東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ
- 2016年 2月 2日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
1月が行って、今日から2月。今年もまた弁護士会役員選挙の季節となった。2月5日(金)が日弁連と単位会の投票日。今日から期日前投票が始まっている。
私は、弁護士会の人事はけっして私事ではないと思っている。弁護士会の役員選挙は、社会の関心事でなければならない。どんなグループがどんな理念をもって選挙に打って出ているのか、何が対立する論争のテーマなのか。出来るだけ正確に市民に知ってもらうことが望ましい。だから、各陣営や有権者の選挙運動は開かれたものとして市民の目に触れるものとすべきであろう。
今年の日弁連会長選挙は、もっぱら「稲田朋美騒動」の様相。「稲田朋美に政治献金をするような候補者は日弁連のトップにふさわしくない」のか、「稲田がいかに唾棄すべき輩であるとしても、それだけを候補者選定の基準にするのは了見が狭すぎる」のか。私は、ほかの政治家はともかく、稲田だけはアウトだろうという立場。そのことは下記のブログに書いた。
野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(1月29日)
http://article9.jp/wordpress/?p=6309
ところで、東京弁護士会は会長立候補者がひとりだけ。これは淋しい。が、選挙公報で語られている「立候補補に当たっての基本姿勢」は、至極真っ当である。その冒頭の文章は、次のとおり。
「私たちの先達は、戦前の官憲による人権弾圧の経験から、戦後、議員立法である弁護士法により弁護士自治を獲得しました。それにより、弁護士は基本的人権の擁護と社会正義の実現を自らの使命として高らかに謳い、戦後の民主主義と人権の担い手となりました…。」
憲法問題については、「安保法制と憲法改正」という項を起こして、「2014年7月1日閣議決定を踏まえた安全保障関連法案は、昨年9月19日に成立しました。 憲法解釈の限界を超え、立憲主義に違反すると言わざるを得ません」「恒久平和主義を根底から覆すような憲法改正には反対です」と明記されている。
そして、「司法アクセスへの充実」「人権課題への取り組み」「法曹養成のあり方」などが、バランス感覚よく語られている。安心できるという印象。
さて、問題は副会長選挙である。定員6名のところに7名が立候補した選挙戦となっている。
本日昼ころ、法律事務所には場違いのファクスが舞い込んできた。
「てか、弁護士会職員の人件費 高くね? そう思った方はもう少し読んでください。」
そういえば、先週には、こんなのもきていた。
「てか、若手弁護士会費負担 減らせね? そう思った方はもう少し読んでください。」
中学校や高校の児童会・生徒会でも、こんな品位に欠けた乱暴なチラシは作らないのではないか。弁護士会選挙にふさわしくないなどと言うのではない。とても、大人が真面目に書いた文章とは思えない。
今日のファクスの内容は、「私は、無駄な委員会活動、そしてそれに伴う人件費を徹底的に削減します」というもの。このファクスの送信者は、「ごめんなさい。熱くなりすぎてしまって…(笑)皆さんおなじみの赤・瀬・康・明(あかせやすあき)です!!」となっている。
昨年に引き続いての問題候補赤瀬康明の立候補である。私は昨年当ブログで2回この候補者を取り上げて、「立候補の理念を欠く」と叱責した。
弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4313
東京弁護士会役員選挙結果紹介 - 理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4409
今年も同じことを繰り返さなければならない。そして、もう一つ、その訴え方の不まじめさの指摘を付け加えねばならない。
東京弁護士会選挙公報から同候補の「立候補の弁」の一部を抜粋してみる。
昨年度の副会長選挙では私が掲げたマニフェスト以前に、私の立候補には「理念がない」とのお声をいただきました。
その声がいう「理念」とはなんでしょうか?
「理念」という言葉をひとり歩きさせ、何も動かないことでしょうか?
その声がいう「理念」が、東京弁護士会の会員の方を満足させたのでしょうか?
私に「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「実際に決断・実行し、東京弁護士会の会員にとって東京弁護士会をより魅力的な会にすること」です。
東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか?
誰のお金によって運営できているのでしょうか?
いうまでもなく、東京弁護士会に所属する会員こそが「お客様」であるはずです。
他の誰でもなく、会員の方こそが会費を支払っているのです。
もう一度、皆様にお尋ねします。
今の弁護士会のあり方や活動に本当に満足していますか?
今の弁護士会の活動はあなたの意志を本当に反映していますか?
疑問形になっているから、答えよう。私が、キミの理念の欠如を指摘したひとりだ。私がいう「弁護士になくてはならない理念」とは、弁護士法にいう「基本的人権の擁護と社会正義の実現」のことだ。このような理念をもっていればこその弁護士であり、この理念を失えばバッジをつけていても弁護士ではない。その点で、キミはどうやら失格ではないか。
もちろん、「理念」がひとり歩きすることはない。理念の実現のためには、弁護士と弁護士会が汗をかいて動かねばならない。課題は数え切れないほどにある。冤罪の訴えある者を支援し、ヘイトスピーチの被害に泣く者を救済し、外国人難民の在留に手を貸し、震災被害者の救援もし、公害・薬害・消費者被害に苦しむ者を援助し、さらには司法制度の円滑な運用や、憲法上の人権・民主主義・平和を守ることまで、弁護士会はその使命として目配りをしなければならない。
キミに「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「基本的人権の擁護と社会正義の実現などという陳腐な呪縛は捨ててしまえ」という姿勢のみだ。人権擁護活動などは、弁護士個人が勝手にやるべきことで、東京弁護士会としては何もしないと決断すべきだというのだ。そうして会費を節減することこそが、会員のホンネにおける魅力的な会のあり方、と言っているのだ。キミは、東弁の会員弁護士や、とりわけ若手を見くびっているのではないか。
キミは、「東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか? 誰のお金によって運営できているのでしょうか?」と問う。そのとき、キミの視野には市民が入っていない。本当の「お客様」は市民ではないか。弁護士の「お金」も市民からのものだということが忘れられていないか。市民の役に立ち、社会に支えられていればこその弁護士であり、弁護士会ではないか。市民からの支援あれば司法修習の給費制を実現出来る。弁護士・弁護士会の人権活動や公益活動なくして給付制の実現はない。実は弁護士活動のすべてについて言えることなのだ。市民から見捨てられるような、弁護士会のあり方の政策提起は、とうてい是認し得ない。
去年のブログの一節をもう一度繰り返す。
弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているという。志のない弁護士たち、漫然と法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら報酬を求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。
歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
昨年の暗澹たる思いは、赤瀬候補の落選で多少は救われた気持になっている。まさか今年が、嘆きの年になるまいとは思うのだが。
(2016年2月1日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.02.01より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=6329
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3265:160202〕
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