフ・ニューマンは砂浜と太陽を求めてハワイに旅立った。幸運にも2日前、龍田丸への乗船許可が下りた。この船は日本の入港が禁止されてからも、入港が許可された3隻の1隻だった。ニューマンはハワイで妻と会って3週間の休暇を楽しむという名目だった。彼は間一髪で検挙を免れた。(前掲書)
ニューマンのハワイ旅行に関するヴケリッチの証言
「10月15日、ニューマンが急遽帰国することになった。ニューマンによれば、日本滞在が3年以上に及んだので初めての休暇をとることにし、横浜港から龍田丸で出航、ホノルルに1~2日間滞在したあと、3番目の引き揚げ船・大洋丸で日本に戻る予定であったという。」
ところがヴケリッチの妻山崎淑子の証言によると、ヴケリッチは「外出から帰ると淑子を呼び『ニューマンが急遽帰国することになったので旅費を貸してくれと頼まれた。アパートの荷物はそのままにしておくから自由に処分してくれ、と言われた。金は帰らないものと思って欲しい。貸してもいいか?』と聞いた。淑子はちょっと驚いて、『貴方のお金、あなたの友達でしょ、勿論よ』と答えた。ニューマンを横浜で見送ってから帰って来たヴケリッチは、たいそう淋しそうだったという。
『ともかく、頼まれたアパートを見てくるよ』といってヴケリッチは出て行ったが、すぐに『アメリカ大使館が彼のアパートをオフ・リミットにしてしまったよ』と苦笑しながら戻ってきた。」
(片島紀男『ヴケリッチの妻淑子』同時代社)
これによるとニューマンの伊藤三郎に対する説明とは違って、ハワイには休暇で行ったのではなく帰国のため、ハワイは途中の寄港ということになる。日本に戻る意思はなかったのだ。
これはエディット母子の場合と共通しないだろうか。
ウイロビー報告『赤色スパイ団の全貌』より
GHK・G2のチャールス・ウイロビーは『赤色スパイ団の全貌』のなかでヴケリッチの活動について次のように記載している。
「ブランコ・ド・ヴケリッチの工作も漸次成功裏に進捗していた。彼は外務省および情報局の記者クラブの会合に出席して、日本および外国の新聞記者と友達となり、一般的な情報を入手した。また各国の領事館や大使館の中にも信頼すべき友達ができた。英国大使館付武官フランス・S・ビゴット少将とは特に親密の間柄のようであった。
1940年7月、憲兵隊本部の窓から飛び下り自殺したロイター通信のジェームス・M・コックスとも親しくしていた。ヴケリッチは1938年には仏国通信社ハバスの特派記者になっていた。彼はフランス大使館の意見やニュースの多くをハバス通信の東京支局長ロベール・ギランを通じて入手していた。また、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の特派員ジョセフ・ニューマンからも情報の提供を受けていた。ニューマンはアメリカ大使館参事官ユージン・H・ドゥーマンからアメリカ系の情報を得ていたのである。各国の大使館は競って日本に関するあらゆる情報を募集していた。ヴケリッチの広範に亘る情報網の関係もあって、ゾルゲは東京に於ける独、英、仏の各大使館の情報を総合して検討することができたので、反枢軸陣営の各大使館の意向も分かり、情報の正確な判断ができると同時に、このことはまた、ドイツ側のオットー大使以下の諮問に応えるためにも大いに役立った。」と評価は非常に高いものであることが判る。
ウイロビーはニューマンに対してアメリカ側のスパイとは思っていなかった。ウイロビーの追跡はソ連のスパイとしてのニューマンであった。だからニューマンは頑なに日本脱出を偶然のこととして伊藤三郎の疑問に答えなかったのだ。因みにニューマンもロシア人の血統があるという。
ヴケリッチの網走刑務所の獄死に関する調査報告
C・A・ウィロビーの著作から
「ヴケリッチに関する訊問調書は現在なくなっている。」とウイロビーは書いている。これによってウイロビーは『現代史資料』3巻までの資料しか持っていなかったことが判る。第4巻はその後、担当した特高ほか関係者たちが提供して編集したものだから、ウイロビーによると、「ヴケリッチのゾルゲ諜報団に寄与した実績についての正当な評価は困難である。現存する日本側の検事記録にはあまり彼のことには触れていない。彼は41歳で獄死しているが、彼の死因は拷問によるものであるという説がある。」という。
