シンガポール陥落74周年に―高嶋伸欣バンクーバー講演全記録 For the 74th Anniversary of the Fall of Singapore - Full Transcript of Nobuyoshi Takashima’s Talk in Vancouver (October 17, 2015)
- 2016年 2月 15日
- 評論・紹介・意見
- 「ピースフィロソフィー」高嶋伸欣
2015年10月17日にバンクーバー・ユニタリアン教会で開催された高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)の講演については原京子氏による報告などですでに紹介しましたが、講演の書き起こし全文を高嶋氏にチェックいただいたものを改めて、シンガポール陥落74周年の記念日に合わせて公開します。高嶋伸欣・道夫妻は2月15日の追悼式典に出るためすでにシンガポールに入っています。シンガポールの華人虐殺については当ブログに2年前掲載した「村山談話を継承し発展させる会」による「2月15日・日本軍がシンガポールを占領したアジア太平洋戦争の節目の日に向け、正確な歴史認識の定着と虐殺犠牲者追悼碑への安倍首相の献花を求めるアピール」をご覧ください。@PeacePhilosophy
和解に向けて
―アジア太平洋戦争終結70周年ー
高嶋伸欣講演記録
2015年10月17日(土)ユニタリアン教会(バンクーバー)にて
My name is Nobuyoshi Takashima I came to Vancouver for the first time, I’m glad to see you.
皆さん今日は。お会いできて光栄です。
バンクーバー講演より。左が高嶋伸欣氏、 右が通訳を務めた乗松聡子(当ブログ運営人) |
今回、こちらのバンクーバーに私が来ることになりましたのは、私の父、高嶋信太郎がかつてスティーブストンの日本人学校の初代校長として赴任していましたので、その父親の歴史を確かめたいという気持ちが始まりでした。
その父親がこちらに来ました時の、日本の当時のパスポートが、兄の家に保存されていていました。その記録によるとこちらに赴任したのは1911年、104年前ということになります。
そして10年間こちらで教師の仕事をして、1921年に日本に帰国しています。
その10年間に私の父の授業を受けた教え子に当たる方たちが、戦争は終わった後に日本へ帰国をした機会に私の父のところに会いに来てくれていました。そのことを、何度か私は覚えています。
こうした個人的な理由で、バンクーバーには一度は来たいと思っていました。そこへ今回乗松さんたち、こちらのバンクーバー九条の会の皆さんがこのような企画を立てて下さり、こうした集会で報告をする機会を設けていただけたわけです。
バンクーバー九条の会の皆さんは、日本が決して戦前の軍国主義の社会に戻ってはならないという思いの方々です。そこで私たちが東南アジアで日本軍が繰り返していた侵略行為を長年調査しているのであれば、その調査の内容をみなさんに報告をするようにということになり、今日のこの会をセッティングしていただきました。
その調査の主な内容は、東南アジアに戦時中住んでいた中国系の住民を、日本軍が狙い撃ちして殺害したという事実を掘り起こすことでした。
その被害に遭った人の家族にとっては、私は加害者の側である日本人ですから、なぜ日本人がそのようなことを調べに来たのだと、その目的を疑って警戒していました。
初めの頃は、そういう殺害事件、虐殺事件が起こった場所へ一人で調査に入っていました。そのために、地元の人たちから日本人はこんなところに来るべきではない、なぜ来たと、厳しく怒鳴られたり殴りかかられかけたり、石を投げられたり、何時間も抗議を受けるという体験を何度もしました。
そういう時にも必ず地元の中国系の人たちの中から、日本人の中にもこういう人がいるのだから、と説明をして私を守ってくれる人がいました。
私は、学校の教師として、戦争中の日本軍によって起こされた侵略、加害の事実を日本の若い人々、中学・高校の生徒に説明するために事実を教えてほしくて来たという説明を繰り返しました。何度も訪問することで、だんだんに分かってもらえるようになりました。
やがてそういうことなら、私のやっていることに協力して情報をいろいろ集めてあげるよ、という人々が地元の人たちの中から何人も現れるようになりました。
そのおかげで私だけでなく同じ考えの教員を中心としたグループでツアーを組んでマレーシア各地を訪問することになっても、もうトラブルが起こる心配がなくなりました。さらに積極的に地元の方がいろいろ説明をしてくれたり、情報を集めてもらえるという状況が生まれて現在に至っています。
