【3】法医学解放運動から日本複合革命の基礎理論《三世代革命論具体的実践の射程》
- 2016年 2月 6日
- 交流の広場
- 武田明
序 出来るなら若い人に考えて欲しい。人生は短く、すぐに通り過ぎてしまうものだからだ。
もはや日本には、まともな商品がなくなってしまっている。それ故、デフレは、当然の結果である。
国会も、無類の詭弁家安倍晋三の時間稼ぎが継続されており国民をうんざりさせるに足る実質的論戦のないママに推移している空転国会そのままの状況である。
まともな時事的な問題意識に答えようとする書物も皆無となり映画も文学も要求にこたえられない状況が長らく「真性人類、心の不況」として継続しているのではないだろうか?
ちきゅう座周辺だけが、まともな情報を提供している異様な状況が続いているのだからここで、一致団結をして今ある日本の暗雲を払いのけたる革命的な打開策を複合的に提案し合い、議会化して望まなくてはならない使命と期待を担って来ている、図らずも、消去法の中で、選ばれてしまっているのだ。
太宰治が、引用した「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」。
道なき道を切り開いていこう。
1.
前回【2】では、下部構造(土台)たる〈市場経済VS共同体経済の論理〉の最初の粗描を試みた。
更に、ちきゅう座経済学の展開としての問題、議論を交えつつ、徹底的に補足、加えていかねばならない。
資本論の冒頭から実は、誤読を生み出す要素が感じられている故に、「資本論」そのものの抜本的改定として、仕上げて行けるならこれ以上の幸せはないのではないだろうか?
ちきゅう座に何とかそのプロジェクトチームを学者間だけのものではなく、市民、労働者を交えての公開の元に、完成に導けるとしたならこれ以上に、素晴らしい人類的事業はないと僕は、待望してやまない。
2.
さて、今回は、「法医学解放運動」と「人類解放運動の具体的なる最初の基盤である三世代革命論(一族・家族・個人)」の展開である。
ちきゅう座においても、名誉教授有志先生方が、自分たちが、語り継がねば「歴史」「政治」が風化してしまう、語る、語れる者がいなくなる危機感の中で、決して、お金の為だけではなく、「生きている真実」の為に、継続して下さっているのではないかと感謝にたえないばかりの場となっていると思う。
それにしても、何故、中堅、若手はそれに続くことが出来ていないのだろうか?
もっと、大きな舞台で活躍してくれているならそれを応援しながら、ちきゅう座も同調して行けるのだが、残念ながら前回も書いている様に、巨大メディアに完全にはしごを外されている状況にある危機をどうするのかの問題が、現在であり、国会の詭弁空転が痛く、「野党の問題意識」「危機感」のなさが、絶望的国民の政治無関心を助長させている故の「人類不況期」が「氷河期」となっている貧困地獄が続いていると言うわけだ。
貧困の分析と救済が、社会主義経済の研究対象であり、子供の貧困率と「介護離職」問題として、これまで展開してきた所以である。
貧困の分析も別のところで徹底的に、行いたいところであるのだけれども、簡単に述べるなら、物質的貧困、飢餓などと「情報弱者性としての貧困」を区分しており、ここでは、後者を問題としているわけである。
3.認知症は防げる。しかし、「隠蔽」されている。
5人に一人の老人が、認知症とされる危機が囁かれているが、認知症そのものが、防げるが、それを知らされていない、政府広報として遅れ、それ以前に、この病理=「狂気の歴史」への認識が、政治家にも現在の医師にも熟知に至っていない問題点が先行してある。
文系は、医学部、理系コンプレックスの中にもあり、更に、医学部は、高額な学費によって、最初から別世界として「独占」されている問題点から雲の上のものとされている社会的階層化の頂点として、それでいて、薬害事件からTPPまでいよいよ、その人間にとって身近なる足元の知識が遠ざけられてきたのか?
それをどの様に、医療知識の解放としてのゲバラ主義的展開が出来るのか?
キューバ医療社会からも学びながら、根本的に問いただしていかねばならないと言うさきがけの記述を進めているわけである。
4.《認知症問題は、生涯の原初から、そして、奴隷的労働期(青春期)の結果であり、情報弱者性の帰結としての病理である。》
施設に見舞いに訪れたかつての職場の同僚が、絶句していた。
「こんな症状の病があるのだろうか?わたしのことまで忘れてしまうなんて…」
政治家も医師も理解していないこの未知の病に対して、一般人は、何故、この様な状況で放置されていて、研究がなんら
公表されていない状況で、むしろ、「封印」されたままになっているのだろうか?
これは、国家的犯罪なのである。
人が生まれて老いて死んでいく中で、「狂気の歴史」は、若年性であろうとも、長寿によるものであろうとも、繰り返してきた悲劇、伝えられずに来た悲劇としてあるのである。
それは、人間の生活の根本、存在の根本に根差している最も身近なものでありながらその「落とし穴」が、国家的に隠蔽されてきている医学的独占状況から問われなくてはならないものであると断言する。
5.老人施設の問題点
更に、医療的無知による「寝かせっきり座らせっぱなし」の虐待としての認知症医療上の不備も犯罪的段階である告発を明確にしていかねばならない。
それは、既に、友愛党として一端の粗描をしてある。
6.一人、二親介護、更に、核家族化介護商品化社会から共同体経済の模索
若くして、老婆の介護に専念するしかない状況の孫娘の涙が、紹介されていた。
介護によって、健康な人も殺される状況が、「介護離職」問題であり、老人施設医療そのものが、情報弱者性虐待に根差している現状が見て取られている故に、あらゆる段階で、「医学解放運動」を早急に、進めなくてはならない「知識革命」が必要とされていると僕は、立場をここで示す事となる。
情報弱者たるのは、施設の側、更に、医師(畑違いの内科医が主治医となっている)、更に、政府、そして、犠牲者は、一般大衆である家族である全てであるのだ。
7.人間の一生としての構造分析としての終末に至る医療無知の問題点
予期されていて情報弱者に置かれていて避けられない状況は、上記の医学部の高額独占としての資本主義的根本的矛盾であるとともに、それは、商品化される医療としての弊害、隠蔽的独占の構造としての物神性として理解を届けさせなくてはならない。
それに対する市場経済から共同体経済の根本土台の転換として前回粗描を試みているが、まだまだ徹底的な段階ではない。
8.貧困と情報弱者性による悲劇と即座なる回避としての家族会連携としての告発の土壌について
これが、ようやく、社会運動と一致する場となる。
この問題は、「狂気の歴史」としての社会的問題でありながら、薬害問題、被曝問題のような外部要因的ではない故に、分りづらい要素でありながら確実に、大量の人間生涯上の悲劇として、社会問題となっている深刻な終末問題そのものである事を広げていかねばならないのである。
これには、本来、難しい理屈の問題ではなく、最初に、紹介した、
「こんな症状の病があるのだろうか?わたしのことまで忘れてしまうなんて…」
この老婆の絶句だけで充分であるのだ。
これは、まさに、緊急性を有する問題なのであるが、放置されたまま、「独占」「隠蔽」されたままになっている複合的問題なのである。
老人は、三度殺され虐待状況にある。
一度目は、医療独占に、
二度目は、施設に、
そして、最愛なる者、介護離職としての介護者の死である。
「現代平安地獄年間」の貧困は、ここまで来ているのだ。
《全身全霊を持って、今あるその命(心)を救わねばならない》
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