ロバート・ワイマントによると、「ヴケリッチの直接の死因は急性肺炎だった。だが実は、慢性の下痢と栄養不良ですっかり衰弱していたのだ。そして恐らく尋問の初めの頃に拷問を受けて、必要以上に痛めつけられたことが遠因となっていたと思われる。日本占領軍諜報部(G2)部長ウイロビー将軍は、その報告書で日本の取調官をばかげたほど紳士的に描いているが、その彼でさえヴケリッチの死には首を傾げている。
刑務所における彼の早死には、拷問を疑わせるものがある。彼はまだ41歳で、カルテから見ても、逮捕以前に特別虚弱だったという証はない。彼が頑なに自供を拒んだために、それに応じた取り扱いをうけたということは充分に考えられる。」(『引き裂かれたスパイ・ゾルゲ』)と書いている。ワイマントもヴケリッチの死を拷問によると思っていたようだ。カルテなどの資料は後述の資料によれば、敗戦時に処分してなかったはずだ。
発掘された「ブランコ・ヴケリッチ獄死の原因調査報告書」
今回のシンポジュームのためにヴケリッチに関する貴重な未発掘の資料がないかと調べ直した。するとゾルゲ事件救援会(発足は1955年11月)が、当時、日本共産党の幹部で国会議員を務めたこともある神山茂夫を網走刑務所に派遣して、ウイロビーたちがふりまいてきた未確認情報の「拷問による死亡説」について調査した記録が発見された。時間の関係で全文を筆者の解説とともに巻末に[資料](1)として掲載する【図r】。
1964年11月11月5日、ソビエト政府によるソ連最高会議幹部会はリヒァルト・ゾルゲに「ソビエト連邦の英雄」、大祖国戦争 第1級勲章の叙勲を決定。ブランコ・ド・ヴケリッチについては「第1級 祖国戦争勲章」、クラウゼンに「赤旗賞」が、アンナ・クラウゼンには「赤星賞」、が贈られた。
1965年1月29日、クレムリンで勲章授与式が行われ最高会議幹部会議長アナスタス・ミコヤンから、ヴケリッチの遺族である山崎淑子と山崎洋に勲章が渡された。
宮城与徳については「第2級 大祖国戦争勲章」の授与が決められ、2010年1月13日に宮城与徳の姪徳山敏子さんに、在日ロシア大使から直接手渡された。この勲章は徳山敏子から郷里の沖縄県名護市立図書館に寄贈された。
ヴケリッチを取り調べた鈴木富来警部によると、「ヴケリッチの提報せる情報」として挙げられているものは僅かに4件、ゾルゲは35件、尾崎秀実は84件、宮城与徳は308件(昭和17年6月7日付、留岡警視総監から内務大臣宛の報告。鈴木富来警部「ゾルゲ事件についての記憶」)となっている。ヴケリッチはこれによると、完全黙秘に近い態度だったことが知れるだろう。『現代史資料』4巻でも「ヴケリッチの提報せる情報」としてあげられているものは僅かに13件にすぎない。
終わりに
シドニーシンポジュームに当たって、在モスクワのアンドレー・フェシュン氏から特にポールさんに届けてほしいと頼まれた資料を紹介します。
6枚のヴケリッチの家族の写真【図s】
とフエシュンさんが山崎淑子さんにインタビューした記録です。時間の関係で[資料](2)に掲載しました。ぜひご覧ください。
長時間に亙りご静聴ありがとうございました。
完
[資料](1)
ブランコ・ド・ヴケリッチの獄死に関する調査報告
ゾルゲ・尾崎事件救援会御中 昭和32年9月24日
会員 神山茂夫
昭和32年8月20日付、貴会からの「依頼書」にもとづき、故ブランコ・ヴィーケリッチ氏の獄死原因其の他を調査した経過については、すでに、9月10日付および11日付の、現地網走からの中間報告二通をもって、大体報告してありますが、松川事件被告を見舞って帰京したいま、あらためて、総括的な結論的な報告を提出します。
一、昭和32年9月10日と11日の両日、網走刑務所所長、同総務部長、同庶務課長、同保安課長らと、二回にわたり面談したり、視察したりしました。それは、今日の状況下で、本会のような民間団体としてなしうる最良の条件下におこなわれたと考えますが、以下のべるような事情のため、大きな成果をえることはできませんでした。
(イ) 昭和二〇年八月の敗戦と十月の「解放」にさいして、故人に関係ある諸文書は、できるだけ残さないように処置されたと信ずべき理由のあること。
(ロ) 戦後、刑務所の文書保管規定が変わったため、「身分帳」のような重要なものさえなくなり、「死亡帳」なども二二年以降しか残っていないこと。
(ハ) その後、ウイロビーの厳格な調査があったため、さらに資料は散逸したり、とられてしまったこと。