以上が全体的な経過です。振り返ってみると、私のこういう活動は地元の方たちと理解しあうということが積み重ねられてきたからこそ現在まで続けられてきたように思います。しかも最近は私が高齢になってきましたが、あとを継ぎますという若者が日本の中で何人も名乗りを上げてもらえています。そのような段階に来ています。
私が初めてマレーシアに旅行に行ったのは、1975年でした。その時から現在までこの取り組みを41年間続けていることになります。
今日いただいた時間は六十分です。あまり詳しくはお話しできないと思いますので、ポイントを絞って、これまでの取り組みの内容と特色などを、これから説明させていただきます。
南洋商報1999年3月4日 |
これは、マレーシアの中国語の新聞、「南洋商報」の1999年3月4日の特集記事の紙面です。
日本で「日の丸、君が代」を国旗・国歌として法律で明確に規定するという政府方針が発表された時のものです。日本政府の方針が明らかにされると、すぐにマレーシアの中国語の新聞がこういう特集記事を掲載したのです。
「日の丸」、そしてそれを更に変化させた「日本軍の軍旗」、これらはマレーシアの中国系の人々に、昔の辛い歴史を連想させるものです。それが今更、正式な国旗になるというのはやはり納得のいかないことだったのです。
日本による侵略を受けた人々には、日本は戦争で間違った行動をしたということで、負けた時にきちんと責任を明確にするべきだったという考えが、強くあります。それなのに、最も責任が重かった昭和天皇、その妻の皇后、この二人が処罰されずに天寿を全うして亡くなっています。このことから日本は無責任な社会だという思いが、「日の丸」から改めて連想されたのです。
そのことを記事の一番上の見出しで示しています。日本の軍国主義がまだ残っていて撤回されていない、それが今回のことで証明されたと、強調しています。
さらにこの新聞記事で注目されるのは、下にある靖国神社の写真です。
靖国神社の存在と昭和天皇が生きながらえたこと、そして「日の丸」、この三点セット。これらが日本の社会では今も何も問題にされずに受け入れられている。これらのことが、日本はあの戦争をきちんと反省していない、責任を認めていないではないということのシンボルとしてアジアの人々に語り継がれている。何かあると新聞にすぐにこういう記事が載る、ということを逆に私たちは思い知らされたわけです。
この記事が載ったのは、1999年です。私たちが調査を始めてもう25年も経った時になおこういう記事が出たのでした。私たちは日本人の責任として戦時中の日本軍の侵略による虐殺の事実をきちんと調べなければいけないと、改めて確認をさせられたのでした。
今度もまた、東南アジアの新聞記事ですが、これはシンガポールの中国語の新聞、「聯合早報」です。
1990年5月25日 聯合早報 |
先ほどの記事より10年前ですが、1990年、この時はシンガポールの現役の首相だったリー・クアンユー氏が演説した内容をトップ記事で大きく載せています。
彼は、日本で間もなく戦後生まれの人々が社会や政治の権力を握る時期が来る、とまず想定しています。そうなった時、その人たちは「自力行動発展軍事力」、つまりアメリカとの安全保障条約もやめて、自力で核兵器を持つ軍事大国になるだろうと、彼は予想したわけです。
日本では戦後短い期間、野党が政権を獲得した時がありますが、大部分の期間は保守党の自民党が政権を握り続けてきました。
その保守党も私たちから見れば大変危険な考えを持っているとは思っていました。それでもまだ戦争を体験した世代が保守党の指導者でした。彼らは、戦争だけはもう懲り懲りで、戦前のような軍国主義社会に戻ってはいけないという点ではほぼ野党と同じ考えでした。
ところがそういう保守党の指導者たちも高齢になって引退をして、やがて戦後生まれの若い人たちに代わる世代交代は避けられません。そうなったら新しい指導者は戦争体験がないので、何をやり出すか日本人はわからない。そういうことをリー・クアンユー首相は的確に予想していたわけです。
そしてもうみなさんニュースでご存じだと思いますけど、現在の日本では安倍晋三首相のもとに大変危険な軍国主義への傾斜が急速に進められています。
安倍首相はもちろん戦後生まれですし、その前の小泉首相、福田首相も戦後生まれの世代です。ですから現在の日本の状況はリー・クアンユー首相の指摘通りになっているということを、逆に私たちはこういう新聞報道からまた学ばされています。
