抜き書き典籍紹介・「暴」引断簡零墨(2-1)
- 2016年 2月 12日
- カルチャー
- 山川哲
『大地動乱の時代―地震学者は警告する』石橋克彦著(岩波新書1994)
この本が読書子の間で一躍有名になったのは、これが書かれた翌年(1995年)に起きた「阪神・淡路大震災」によってである。この書はあたかもこのことを予言したかのように、今や日本列島全体が「大地動乱の時期」に入っているとの警告を発していたからだ。この本の編集を担当した方に直接聞いた話であるが、この本を最初に出版したとき、彼は上司に酷く叱られたそうである。「こんなタイトルの本が売れるわけがないだろう」と。しかし、…。2011年の「東日本大震災」そして、近未来に予想される不気味な「南海トラフ」地震、など。確かにこの書による地震学者の警告は、われわれが大いに傾聴すべき価値をもっているようだ。以下、評者の素人意見はできるだけ簡単にして、著者の語りを拝聴したい。難解な問題をじつに明快な語り口で語っていて、引用される歴史的な事実だけを拾って行っても大変興味深いと思う。(ゴシック体はすべて評者のもの)
「江戸は元禄16年(1703)の『元禄関東地震』で大きな被害を受けて以来、実に150年間も大地震に襲われていない。この間の関東地方の地震活動は、天明2年(1782)の『天明小田原地震』を除けば、きわめて静穏だった。…この『大地の平和の時代』に、江戸は人口130万以上と推定される世界一の巨大都市になる。」(pp.13-14)
しかし、「日本列島全体をみると、文政11年(1828)の越後の地震(M7弱、死者千数百人)や、弘化4年(1847)の信州の善光寺地震(M7.4、死者数千人以上)をはじめとする大地震があって、大地が平和だったとはいえない。」(p.14)
1. 江戸150年間の眠り(「大地の平和の時代」)を覚ます大地震
「ペリー来航の約4か月前、嘉永6年(1853)2月2日(陽暦3月11日)、相模湾北西部沿岸の小田原を中心とする地方を、M 約7の大地震が襲った(「嘉永小田原地震」)。『マグニチュード』というのは、地下の岩石破壊現象である地震そのものの大きさを表す数値である。」(p.8)
「岩石破壊(つまり地震)が発生した地下の領域を『震源域』という。」(p.10)
「『嘉永小田原地震』と呼ばれるこの地震は、午前10時過ぎに起こった。10分か15分の間に二度大地震があったらしい。…震災がひどかったのは、小田原の北に続く足柄平野西縁の村々(現在、小田原市―南足柄市)と、平野の北東側の現在の大井町付近である。小田原城下とこれらの地域では、震度6、場所によっては7に達しただろう。箱根山中の須雲川、畑宿などの集落や、関所、宿場も損害を受け、二子山付近のおびただしい落石や道路・橋の損傷などによって、東海道の交通は9日ごろまで途絶した。箱根西麓より西ではだいぶ軽かったようだが、東は大礒や鎌倉あたりでも多少の破損があった。また、真鶴や静岡県小山町でも被害が生じた。震度4位の強い揺れは名古屋、長野、高田(上越市)、日光まで及んだ。…最初の大地震の後も多数の大・中・小の地震が発生し、小田原地方の大地は一日中強く弱く揺れ続けた。翌日は少し軽くなったが、夕方4時頃また大余震があり、新たに潰れる建物も多かった。小田原で体に感じる余震が1日3,4回に減ったのは、10日ごろのことである。」(pp.10-12)
「嘉永7年(1854)9月、ロシアのプチャーチン来航。10月15日に伊豆の下田湾に投錨。その年の11月4日(陽暦12月23日)午前10時近く、駿河湾から遠州灘、熊野灘に及ぶ広大な地域の地下に巨大な裂け目ができてゆく。太平洋の海底の圧迫に147年間耐えてきた東海地方の大地は、今緊縛を解き放たれ、巨大な亀裂にそって激しい身ぶるいを始めた。M8.4といわれる『安政東海地震』の始まりである。」(pp.17-18)
「…下田の町は完全に消え失せ、家や船の残骸が散乱する浜辺と化した。…安政東海地震は、東北地方南部から中国・四国地方にまで震度4以上の地震動をもたらした。」(p.21)
「最初の巨大地震から約30時間後、11月5日(陽暦12月24日)の夕暮れ時、ついに紀伊水道沖から足摺岬沖までの海底でも巨大な岩石破壊が発生した。M8.4とされる『安政南海地震』である。今度は紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の激しい揺れに見舞われた。再び大津波が生じ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸で数メートル~7,8メートルの波高に達した。…熊野灘沿岸や近畿地方では前日と区別しにくいところもあるが、再び大きな震害や浪害をうけた。鳴門、高松、丸亀、宇和島、大分、臼杵、延岡なども震害が激しく、出雲付近も局地的に大きく揺れた。また、紀伊半島先端や室戸岬が1~1.2メートルほど沈降した。更に、湯の峰(和歌山県)や道後の温泉が良く年2,3月ごろまで止まった。」(pp.27-28)
