楽しいピケティ②(格差と税制改革)から絶対貧困(法医学解放運動)まで。《夏の参議院選挙決戦まであと5カ月強…)
- 2016年 2月 13日
- 交流の広場
- 武田明
導入
前回のピケティの話もそうであるが、「進化経済学」と言う立場に反対である。
経済学以前の哲学的立場からまず、語るとしたなら、伊藤誠先生の述べる「生産様式」と言う「関係性」としての資本論の立場に対して、「貨幣」と言う現代形而上学、イデア論の立場を抽出する事にによる複雑系なる展開は、本当に有効であるのだろうか?
これが、最初の疑問であった。
カント哲学の矛盾もあるのだが、直観というイデア論批判が当たらない、関係性を備えていることを、まず廣松渉、そして、柄谷行人の展開が、日本では代表されている様に感じている。
哲学は、その様に、二分されているように思っている。
唯物論的関係性の立場と上記したイデア論であり、「貨幣そのもの」と言う「そのもの」を付け加えていく立場ではないかと考える。
柄谷行人批判として、Xだけでは意味はなさない。Y軸との「関係性」を持って意味をなすのである。これは、真である。柄谷行人にもカントーヘーゲル的ドイツ観念論としての枠内のイデア論回帰性がまだまだあると言う事になるのではないだろうか。
残念なのは、廣松哲学が、昭和期で途切れさせてしまっている現実である。
しかし、今は、その哲学的背景としての説明は、ひとまず置いておく事にしよう。
前回の小幡先生のプレート論でも疑問質問として出ていた、輪廻の様に、資本主義という呪縛から抜け出せない不毛性の中にある閉塞は、何であるのだろうか?
資本主義分析から入り、「ミイラ取りがミイラになる」誤読性は、実は、「資本論」体系からの伝統でもあり、それを抜本したいとしているわけであるが、それは何によって可能かと言うことである。
だが、この論理さえ、今は、一旦、置いとくとしよう。
『ピケティ論争を超えて』2.11
http://chikyuza.net/archives/60023
に求められていたものは、もっと生々しい議論であったのではないかと僕は、考えており、期待していたからである。
つまり、「格差と税制改革」についての具体的方法論であり、フランスから日本的改革のギャップとは何であるかの集中論議である。
ピケティのアベノミクス批判を更に、展開する短期決戦型の夏の参議院選挙戦略から実際の政策論としての提言には、やはり、届かない「理論経済学」の範囲で終始してしまうアカデミズムに、大衆は、常に、期待しながら失望しているのではないだろうか?
本論
富裕層を海外へと逃さないグローバル税制の限界についてもここでは置いておこう。
まずは、格差、貧困層そのものの悲惨さとは具体的に、どの様にあるのか?
その緊急性を僕は、「医学独占タブー」「施設=狂気の歴史・監獄の誕生」
「私の事まで忘れてしまうなんて、何故、そんな病気があるの」この老婆の切実な訴えに答える「法医学解放運動」としての社会運動から展開すべきと誰でもわかりやすいキーワードを先行させてきたわけだ。
絶対貧困の結果としての「認知症」問題は、老人の5人に一人とされている故に、「緊急性」があり、具体的な問題であるというのが、全ての大前提であり、実際に、認知症発症者は、投票権も奪われ、最貧困、最奴隷状態に堕とされているのであるから、「家族会」連携の論理の展開と必然的になるのである。
何故、この様なわかりやすい告発の導入部を僕自身以外訴えようとしていないかが不思議でならない。
これが、「医学独占タブー」としての最初の関門となっている。
しかし、これは、頷けるのである。
安保法制違憲論議においては、大部分の憲法学者が、揃えて声をあげる事ができた。
しかし、これではまだ足りない。
経済学も原理論は、即戦力の経営学部に遅れをとっている故に、少数派とされ、伊藤誠、柴垣、鎌倉、諸先生の苦戦が、本殿である経済学の中である事であり、更に、
物理学となると、かつて、推進派からこぼれ落ちた小出教授、更に、作家である広瀬隆氏しか現在、声をあげられていない現状である。
そこからすると、「医学独占タブー」は、堤未果氏の「沈みゆく大国 アメリカ」TPP問題にも抵触していながら「絶対領域のアカデミズム階級支配の頂点」であり続けているその牙城をどの様に、素人イズムとしての「ちきゅう座」素浪人、7人の侍、48赤穂浪士となり得るのかの連携の問題としての「進撃の巨人」「人類対ゴジラ」の様な決死の戦いになっている意識が、欠如している故に他ならない。
昨夜(2月12日)も、友愛党友人と電話にて連絡した。
友愛党は、かなりくたびれてもいて、大部分が、それぞれ、家族の中に、「認知症介護者」を抱えてもいる。
それ故に、互いに助け合い連携を模索してもいるわけである。
「比較」の問題があった。
90歳でもまだ介護度がつかない老婆、そして、病院にいる老人、更に、「施設」入居者のあまりにも違いすぎる状況である。
「施設」は、やはり、既に、紹介済みである友人の怒りの様に、不遇性があり、寝たきりにさせられる可能性が大である事がわかるのである。
これは、個別ではわからないことだ。比較して初めて判明しているのである。
そもそも認知症そのものが防げるにも関わらず放置されている「日本的貧困」=「情報弱者性」問題としての告発すべき状況とは何か?
子供の貧困率、母子家庭問題も最貧困であるのだが、実は、その結果としての「認知症」問題でもあり、子供と母は、最下層労働奴隷的状況に置かれていたとしても必死で健気にも「現代平安地獄年間」を生き抜こうとしている。
その盲目性、情報弱者性に対して、ヒューマニズム憲法の精神を失わないちきゅう座有志も連帯して声を上げるべき、被救済者の実像として、まずは、これを理解に入れなくてはならないはずである。
更に、《全力でその命(心)を救いたい》
この生々しい具体性に沿って、イエスキリストの様に、または、または、日本なら誰だろう??花崎皐平氏のあげる民衆運動家、田中正造の様に、「今こそ、当たり前の労働運動へ」2016年2月21日の伊藤誠先生の様に声を上げ続けるべき時であるのだ。
http://chikyuza.net/archives/60233
夏の参議院選挙まで後5カ月強。
夫の育児休暇売名自民党若手議員は、甘利大臣に続いて偽善性、売名性を自ら認めて、潰えた。
まずは、補欠選挙を制し、そして、政権奪取、ピケティ税制改革先駆け政治学へ。
その最短距離としての集会、研究会の連続を東京から地方へと広げるインターネット連携から開始しなくてはならないと言う当たり前の道筋を明確しにしながら、『哲学から経済学へ』
マルクスを越えて、理学、医学革命としてのキューバ革命ゲバラ主義に合流するまでの道程を全方位的体系として仕上げていかねばならない。
今具体的唯物論的に行わねばならない事柄は、以上で尽きていると僕は考えている。
頑張りましょう!みなさん!
鳩山由紀夫、植草一秀氏の友情を模倣した友愛党反乱は、既に上記の様に開始され同志連携が地方へと広がっているのである。
「安倍政治を許さない」「絶対許すな」「油断するな」である。
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