そういう状況の日本の中で、私たちは1975年から東南アジアでの日本軍による侵略、住民虐殺の行為を、多くのかたに協力していただきながら調べてきているわけです。私たちの取り組みは、明らかに戦後生まれの安倍晋三首相たちの政治勢力と対決する動きということになります。
そのために実は私たちがこういう調査活動を続けていることに対して、政府から、そして安倍晋三首相と同じ考えを持つ保守派、右翼の人たちからも様々な妨害を受けてきています。けれども一方では同じ思いの人たちがたくさんいます。協力してくださる人が現地にもいらっしゃるので、この取り組みは現在も着実に続けられています。
そういう取り組みを私たちがしていることを、今回こうやってバンクーバー、カナダの皆さんに報告をさせていただけるということになったわけです。しかもカナダ政府には、あの日本の罪を許してしまうサンフランシスコ講和条約に調印をしたという責任があるという問題提起が、こちらではされています。それならば、みなさんにもいろいろ考えていただく材料にしていただけるのではないかという点で、今回のチャンスを大変ありがたく思っております。
それではいよいよ具体的に私たちが東南アジアでどういうことを掘り起こしてきたか、事実を調べてきたか、駆け足で説明させていただきます。この地図は少し見にくいかもしれませんが、日本軍のマレー半島からシンガポールへの進撃コースを示したものです。
日本軍のマレー半島とシンガポール進撃コース |
マレー半島に上陸した日本軍の目的はシンガポール攻略でした。日本軍は背後のマレー半島から、どのようにイギリス軍と戦いながら攻め下ったかを、この地図は示しています。
この地図の東海岸の上のほうにコタバルとあります。三つ目の矢印のところです。そこの日付は十二月八日と書かれています。ここの基地のイギリス軍と上陸してきた日本陸軍との戦いがこの日の早朝に起きます。いわゆるアジア太平洋戦争はここがスタート地点ということになります。
念のため申し上げますと、多くの歴史の本にはアジア太平洋戦争は真珠湾、パールハーバーから始まったと書かれています。けれども、ここコタバルの戦闘はパールハーバーの奇襲攻撃より一時間以上前に始まっています。
そのことを歴史学の研究者はほとんどが事実として認めています。
ところが、大部分の日本のジャーナリズム、マスコミや政府の人々はコタバル、マレー半島東岸が先だったとは言わずに、パールハーバーからあの戦争は始まったと現在でも繰り返し説明しています。
それは一般の人が、あの戦争がこのマレー半島にある鉄鉱石やその隣にあるスマトラの石油などの資源をとるための侵略戦争だったことに気づきにくいようにしよう、という考えがあるからだと分析されます。
そこで私たちは、こういう資料をもとにして、明らかにコタバルがパールハーバーより一時間以上前に戦争の始まった場所なのだということを、歴史の教科書に必ずそれをきちんと書いてくださいと、教科書執筆者に要求し続けてきました。
その結果、現在の日本の中学高校の歴史教科書では、コタバルないしはマレー半島の東海岸から戦争が始まったと、説明が変わってきています。
けれどもそのように教科書の説明が変わるのに約三十年かかりました。しかもマスコミ、一般の人向けの報道では今も相変わらず歴史修正主義そのままに、太平洋戦争でパールハーバーから始まったという説明が大部分なのです。
その点で、間もなく十二月八日の日が来ますので、また日本の新聞、テレビなどマスコミがどのように報道するか私たちは関心を持ってチェックをします。こちらでもどのような報道になるか、ぜひ皆さんにも関心を持って見ていただきたいと思います。
80年代の高校歴史教科書『詳説 日本史』 |
先ほどのような開戦の事実を教科書に正確に書いてもらうのに三十年かかるほどでしたから、細かい東南アジアでの侵略の様子を描いてもらうのにもなお長い時間がかかりました。
ここにあるのは、そのほとんど詳しく書いてない高校の歴史教科書で、1980年代のものです。十種類ぐらいある高校歴史教科書の中でもっとも多く使われ、50パーセントのシェアを占めていた教科書ですが、このアンダーラインが引いてある二行ぐらいしか東南アジアを侵略したということに触れていません。
最近の中学歴史教科書 |
今度は、一番最近の中学校の歴史の教科書の四つの記述です。シンガポールでは日本軍が住民を約三万五千人虐殺したと言われています。その人たちの遺骨を島内各地から掘り起し、それらをまとめて埋葬して、そこに追悼碑が建てられたのは1967年でした。その追悼碑の写真、これが一枚、これとこれもそうです。ですからこれらの歴史教科書には写真付きで詳しい日本軍の残虐行為、その他の侵略の説明が載るようになりました。