(ニ) 当時の関係官吏も、ほとんど残っていないこと。これらの事情のため、直接本人に関係する書類あるいは人物は、何もなくなっているのです。
二、わずかに残っていた
(イ) 「収容者名簿」によって、故人が、昭和十九年七月十一日に網走に行き、二十年一月十三日に死亡したこと。
(ロ) 「死亡者名簿」にはただ一行で、
「一月十三日、急性肺炎」で死亡、「屍体妻山崎ヨシ渡」とあること、国籍と住所は「クロアチア国キユーハス(フか不明)市 東京都牛込区左門町二二 二一三」
生誕日は「西暦一九〇四 明三七、八、一五」
と共に、書き流していることなどがわかっただけです。
従って、当初、調査項目に数え上げておいた「身分帳」や「在監者名簿」はもとより、「病床日誌、カルテ」類、あるいは「死亡後典獄検視」など、何もありませんでした。
また、山崎さんに引き渡したことが明らかになった結果、「死亡者の遺留品」とか「仮葬」か「合葬」か、などの調査項目は、自動的に不必要になってしまいました。ただここで明らかになった点は、
(イ) 故人の国籍が「キューハス(か、フか、よく分からない)市」になっていて、ウイロビー報告とちがうこと。
(ロ) 故人の死亡日が本会の「二月頃」説と違い、ウイロビー報告の「一月十三日」説に一致すること。
これであります。
三、私は「ウイロビー報告」の一節にある「彼の獄死は、拷問によるものであるとの説がある」という箇所をあげ、この疑いを解くためにも、当時の関係者と会わせ、故人のいた舎房をみせるよう、くりかえし要請しましたが、前述したように、関係者は残っておらぬことがくりかえされ、結局、舎房をみてほしいと、現場を見ることにしました。
なお当然のことながら、彼らは「拷問」の事実は一般論として否定し、故人のいた舎房も、実際、いつからいつまで、どの房にいたかは確認できない、ということを、口を揃えて言っていました。そのなかで若干ちがうのは、一部の者が、故人ははじめから特別待遇で隔離病舎にいたらしい、と言うのに対して、他の一部の者は、はじめちょっと五舎にいて、あとはずっと病舎にいたと思う、という点です。
さて、五舎の完全独居の房は、いわば型通りのもので、正面一間、奥行一間半で、一坪半の全部木造シックイぬりの房です。冬期、廊下にストーブ二箇がおかれる。
隔離病舎は、三坪の一号室(全部で三室ある)だったらしい。ここにも廊下の二カ所にストーブをたくが、木造シックイぬりの上、全体が狭いので、より温かいはずだという。窓は比較的に広く、窓からはすぐそばの花壇と、獄壁をこしてはるかに天都山が見え、環境はやや良好である。
舎房などの撮影やスケッチは断られたので、病舎を中心にした外からの写真と、天都山からの(全景)遠望図を、別に提出しておきます。
以上が、微力な私が全力を挙げて調査し、報告しうることの全部でして、いろいろの事情に制約されている結果とはいえ、まことにみのり少なく、その点申し訳なく思っています。
ただ、これから調査を進めに上について一言させていただければ、
(一) 山崎さんと連絡をとること。
(二) 法務省並びに東京拘置所と連絡し、さらに調査を進めること、
(三) ユーゴスラビア大使館と接触し、故人の故郷とそこにおける活動について、もう少し正確なものをつかむこと、などが必要かと存じます。
報告を終わるにあたり、今回の調査に際しまして、いろいろご支援をいただきました国民救援会はじめ他の団体、および各個人の方に心から御礼申し上げます。
以上
この神山茂夫の「ブランコ・ド・ヴケリッチの獄死に関する網走刑務所調査報告書」は堀見俊吉(注、戦前、尾崎秀実の秘書をつとめたことがあり、戦中は予防拘禁所に拘禁され、図南奉公義勇団員としてボルネオの大和農場に派遣され、九死に一生を得て帰還し、戦後、朝日新聞記者となる)が、渡辺礼子(板橋区東山町47~6)より郵送されたもので、郵便局の消印によると02、2、3「板橋北」の消印があり、以下の書面がある。
「前略 御申し越しの件、本日、渡部先生よりのコピーが届きましたので、同封、お送りします。山崎さんのご旅行のご無事をお祈りします。よろしくお伝えください。
2月3日 堀見様 礼子
記載されている「渡部先生」とは渡部義通(歴史学者)のことを意味し、「礼子」とは三井礼子(渡部義通の妻)のことである。神山茂夫の報告書は「オキナ」13行の付箋紙に手書きになっている。
これを受け取った堀見俊吉はコピーして山崎淑子に送った。それに対する山崎淑子の感謝のハガキ【図t】