「この年は御所の炎上やペリーの再来などもあったから、11月27日に安政と改元された。」(p.34)
「安政2年(1855)10月2日(陽暦11月11日)。江戸ははっきりしない空模様だった。…この日の昼ごろ、深川辺で井戸を掘っていると、地の底がしきりに鳴った。職人は気味が悪くなり、仕事をやめて帰ってしまった。利根川岸の布川(茨城県北相馬郡利根町)でも井戸の中が鳴動した。数日前には、浅草蔵前の茶店の土間で、清水が急にこんこんと湧き出すということがあった。そこは昔の掘り抜き井戸を埋めた跡だったが、大勢の見物人が押し掛けて不思議がった。神田でも水の湧いたところがあり、各所で増水した井戸も多かった。また、二日の朝には、あちこちの井戸で水位が下がったり、濁って汐気を含んだりした。…本所の川で鰻漁をしていた人は、鯰がしきりに騒ぐばかりで鰻は一匹もとれないので心配になり、急いで帰宅して家財道具と共に庭に出て異変に備えた。…おりしも、海上から、江戸の上空がにわかに明るく光るのが望まれた。それは船上で衣服の色や模様がはっきりわかるほどだった。この発光現象の正体は現代科学ではまだ解明されていないが、市中でも何カ所かで見えたことが記録されている。船の人たちは、やがて海底が不気味に轟き、船底へ砂利でも内あてるような響きを聴いた。光りものがまた閃いた。
江戸直下の岩盤が、ついに大破壊を起こした。世に言う『安政の大地震』、または『安政江戸地震』、M6.9。最悪の都市直下型大地震の発生である。」(pp.38-40)
「天下の総城下町である大江戸の市域(御府内)の東半分の低平地が、震度6~7の激しい揺れに襲われた。主なところは、本所(墨田区南部)、深川(江東区内)、浅草・下谷(台東区内)、新吉原(同区千束3・4丁目)、小石川(文京区南部)、小川町・丸の内・日比谷(千代田区東部)、西新橋(港区北東部)などである。この地域では瞬時に倒壊した建物も多く、新吉原の遊郭では、胡坐をかいて腕組をしたまま梁に打たれた黒こげの死体もあったという。江戸では全般に上下動がきわめて強かったらしい。…また土蔵の被害が非常に多かったが、これは一般住居よりもがっちり造られている土蔵を破壊しやすい短周期の(せかせかと揺れる)振動が、特に強かったことを物語っている。共に直下型大地震の特徴といってよい。江戸の北方と東方…などでも震度6に達した。…それと対照的に、御府内西部の山の手台地や、下町でも日本橋・京橋・銀座などの地盤の良いところは、震度5程度にとどまった。」(pp.41-43)
「余震は多く、10月いっぱいは江戸で毎日のようにかなり強い揺れを感じた。…震度5以上の地域では、地盤の液状化が広範囲に発生した。」(p.44)
「地震による町方の被害状況は、10月中旬までに町奉行所の支配機構を通じて調査され、かなり信頼のおける数字が残っている。それによると、死者の合計は約4300人または4700余人である。町人地の倒壊家屋は、倒壊後焼失したものを除いても14000余軒と1700余棟で、倒壊率は10%を優に超える。これは大正関東地震の旧15区の約4%に比べて明らかに高い。」(pp.45-46)
「安政3年10月、江戸の北方が震源と推定されるM6~6.5の地震が起こる。同5年12月にもM6程度の地震があり、岩槻城(埼玉県南東部)が破損した。」(p.54)
2. 明治になっても「大地動乱」は収まらなかった
幕末からはじまった「大地の動乱」=大地震の頻発、は、明治に入ってからも一向に治まらない。150年間にわたり溜まったエネルギーがこの期間に一気に噴き出したものと思われる。
「…明治13年(1880)2月、横浜で多数の煙突が倒壊・破損して家屋の壁が落ちるような地震が起こった。東京は横浜より軽かったが、この地震をきっかけにイギリス人J.ミルンらが中心になって『日本地震学会』が生まれた。これは世界最初の地震学会である。」(p.55)
「明治17年(1884)10月、東京で多数の煙突が倒れる地震、明治22年(1889)2月、東京湾付近のM6程度の地震…明治24年(1891)10月28日、愛知・岐阜両県にまたがって、内陸としてはわが国最大級のM8.0の濃尾地震が発生した。美濃・尾張地方の広い範囲で死者7200余人、全壊家屋約14万という大災害になった。明治25年(1892)6月、また東京湾北部でM6.2の地震…嘉永小田原・安政東海両地震によって不安定になった関東地方の地底は、安政江戸地震の発生によっても落ち着かず、まだ当分かなりの地震を起こしながら、きしみ続けなければならなかった。」(pp.55-56)