こちらにももう一枚ありますから写真は四枚ですね。四冊の教科書に載っているということになります。
先ほどのように、日本軍による住民虐殺のできごとを教科書にきちんと載せられるようになったということは、文科省の検定においても事実であると認めたことを意味しています。
そして住民虐殺が事実であると証明しているのが、ここにあります日本軍の公式記録である「陣中日誌」です。これは、陸軍の中隊ごとに部隊では何をしたか、何があったか、その日の記録を丹念に毎日つけることを義務づけられていたものです。これが日本国内に保存されているのを、私たちの取り組みで1987年10月に発見し、12月には広く全国に報道されました。
陸軍第五師団歩兵第十一連隊 陣中日誌(1942年3月) |
ここに示したのは、マレー半島の内陸にあるネグリセンビラン州で住民虐殺をした部隊の記録です。各地の部隊には、虐殺の正式な命令が出されていました。いわゆる敵性華僑狩りを実施せよというもので、日本軍に逆らう中国系の住民と思われるものは見つけ次第、子供も年寄りもすべて殺せ、男性女性構わず殺せ、という厳しい命令が出たことが記録されている部分です。
このような記録はほかの部隊も残していたはずです。けれども、敗戦の時、ポツダム宣言を受け入れると同時に日本軍の司令部からすべての部隊に対して、このような記録類はすべて焼いて隠せ、という命令が出されました。そのために、ほかの大半の部隊のこうした記録はこれまでのところ見つかっていません。
ところがこの広島の陸軍第五師団歩兵第十一連隊では、第七中隊を含めミスをしてしまっていたのです。この部隊は敗戦直前に米軍に捕えられ、これらの記録を焼かないままアメリカ軍に押収されていました。その後、戦犯裁判の証拠として使われてから日本政府に返還されていました。それを、私たちが見つけ出したのです。
この画面は、細かい字ですのでなおさら見にくいと思いますが、42年3月の「陣中日誌」の一部分です。三月四日のところを見ますと、この日はいわゆる敵性華僑をこの部隊が五十五人、銃剣で刺し殺したと、あります。自分たちの部隊の手柄として具体的に記録しています。
更にその次の三月十六日のところを見ますと、今日は百五十六人を刺し殺したと書いてあります。
このように日本軍は担当地域内の各地を巡回しながら、そこで見つけた中国系の住民は子供も年よりも、女性も男性も構わずにすぐ捕まえ、その場でろくに取り調べもしないまま、名前も記録に残さないで、どんどん銃剣で刺し殺していたのです。こういうことを毎日繰り返していたわけです。
このことは当時すでに日本軍が調印をして批准もしていたハーグ陸戦協定という戦争に関する国際条約に違反しています。
その条約(国際法)では、戦闘中の銃の打ち合いなどで敵兵を撃ち殺すということは戦争だからやむを得ないけれども、もう戦う意思がないといって捕虜になったような人については、人権を保障しなければいけないと、捕虜保護の規定を明示しています。一方で、軍服を着ないで軍事行動をしている者はスパイとみなされ、捕虜の待遇は与えられないとしています。ただし、その場合もスパイ行為をしている現場で捕えられ、スパイであることが明らかでも、裁判なしで処刑をしてはならない。死刑に相当するという判決が出てからでなければ殺してはいけないと、この陸戦協定には明記されているのです。
それなのに日本軍は裁判をまったくしないで、現場の部隊のその場での判断で、一般住民であってもかまわずに刺し殺してよい、という命令を先ほどの命令書で公式に各部隊に出していたわけです。
ですから、マレーシアでの住民殺害は日本軍が国際法を守っていない卑怯な戦争をやっていたという、何よりの証拠の事件であるということになります。
そのような違法殺害を、日本軍はマレー半島へ来る前に中国大陸の各地で繰り返し実行していたということも、分かっています。
中国大陸でのそのような事件のもっとも代表的なものが、南京大虐殺です。
南京では捕虜にした中国兵を、前線の部隊の判断で殺害しています。食料を与える準備もできていなくて、邪魔だから殺してしまえと部隊の指揮官たちが兵隊に命じて殺害したのです。そうした経緯が、現在では兵隊たちの日記や証言でわかっています。
確かに捕まった中国兵のなかには軍服を脱ぎ捨てた人もいました。そのような人は捕虜の扱いをしない、ということが国際条約にも書いてあります。けれども、その場合はスパイ扱いということになりますので、スパイでも裁判を受けさせなければいけなかったはずです。
スパイ扱いをして国際条約通りに裁判をしていれば、記録が残ります。名前と人数もその記録で、現在までに簡単に確認ができたはずです。