が「横浜中央」局の消印で82、2、12付、以下の通り記載されている。
「神山報告のコピー興味深く拝見しました。キューハスは何かの間違いと思います。拷問については支給食が消化できなくて慢性下痢に悩みパン食を要求したけれどきかれなかったこと、正座が苦痛で椅子を頼んだが許されなかった等々で、網走でいわゆる拷問はなかったと思います。ただ病舎へ入れられたのは肺炎がすでに手遅れになってからだろうと疑っています。
網走についたときすでに体重が30キロ近くも減った慢性下痢患者でしたから、はじめから病舎へ入れてもらっていたらあんなに寒がらず、風邪もひかず肺炎にならずにすんだのではないでしょうか。その点クラウゼンが羨ましいといつも思っています。それも彼がクラウゼンと違い、どんなに辛くても泣き言を言わず、我慢しすぎるひとだったせいかも知れません。
考えるときりもなく悔やまれわが身を責めてしまいます。何か私にできたことがあったのではないかと、どうも有り難うございました。 二月十二日」 山崎淑子
注、
昭和32(1957)年当時、ゾルゲ・尾崎事件救援会が神山茂夫を網走に派遣して、ヴケリッチの獄死の真相を究明したことは当時の記録にあるが、神山茂夫の直筆によるこのような報告書が存在し、堀見俊吉から山崎淑子に宛て報告されたことはごく少数の者にしか知られていない。 これは「堀見俊吉資料」の中から発見されたものである。
[資料](2)
ブケリチ家に関する記録の断片
ジャーナリスト アンドレイ・フェシュン
私はこのメモをどこから入手したか、言うことができない。われわれのところあるメモは、英語で書かれている。タイプ印刷のテキストである。それらはヨシコ(訳注 山崎淑子。ブランコ・ド・ブケリチの日本人妻)が、私たちに渡したのかもしれない。私たちが今見ているのは、ブケリチ(訳注 ブランコ・ド・ブケリチ。ゾルゲ諜報団のメンバー)自身の手紙ではなくて、彼の質問に対する祖母の回答の下書きに過ぎない。
モスクワを来訪したとき、私の祖母(スラブコの妻)はパリでの生活について、鮮明な記憶がある。その当時、彼女はサボイ・ホテルに住み、スラブコ(ブランコの弟)がスペインから帰還するのを待っていた。彼のスペインからの帰還について、次のような記述がある。
1938年。「彼は浅黒く日焼けして、確固たる自信を持って帰ってきた。喜ばしいのは、任務をうまくやってのけたことである。彼は無線交信を立ち上げたのだ。しかし、スラブコの気分は、早くもかなり落ち込んでいた。彼がどうであるか、私は覚えている。当局から来た彼は私に話した。『誰が私を派遣したか、その人を誰も知らない。何とも恐ろしいことが行われている』」。
スラブコ・ブケリチは1906年5月5日に、ルーマニア(以前はオーストリア・ハンガリー帝国)のオルデア・マレ市で生まれた。1929年にパリの工業大学卒の、職業は電気技師(建築機関の設計者)であった。父親はユーゴスラビア軍(オーストリア・ハンガリー大隊)の、クロアチア人貴族の士官家庭出身の中佐であった。母親(ビルマ・ブケリチ)はクロアチアの商人家族の出身。1926年にパリに移住。そこで1928年まで学んだ。1929年から1934年まで、電気機械工場アルストノムで働いた。フランス語、ドイツ語、クロアチア語、ハンガリー語に堪能で、英語を読むことができた。1929年に、彼は将来自分の妻となるコワルスカヤ・エブゲニー・イリニチナヤと知り合った。彼女は有名なロシア社会革命党右派亡命家イリイ・ニコラエビチ・コワレフスキー(彼はインターネットにも出てくる)の娘であった。1932年に、彼に娘ゾラが生まれた。
ここにスラフコの妻の当時のメモがある。
「この時期に、ユーゴスラビアのコミュニストたちは、ブランコとスラフコを非合法の共産主義組織に結び付けた。私は『平凡な俗物的な人生か、われわれの共産主義思想に捧げた人生か選ばねばならない』という夫の言葉を私は覚えている」。
選択が行われた。2か年過ぎた。私たちは四六時中、ブランコとスラブコと一緒に住んでいた。時折、彼(ブランコ)のところに、パオロ(彼女のところにそう書かれている.訳注、ポール。ブケリチの息子)という名の小さな息子を連れたデンマーク人の最初の妻(訳注 エディット)がやってきた。彼女は知的とは言えない、ブランコの庶民的な女性であった。ジェーニャ・コワレフスカヤの父親は、スラブコがソ連を旅行するのを思いとどまらせた。スラブコはこのことで、祖父をむっとさせた。そして言った。「貴方はそのように言う。なぜならば、敗北は我慢せねばならないからである」。