「明治27年(1894)6月20日の午後2時4分、東京湾北部~東京都東部の下で、M7弱の『明治東京地震』が発生した。2年ほど前から東京あるいは東京湾の真下あたりでM5前後の地震が増えていた模様で、当日明け方にも微震があった。地震がかなり深いところで起こったのと規模があまり大きくなかったために、被害は安政江戸地震に比べればずっと軽かった。それでも東京の震度は6の弱い方に達し、広い範囲が震度5の強震に襲われて、東京で24人、川崎・横浜で7人の死者が出た。」(pp.56-57)
「この年(1894年)8月、…日清戦争がはじまった。…日本は圧倒的に勝ち進み、11月には遼東半島の旅順・大連を占領した。戦勝気分で年が明けた明治28年(1895)の1月18日。夜10時48分に関東一円は再びM7.2の大地震に襲われた。震源は茨城県中部でかなり深いと推定され、大被害の集中域はなかったが、ほとんど関東平野全域で震度5となり、広い範囲でかなりの被害が生じた。」(p.60)
国内の疲弊(災害や経済危機、内戦=西南戦争など)を戦争特需や賠償金などによって補填するといった、なんともえげつない、姑息な手法は、この頃から日本政府の政策として積極採用され始めたのではないだろうか。
3. 地震学会を揺るがす大論争-今村明恒vs.大森房吉
「(明治37年(1904)、日露戦争)…このようなとき、東京帝国大学地震学教室助教授の今村明恒(35歳)が、雑誌『太陽』9月号に、東京は50年以内に大激震に襲われるだろうから震災対策を1日も猶予すべきではなく、特に火災が発生すると10万以上の死者が予想されるので石油等を全廃して伝統に変えるべきである、という趣旨の論説を書いた。…翌1906年2月24日の朝9時過ぎに東京湾でM6.4の地震が起こり、東京市中は震度5の強震に見舞われた。(→パニックが起きた)
こういう状況になって、地震学教室教授の大森房吉が、講演や文筆で今村説退治に乗り出した。大森は今村より2歳年上なだけだったが、明治30年以来教授として地震研究に打ち込み、この頃は震災予防調査会もほとんど一人で背負っていた。彼は雑誌『太陽』3月号で、大地震が近い将来東京を襲うという説は学問的根拠のないデマだと決めつけた。地震学の最高権威のこのような言葉によって、世情不安はひとまず静まった。
この後、明治42年(1909)7月と大正2年(1913)12月にまた東京湾を震源とするM6.1と6.0の地震があり、本所・深川辺と横須賀で微小被害が出た。」(pp.61-62)
「大正4年(1915)11月12日未明、九十九里浜南部の一宮付近で群発地震が始まり、この日だけで35回の地震が記録された。地震は14日と15日も続き、16日にはM6.0の地震が発生してがけ崩れなどで被害が生じた。…今村は慎重な記者発表をしたが、大地震の続発が絶対にないとは断定せず、火の元の用心をしておくに越したことはないと付け加えた。幸い一連の活動は17日を最後に収まり、市民の不安も静まったが、大森は京都から急いで戻って今村を激しく咎めた。大森には立場上、社会不安を起こさないという配慮が常に働いていた…。
大正6年(1917)の1月末、箱根で群発地震が発生した。最大でもM4.5くらいだったが、地面の小亀裂や小被害を生じ、有感地震は249回に達した。大正9年(1920)12月にも群発性の活動の中でM5.7の地震が発生し、箱根町や元箱根で小被害があった。大正7年(1918)6月26日には山梨県東部でM6.3の地震が起こり、神奈川県北西部~山梨県東部の比較的広範囲で小被害が出た。
これらの活動は、神奈川県西部から山梨県東部にかけての地底がかなり緊迫した状態になっていることを反映するものだった。」(pp.64-65)
当時の日本地震学会を揺るがしたこの二人の論争は、予告された関東大震災発生の事実によって今村説が大森説を抑えたのである。
4.関東大震災(1923年=大正12年、9月1日)