ところが日本軍はそういう条約の規則を守らず、記録が残る裁判をしませんでした。そのために、今現在も中国側が多めにいう犠牲者三十万人というのは嘘だと反論しながら、じゃあ日本側は確実な被害者の数を証明できるのかというと、できていないのです。いろいろな情報をもとにせいぜいこれくらいだろうという曖昧な数字を出すことしかできていません。そうやって半世紀以上もの間、犠牲者数をめぐる論争が続いているという状況です。
そういう状況の中でみなさんもニュースでご存じと思いますが、中国が南京大虐殺の記録をユネスコの世界遺産に登録すると申し出たことに対して、日本政府がヒステリックな反応をし、論争を挑んでいます。
最近の日本政府のそのような反応は明らかに間違っています。これまで説明した資料などからすると、到底言ってはならないことなのです。日本人として大変恥ずかしい行動を日本政府はしていると、私は思っています。
実は明日日本へ帰国してから間もなく、この問題のシンポジウムが予定されていて、そこで私が基調提案をすることになっています。そこで、この点を私は指摘するつもりでいます。
その時に今日ここにお集まりの皆さんからも、こういう意見が出ましたということが言い添えられると一層効果的です。のちほどのQ&Aのときでも意見を聞かせて頂ければ大変ありがたいです。
この画面は私たちが「陣中日誌」のような資料を手に入れるのと並行して、地元の皆さんに協力してもらいながら、犠牲者のお墓や追悼碑を捜し歩いた結果を、まとめたものです。1992年にある出版社が出した本の2ページ、見開きの紙面に地図と写真と組み合わせて30か所を紹介してあります。
みなさんからは見にくいかもしれませんが、このマレー半島内陸のここネグリセンビラン州では、こんなにたくさん事件があったのです。そしてその犠牲者の追悼碑がこのようにそれぞれ建てられていることを、92年の時点で私たちが確認できていました。
ここまで調べるのにも、私たちははじめのころは本当に手探りでした。レンタカーで走りながら中国人の墓地を見つけると、何かあるかもしれないとその墓地の中をぐるぐる回りながら見つけるというやり方もしました。そのうちに地元の人から、それだったらあそこの墓地へ行きなさいと教えてもらえたりして、90年頃には急速にこういう確認ができた場所の数が増えてきていました。
そしてこの92年にこのように本に結果を発表できたのです。そこで。みなさんの協力のおかげですと現地で報告をすることにしました。このページをコピーしてマレーシアに持っていって地元の皆さんに見せました。すると地元の人たちが、自分の地域の追悼碑のことは知っていたがマレーシア中にこんなにあるのかと、驚かれました。初めて知った、ということでした。
同時に特にマレーシアの若いジャーナリストたちなどから、こういう調査を日本人が先にやったが、自分たちがやるべきではなかったのかという意見が出てきました。そして、まだ調べ切れていないところがたくさんあるから、その地域のことを今度は自分たちが調べよう、と言い出してくれたのです。
その結果、私たちが十分に調べられなかったジョホール州の北部、それからクアラルンプールの北のペラ州、さらにコタバルに近い北東部の地域など、新たに地元の人たちがお年寄りから聞き出して私たちに教えてくれる情報はどんどん増えました。
こうして、現在では七十二か所まで、こういう事件のあったところの追悼碑、お墓の存在が確認できています。
そういう調査結果を私たちが独り占めするのではなく、調査が終わるたびに広く伝えていくことにしています。今度はこういうところのモニュメントを確認しました、事件があったことを確認しました、と広く知らせるようにしてきたのです。
その結果、私たちのツアーに参加しなかったけれども教科書執筆をしている人が、私たちが伝えた情報をもとにして、教科書に書き込んでくれるようになりました。すると、その情報をやはり知っている文科省の検定官も、事実だと認めていますから、その記述を削れと言えなくなったわけです。こうして、日本軍の残虐行為を否定しようとする歴史修正主義が、教科書では一定程度阻止されるという状況を、東南アジアに関して作れています。
こうした私たちの取り組みに対しては、当然ながら安倍首相たち歴史修正主義者たちが、最近次々と圧力を強めてきています。それらは私たちに対する直接のものや、教科書の記述を変えさせようとするものなど、さまざまです。
けれども、私たちはそういう動きに負けるわけにはいきません。これからも明確に事実を確認しながら歴史修正主義と対決をしていくつもりでいます。
次には、そういう取り組みをしている中で生まれた和解の話題を紹介したいと思います。
発見された直後の墓 |