1934年春、スラブコは一人でソ連に行った。そこではモスクワで、彼はベルチュウク・ホテルに住んだ。この当時、彼は死ぬまでマルコビチ・アンドレイ・ミハイロビチ、というペンネームで書いた。スラブコの妻がソ連で、彼のところにやってきた話をする。
「船はロンドン経由でレニングラードへ行った。彼女は2歳の娘を腕に抱いて行った。船中で夜、舞踏会が催され、ガルシア・ロルカ(訳注 1898-1936年。詩人。スペインの内戦で殺される)がこの船に乗り合わせていた。エブゲーニャはそこで彼と知り合い、彼らは一緒にダンスをした。スラブコは「レニングラードで出迎える」と連絡してきた。「彼は自分で行けないので、誰かが行く」と。しかし、だれも彼女を出迎えなかった。これを見て、ロルカは彼女の後見人となり、彼女がモスクワにたどり着くまで助けた。モスクワで彼女は駅で誰とも会わなかった。スラブコは彼が興奮しないために、彼女と会わないという口実の下に、ホテルから出なかった。モスクワで、チンピラみたいな人物が彼女の周りをうろついているのを見たある老婆が、彼女を外国人女性だと思って、話しかけた。「可愛い子ちゃん、3コペイカあげるから、早く電車で行ってしまいな」。こうして、ママはバルチュウク・ホテルに着いたのであった。スラブコは興奮した。
ママはキーロフ(訳注 セルゲイ・ミロノビチ。レニングラード党第一書記。ソ連共産党政治局員。1934年12月1日に暗殺される)殺害が起きたその時に、やってきた。彼女は何が起きたか、キーロフが何者であるか、理解していなかった。後で彼ら(訳注 パパとマママ)はハリコフヘ移り、そこで彼はハリコフ電機機械工場で働くことになった。スラブコがパリから持ってきたあらゆる電気製品(電機薬缶、アイロン)はハリコフ電機械工場で分解されて、生産が始まった。1935年に、二番目の娘マイヤが生まれた。その後、1936年9月に、彼らはモスクワに呼び戻されて、ハリコフにはもう帰らなかった。スラブコはモスワで、「サボイ」・ホテルに住み、防衛人民委員部諜報局で働いた。
スラブコはスペインとポルトガルに行って、無線通信を行った。妻の話によると、スラブコはスペインから帰る途中、パリで自分の上司に会った。「スラブコは上司を『老人』と呼んだ」。私はそれが、ベルジン(訳注 イワン・アントノビチ。労農赤軍参謀本部の初代諜報局長)であったと思う。彼(上司)はそこでは妻と12歳の息子と一緒であった。「1938年9月19日、スラブコは小さなフライパンをもって、ダイエット食堂に行った。そこでは『サボイ』ホテルのようなクリスマス・パーテイが行われていた。彼はもう、ホテルには戻らなかった。数時間後に、私も逮捕された。ママは話した。「(訳注 スラブコは)ブチルスク監獄(訳注 モスクワにある帝政時代以来の有名な監獄)で、彼女が一度も会ったことがなかった、そのようなハイレベルのインテリゲンチャであった」と。スラブコの母親「ムッチ」(ビルマ・ブケリチ)が彼から手紙を受け取るのをやめたとき、彼女はスラブコとジェーニャは返事を出さないということを、日本にいるブランコに手紙を書いた。私たちがザグレブ(訳注 クロチア共和国の首都。ドナウ川の支流サーバ川に臨み、機械、化学などの工業が発達している)にいた時、ブランコは怒って、ゾルゲ(訳注 ソ連軍事諜報員)に言ったということを、私たちに話した。「もしもわたしの兄弟が拘禁されるならば、どうして私はソ連で働くことができるか」。それは、ブランコの近しい人の話によるものである。
1939年にスラブコ夫妻は名誉回復して、出獄した。スラブコは当時、ずっと監獄にいて、彼は彼の妻が投獄されていたことを知らなかった。彼女は友人のところで子供と一緒であった、と彼に嘘をついた。だが、子供たちはタンボフの子供の家にいたのだ。ジェーニャもまた、拘留されていたことを、彼が理解した時、彼は頭が真白くなった。スラブコが釈放された時、「コミユニズムに対して、貴方は期待を裏切られることはなかったのか」と、彼は質問を受けた。それに対して、彼は「ちょっと考えてみる」と答えた。彼は1940年8月26日に、軍の病院レフォルトボで死んだ。公式的には中程度の叫び症状の合併症である脳膜炎であった。あるいは彼を助けられたか?