「…南関東の地底は、刻々と破局に近づいていた。房総・三浦半島の各地で海岸の沈降が速度を増した。小田原では、明治40年ごろ築いた堤防が、波が少し荒いと海水につかるようになった。大正10年(1921)12月8日、茨城県南西部でM7.0の地震が発生した。茨城県南部・栃木県南部・千葉県北部の広い範囲で土蔵の破損、田畑・道路の亀裂、壁・屋根・塀の損壊などの被害があり、東京・千葉でも微小被害があった。翌大正11年4月26日には浦賀水道付近でM6.8の地震が起こり、東京湾岸の東京・横浜・横須賀・浦賀・館山・佐貫・木更津や、三崎・葉山・逗子・大多喜などで、煉瓦造り・石造り建造物や土蔵を中心に被害が生じた。5月9日には茨城県南西部を震源とするM6.1の地震があって、土浦や現在のつくば研究学園都市付近で小被害が出た。
年が明けて大正12年(1923)1月14日にまた茨城県南西部でM6.1の地震が起こり、東京で家屋の小破や怪我人が出た。5月下旬になると銚子東方沖~鹿島灘で群発地震が始まった。その中で、6月2日にはM7.3と6.9の大地震が発生して津波を生じた。何か異変が起こりつつあった。小田原・湘南・房総などの海岸の沈降が反転して隆起気味になり、夏休みの海水浴客は波打ち際の様子が変化したのを不思議に思った。また鎌倉へ避暑に行った芥川龍之介は、8月というのに藤・山吹・菖蒲が咲いているのを見つけて、会う人ごとに『天変地異が起こりそうだ』といった。」(pp.67-68)
「9月1日、土曜日。東京付近は未明からの暴風雨が10時頃には収まり、動きの速い雲の切れ間から真夏のような太陽が顔を出した。子供たちが二学期の始業式から戻り、あちこちの家庭で昼食のために火を使い始めた。湿った南風がまだ強かった。午前11時58分31.6秒、神奈川県西部の地底でついに岩盤の大破壊が始まった。それはたちまち巨大な亀裂となって湘南地方と相模湾の地下に拡大し、更に房総半島までの大地の底を切り裂いた。1703年元禄関東地震以来220年間たまり続けた南関東全域のひずみエネルギーが、激しい震動となって一挙に放出された。M7.9の関東大地震の発生である。
小田原とその周辺は、たちまち激烈な上下動とそれに続く前後左右の目茶苦茶な揺れに襲われた。…丹沢・足柄の山々が随所で大崩落を起こした。一瞬ののちに、湘南地方、横浜、房総南部の大地も狂ったように波打ち始めた。
58分44秒前後には東京も揺れ出した。最初は大地震とも思えないほど緩やかだったが、どんどん強くなって、約10秒後からは強烈な激震が続いた。それがようやく少し弱まると、今度は大船でゆられているような振動がますます大きくなり、1分たっても2分たっても止まなかった。そのうちに大余震が再び激しい衝撃をもたらした。
激烈な地震動によって木造住家の30%以上が全壊したところ(震度7)は、吉浜(湯河原町)・真鶴付近、小田原~逗子の相模湾北岸、横須賀~久里浜、横浜、房総半島南端部などで、場所によっては70%を超えた。これらの地域を囲む伊豆半島北東岸~静岡県北東部~神奈川県全域と房総半島西部~南部でも全壊が多く、震度6だった。
東京の主要部も平均的な震度は6だったが、地盤の悪い低平地や谷地で特に激しく揺れ、多数の全壊家屋や液状化・地割れを生じた。地盤の良い山の手台地では細かく揺れる短周期の振動が強く、がっちり造られた土蔵の全・半壊が目立った。山手線以西は旧市街に比べれば軽かったが、平均的に震度5以上で、立っていられないところも多かった。また現在の町田市は、強い地震動で大きな被害が出た。
古利根川・江戸川・荒川などの流域の埼玉県東部も、川口、粕壁(春日部)・幸手をはじめとする各地で震度6となり、ところどころで木造住家全壊率が10%を超えて大規模な液状化も発生した。茨城県でも、利根川本・支流沿いの県南西部で振動が強く、約400戸の全壊家屋や多数の堤防崩壊を生じた。山中湖付近と甲斐盆地南東部も家屋の全壊が多かった。
烈震地域のいたるところで地盤・道路・橋・鉄道・堤防などの崩壊や山崩れ・がけ崩れが地震と同時に発生し、走行中の列車の脱線・転覆も20本以上に及んだ。小田原南方の根府川では、白糸川上流の膨大な土砂が山津波となって河口までの約4キロメートルをわずか5分で流れ下り、60余戸・400人近くを厚さ約10メートルの堆積物の下に埋めた。…地下深くの広大な岩盤破壊によって、南関東全域の大地が大きく変動した。
烈震と同時に随所で火の手が上がった。…東京府では約160カ所で出火し、ほぼ半数は消し止められたが、残りが燃え広がって東京を焦土と化した。市部では、総戸数の70%強に当たる36万6000戸が焼失し、5万2000余名が焼死した。火は二日の朝6時ごろまで荒れ狂い、完全に鎮火したのは三日の午前10時ごろである。」(pp.68-73)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0203:160212〕
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