日本軍は戦争中に、中国系の人とマレー系の人との仲たがいの状況を深刻化させる民族分断策を占領地で実行していました。そのために、中国系とマレー系の間には戦後もしこりが残っていました。ところが、虐殺事件の再確認を進めたことが、逆に両者の仲直りのきっかけになったというエピソードです。
画面にあるのは、1984年、三十年以上前に偶然ジャングルの中から見つかった日本軍による大量殺害犠牲者のお墓です。殺された三百六十八人の遺体を仮の埋葬場所から移して、お墓も建てられていました。けれども長い間、お墓のことは忘れられ、周りがジャングルに戻ってしまっていました。写真は、そのお墓が、1984年に再発見された直後の写真です。
場所はマラッカの北のネグリセンビラン州の端のスンガイルイという小さな村です。
スンガイルイでは、当時わずかですが砂金が出ていました。その砂金を川から採取する人が集まっていて、それに合わせて商店も駅前に並んでいる、にぎやかな田舎町だったそうです。そこへいきなり日本軍が来たのです。1940年8月29日と言われていますが、突然来て村人を駅前広場に集め、中国系の人たちだけに列を作らせて、それを機関銃でなぎ倒したそうです。
日本軍がそのような乱暴なことをした理由は、その前日に日本軍が情報集めのスパイとして使っていたマレー人が、山から下りてきたおもに中国人の抗日ゲリラに殺されたという情報が入ったからでした。日本軍が仕返しのために突然やってきて、ほとんど取り調べもしないで、この地域の中国系住人を見境なく殺したということです。このことは、先ほどの「陣中日誌」にも書かれています。
似たようなことは、ヨーロッパでナチスがギリシャやユーゴスラビアでやっています。そのことは、ヨーロッパ社会ではよく知られていますが、実は東南アジアでも日本軍が同じことをしていたのです。
しかもそこでみなさんに注目していただきたいのは、マレー人を日本軍が抗日ゲリラなどを攻撃するためのスパイに使っていたことです。民族間を分断して憎しみあうような役割分担をさせていたのです。実際、この時、マレー系の人々はその広場にいても、お前たちは関係ないからどいていろと言われ、彼らの見ている前で中国系だけが無差別に殺されているのです。そういう事件でした。
そのことが、実はこのお墓が見つかった後も、マレー系と中国系が衝突しかける事件につながりました。この写真を見ると、お墓の周りの木は切り開いてあって、明るく見えます。この切り開いたところは、州政府がマレー系の農民に農地として安く払い下げてしまっていた場所なのです。
そのために、マレー系の人々は、このお墓が見つかったことで、自分たちの土地を中国系に横取りされるのではないかと心配し始めます。それくらいこのお墓再発見のニュースを知り、中国系の人が、次々と訪れていたのです。不安に駆られたマレー系の村民が、見に来た中国人に石を投げたりして、今にも民族対決が起きかねない状況にまでなったそうです。
そのために一時期ここに臨時の交番が置かれます。警察官が様子を見て中国系とマレー系の人々が衝突しそうになる時は警察官が割って入るという時期が、しばらく続いたそうです。
ところがそのうちに、マレー系の人たちもお墓の周りのそれほど広くない土地ならば、譲ってもよいと考えるようになります。宗教や民族は違っても、お墓というのは大事なものなのだから、中国系の人たちにその土地の所有権を譲ってあげようじゃないかと、マレー系の人たちの集まりの中で話し合って意見が一致したそうです。
お墓をめぐりマレー系と中国系住民が和解へ |
それで、私たち日本人までもが来るのかと言われそうなところに安心して行けるという状況になったのです。そして、なぜマレー系の人々が考えを変えたのかを、知ることができました。そのマレー系の人たちの話し合いをまとめたのが、マレー系の村の村長のムヒディンさんでした。
彼はこのときの村長ですが、実は事件があったとき十六歳でした。駅前広場に偶然居て、虐殺の場面を目撃していた人です。日本軍から、脇にどいて機関銃で中国系の人たちが殺されるのを見ていろと言われ、震えながら目撃していたそうです。
彼はそのとき十六歳ですから記憶も非常にしっかりしています。私たちがそのときの体験を直接聞かせてもらったときも、次々と残酷な場面があって、あんなにひどいことはなかったと涙を流しながら語る人でした。
そういう人ですから、マレー系の集落の中の人たちを説得し、自分たちの農地のほんの一部分を譲ることで、対決の回避を図ったのです。その後、中国系の村長の林(リン)さんと話を進め、対立の解消、和解が実現します。