(翻訳 白井久也)
[解説]
今回のシドニー・シンポジュームに当たって、これまでブランコ・ヴケリッチの活動と評価に関して語られたことがなかったことを顧みて、今回はブランコ・ヴケリッチの息子ポール・ヴケリッチ氏と筆者の奇縁により実現されたことを考えて、筆者はヴケリッチについて報告することにした。しかし資料は山崎淑子・洋母子の著作以外には、『現代史資料』3~4巻しかなかった。
そこでロシアのゾルゲ事件研究では著名なアンドレイ・フェシュン氏にメールして、何か資料がないか、提供してくれないかと要請した。それがこの資料である。
この資料から派生する関係記録はゾルゲ事件の側面を研究する上で参考となるものだろう。
付け加えればゾルゲの妻エカテリーナ・マクシーモア(ゾルゲの二番目の妻のこと)愛称、カーチャは1901年、ペトロザボーツクに生まれた。28年、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の舞台芸術学校を卒業。新進の女優としてイタリアのカプリで舞台にたち注目を集めた。恋人の俳優が死んで傷心のために舞台をあきらめた。モスクワの工場で働いていたとき、友人の紹介でゾルゲのロシア語の家庭教師となり、恋に落ち、ソルゲは正式に結婚登録をした。ゾルゲは赤軍参謀本部第4部長のベルジン大将から日本での諜報活動を命じられ、33年9月に着任したため、二人の実質的な結婚生活はわずか数カ月にすぎなかった。
カーチャはゾルゲの子供を宿したが、工場で水銀中毒にかかって流産。42年9月4日、突然スパイ容疑で逮捕され、5年のシベリア流刑の判決を受け、服役中の同年7月3日に脳内出血のために亡くなった。
ゾルゲはカーチャの流産もその死も知らずに、日本で諜報活動を続けていた。(ピタリ・チェルニアフスキー著『諜報機関─虚構と真実』(会報、№15、25頁の脚注)
1942年9月4日証拠もなしに彼女はスパイの容疑で逮捕され、5年の流刑に処せられる。献身的な共産党党員だった。彼女とゾルゲは1933年ゾルゲが日本に出発するとき正式な結婚手続きをした。それはゾルゲの強い願望によるものだった。海外勤務の赤軍諜報員となれば、カーチャは彼の給与を受け取ることが出来るし、文通もできる。だがそれにもかかわらず、1943年3月、彼女はシベリアのクラスノヤルスクへ流刑となり、同年7月3日強制収容所で死亡した。死因は呼吸器系疾患に脳内出血、享年38だった。彼女が死んだとき、ゾルゲは東京で法廷に立っていた。ゾルゲはカーチャが流刑地で死んだことを知らなかった。 渡部富哉(完)
追記:「因みにニューマンもロシア人の血統があるという」─の箇所。著者に再確認したところ以下の通り、「私の記憶によれば、私にJoseph Newmanを紹介してくれたのはJoseph の弟、Yale Newman で、その際そのYale が「我々 Newman family はソ連からアメリカに移ってきた」と語ったことから、Joseph のことを「ロシア系Jewish とどこかに書いた」この記憶に間違いはないと思いますが、これ以上の正確な出典を、となると少々お時間を下さい。著者は伊藤三郎です。(渡部)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study702:160123〕
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