私たちも、毎年の八月のツアーのたびにスンガイルイを訪問して、中国系村長のリンさんから状況を聞いていました。ある時、マレー系が土地を譲ってくれることになった、と大変うれしそうに話をしてくれました。そして今度は、土地とお墓を整備するためのお金が必要なので、カンパをあちこちに求めていると、言われました。そこで、日本人がカンパしてもいいですか、と尋ねたところ、喜んで受けると言ってくれました。次の年には、日本全国の人々に呼び掛けて集めた一万リンギット(マレーシアドル、約30万円)を渡しに行きました。
私たちが日本で集めたカンパのお金や地元の皆さん、特に村長のリンさんがたくさんお金を出しているのですが、そうした善意の資金によって、先ほどのお墓が、現在ではこのようにきれいに整備されています。
きれいに整備された墓 |
一方で。そのスンガイルイの住民を殺せと指示をした部隊の隊長の責任は、重大です。あの「陣中日誌」に詳しい記録が残っていましたから、戦争が終わった後、隊長は戦犯として裁判にかけられ、死刑になりました。
その隊長は橋本忠(ただし)少尉という広島の部隊の指揮官でした。彼は独身で妻も子供もいませんでしたが、その身内の甥に橋本和正さんという人がいます。その和正氏は、叔父の戦争責任のことを忘れるわけにはいかないと、考えていました。そして一度マレーシアの現地に行って被害者の家族にも会いたいと考えていたのです。彼は、私たちの2012年8月のツアーに参加してスンガイルイを訪問しました。そのときの様子をマレーシアの新聞が報道してくれています。
これ(右)は今年8月に和正氏が、スンガイルイをまた訪問した時のものです。今年の場合、妻と息子も同行し、家族でリン村長と再会をしました。
右からリン村長、橋本氏、妻、息子 |
三年前に初めて参加したとき、橋本さんはその殺害をした部隊の家族ですから、マレーシアで地元の人たちからどんな仕打ちをされるか実は大変心配をしていたそうです。けれども地元の人たちから、来るには勇気がいるだろうによく来てくれた、その気持ちが大変うれしいと、言われたのです。さらに、これからもぜひ繰り返し来てほしい、とも言われました。それならば、次は家族で行こうと考え、今年の八月にまた参加されたわけです。当然地元でも歓迎してもらいました。
ところで、先ほどの橋本忠少尉たちは広島の部隊だと申し上げました。みなさんは、広島なら原爆を落とされた場所だということも、お気づきだと思います。実はその原爆のために建物の下敷きになって片足を失った女性、沼田鈴子さんはやはり原爆での被害者であるとばかり言っていてはいけないと、考えていた方です。その広島の部隊がマレーシアで住民虐殺をやったのだと知り、現地に行きたいという思いをもって私のツアーに参加をしました。1989年3月のことです。そうしたところ、沼田さんはマレーシアの現地で大歓迎をしてもらえました。
沼田鈴子さん |
これは、彼女が私たちと虐殺事件のあった場所を訪問したときの写真です。あの原爆で被害を受けたその広島の部隊が、それより三年前にマレー半島で住民虐殺をやったということを高嶋に聞いた。それ以来、一度はマレーシアの人たちにお詫びをしなければ気が済みません、という気持ちが強まる一方だった。そこでとうとう実際にやって来ましたと、マレーシアの人たちの交流集会でスピーチをしたのです。それを聞いた地元の中国系の人々が、総立ちで歓迎をしてくれるという場面に私たちも立ち会えました。
この画面(下)は、あの安倍首相が否定をしようとした村山談話を村山首相が出すほぼ一年前の1994年8月にシンガポールを訪問して、先ほどのあのシンガポールの追悼碑に、日本の首相としては初めて花輪を供えたときのものです。シンガポールの新聞は大きな扱いで報道しました。
1990年7月 シンガポールの被害者の遺品の 貸出についての新聞記事 |
この画面(右)は、私の自身の行動のことですので、少し自己宣伝になります。シンガポールで殺害された人たちの遺骨と一緒に掘り出された遺品は、同じ種類のものが大部分でした。そのため大半は倉庫にしまったままになっていると、知りました。そこで、是非それらを日本の学校の教材や展覧会の展示品に貸してほしい、とお願いをしたときの新聞記事です。
そのお願いは、初めのうちは日本人にそのようなものを貸すわけにはいかないと、断られました。それでも毎年お願いしていました。すると、数年後に、それほど真剣に言うのならあなた方を信用して貸してあげる、という返事が得られました。
この画面は、実は返した時の写真なのです。この時、全部返す必要はないと言われました。そこで私たちは、日本に三十数点の遺品を残して、学校で生徒に見せたり、立命館大学の博物館に展示したりということを続けています。今日はここに十点ほど持ってきていますので、のちほど御覧いただきたいと思います。たとえばこれは眼鏡ですね。遺品の中には眼鏡がたくさんありました。やはり人々がいつも身に着けているものが、骨と一緒に掘り出されたというわけです。それらにはほとんど名前が書かれていませんから、遺族に渡すこともできないのです。
こうして、私たちは遺品を貸していただき、各地の展覧会などで展示してもらいました。大勢の人が展覧会で見てくれました。日本人の中でもこういうことに関心を持っている人がたくさんいることが、証明されたのです。
そうした多くの皆さんが協力をしてくださったのに応えて、私は全国の高等学校の生徒に学習してもらえるように、高校用の教科書に日本軍がこういう虐殺などをマレーシア各地でやったのだということを書きました。ところが、教科書検定でそのようなことは書くなという指示を出されたのです。最終的にはこのことを書いた原稿は、撤回させられました。(下)
そこで私は、文部大臣を相手に裁判(高嶋教科書裁判)を起こしました。最初の地方裁判所では私が正しく、国が間違っているという判決を獲得しました。しかし、そのあとの高等裁判所、最高裁判所では、国が無理やりつけたこじつけの理由を裁判所が認めて、私のほうが負けということになりました。
けれども実はここにある追悼碑の写真(上)は、私の代わりに原稿を出した人がまた載せてくれて、それを検定官が認めたものです。中学校の歴史教科書だけではなく高校の教科書でもこういう追悼碑の写真は載せることができています。
この会場には中国語、漢字がわかる方が多くいらっしゃるようですが、検定官が私の原稿について、一番ダメだと言ったのが、中国語新聞の見出しのこの文字です。わかりにくいかも知れませんが、「天皇」の「皇」の字に虫偏がついている「蝗」という字です。蝗(イナゴ)の大群と日本軍は同じだという意味です。日本軍が通ったら一木一草残らない。読みが同じであるだけでなく、意味が似ているというので、マレーシアの中国語の新聞では、戦時中の日本軍のことを「蝗軍」と、こういう字で表現しています。その新聞の見出しを私は教科書に載せたのです。そうしたところ、天皇を表す言葉に虫偏をつけるとは、なんて畏れ多いことをするのだと、検定官は考えたのです。そこで、絶対にこれはダメだと言ったのでした。
そういうことを言われてみて、やはり日本の保守派は天皇制を少しでもマイナスイメージにするものは許さないのだと、分かりました。ですから侵略の責任も日本の天皇の軍隊がやったことだと言われることになるから、それは許さないということなのだ、というわけです。
日本の軍国主義はやはり滅んでいないという先ほどのマレーシアの中国語新聞「南洋商報」の記事の中に、天皇の写真が載っていました。そして文部省の検定官が、中国語の新聞の「蝗軍」という文字は許せない、天皇に失礼だという発言をしたのです。この二つの話題は、現在の日本の天皇制についての問題点を共通して示していると、私は受け止めています。
今も続いている歴史修正主義の根底には、昭和天皇の絶対視がある。これが日本の軍国主義を保っている大きな要因なのだと改めて感じています。そのことに関してアジアの人々は非常に敏感です。けれども残念ながらアメリカ、ヨーロッパの方々はそれほどこのことに関心を持ってはいないように見えます。みなさんの場合はいかがでしょうか。ぜひこの観点からのご意見を聞かせていただけるように、宜しくお願いいたします。
ご静聴ありがとうございました。
(終)
―講演後に、日本軍占領時にマレーシア・ネグリセンビラン州で子ども時代を過ごしたシュエ・タク・ウォング氏(サイモンフレイザー大学名誉教授)と歴史学者ジョン・プライス氏(ビクトリア大学教授)にコメントをもらい、Q&Aの時間も設けました。それらの記録はまとめた時点で追加投稿します。
この投稿と一緒に読んでもらいたい投稿
教員として、歴史家として、人間の生き方として―高嶋伸欣バンクーバー講演報告(原京子)
高嶋道 日本軍の侵略の傷跡を訪ねて ーマレーシア・シンガポールでの掘り起こし・交流・和解ー(『東京の歴史教育』44号より転載)
シンガポール陥落の記念日(72周年)にちなみ「村山談話を継承し発展させる会」のアピール
初出:「ピースフィロソフィー」2016.02.14より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2016/02/for-74th-anniversary-of-fall-of.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5903:160215〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。