大川周明と「日本精神」の呼び出し―大川周明『日本文明史』を読む
- 2016年 3月 13日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「日本は断乎として落日の欧羅巴に対する従来の過当なる崇拝、畏怖を止め、深く日本精神に沈潜し、無限の努力によって一切の至貴至高なるものを日本の魂其ものの衷より汲取り、一貫徹底これを内外に実現せねばならない。」
大川周明『日本文明史』
1「日本精神」という語
「精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に帰り、日本精神其者のうちに、初めて長く得ざりし荘厳なるものあるを見た。」これは大川周明が『日本精神研究』[1]の「はしがき」の冒頭でいう言葉である。大川の多年の精神的遍歴の後に「日本精神」は再発見されるのである。やがて十年後の昭和の人びとの耳に猖獗をきわめるほどにこの言葉は注ぎ込まれることになるが、大正末年のこの時には「日本精神」は大川に再発見される言葉であった。「はしがき」の終わりに大川はいっている。「精神復興は、震災このかた随所に唱えらるる題目である。而も予の見る処を以てすれば、其の提唱せらるる復興策は、悉く第二義に堕して究極の一事に触れない。・・・予は予の自証する処によって信ずる、精神復興とは、日本精神の復興であり、而して日本精神の復興の為には、先ず日本精神の本質を、堅確に把持せねばならぬと。」「日本精神」が再発見されるのは、関東大震災後の「精神復興」が叫ばれる日本の社会的危機の時代においてである。
ところで「日本精神」という語を題目上に記した刊行物は、大正13年に大川が刊行したものが最初であったようである。文部省思想局によって編集印刷された思想調査資料『日本精神論の調査』[2]という冊子がある。表紙に□内に秘の字が印刷されている。「本調査は日本精神の至醇なる発揚に資せんがために、主として昭和の初より今日に至るまでの間に顕れた日本精神論の内容を調査することを目的としたものである」とその「凡例」でいっている。「日本精神」という語が標語として国民の間に急速に伝播するようになったのは、大体昭和6(1931)年秋の満州事変以後のことだと、その「序」でいっている。では「日本精神」という語そのものは、いつだれによっていい始められたのか、それを知ることは不可能であるが、しかし多少なりとも社会的影響力をもちうる刊行物の名としてその語が用いられるにいたったのは大正12,3年以前ではないと「序」の筆者はいい、刊行物の題名上に「日本精神」の語をもったものは、大川の社会教育研究所における講義録『日本精神研究第一 横井小楠の思想及信仰』(社会教育研究所、大正13年1月)が最初であろうといっている。この講義録『日本精神研究』は第九巻まで順次刊行され、後に一冊にまとめられ『日本精神研究』として文禄社から昭和2年5月に刊行された[3]。
これは「日本精神」という語の成立をめぐる十分な書誌学的研究といえるものではないが、文部省の思想統制的眼差しは「日本精神」という語の刊行物上の登場時期を大正12,3年以後としているのである。この指摘は重要である。「日本精神」という語はその登場の〈時〉をもっているのである。冒頭に引いた「はしがき」で大川は関東大震災(1923年9月)後の「精神復興」が叫ばれる時をいっていた。だがこれは大川における「日本精神」の呼び出しをあえて震災後の「精神復興」の気運に結びつけた物言いである。大川における「日本精神」の呼び出しは、第一次世界大戦後すなわち1917−20年の大川における「世界史」的危機認識の深化と〈時〉を同じくしている。「日本精神」は猶存社[4]時代の大川によってすでに呼び出されているのである。
2 「世界史」と「日本精神」
大川の猶存社時代の著作に『日本文明史』がある。これは大正10(1921)年に大鐙閣から刊行された。「総じて之を言えば、亜細亜一切の理想が、如何に日本に於て摂取せられ、日本の国民精神が、大陸の影響を蒙りつつ、如何に自己を実現して来たかを知らねばならぬ。かくて日本精神の本領を把握し、其の種々相を綜合統一して一貫不断の発展を、組織的に叙述するもの、即是れ日本文明史である」(傍点は子安)とその「序」にいうように、『日本文明史』とはすでに「日本精神」の実現の種々相を日本文明の発展史として叙述したものである。とすれば大川における「日本精神」の呼び出しをめぐる私のこの論は『日本文明史』から始めねばならないはずである。だが大川が『日本二千六百年史』(第一書房、1939)を『日本文明史』の改訂版として出版したことから、前者の影に隠れてしまって後者は容易に見ることさえできなくなってしまった。『大川周明全集』[5](第一巻)でさえ『日本二千六百年史』を載せて、『日本文明史』を割愛してしまっている。
私は国会図書館のデジタル・ライブラリーで『日本文明史』を見ることができることを知った。目次を対比しながら『日本文明史』が『日本二千六百年史』と異なる箇所を探していった。決定的に違うのは「序」以外に結論の諸章である。『日本文明史』は「第二維新に面せる日本」(第26章)、「世界戦と日本」(第27章)、「世界史を経緯しつつある二問題」(第28章)の三章を終章としてもっている[6]。この三章は全部で約40頁にも及ぶ長い論説からなるものである。だが『日本二千六百年史』の終わりには「世界維新に直面する日本」(第30章)というわずか9頁ほどの一章があるだけである。両者におけるこの違いは何を意味するのだろうか。恐らくそれは「日本精神」をいま呼び出そうとする大川における「世界史」的認識がもつ精神的緊迫度の違いである。
1920年の大川に『日本文明史』を書かしめ、「日本精神」を呼び出さしめているのは、「世界史」だといっていい。大川において「日本精神」が呼び出される〈時〉とは、「世界史」が彼に強い緊迫度をもって認識される〈時〉であるのだ。その〈時〉とは世界戦争(第一次世界大戦)がロシア革命とともに終わり、ヨーロッパ中心の世界秩序に激動が生じた〈時〉である。この〈時〉、「世界史」が日本知識人の歴史意識に〈世界史的な自己認識〉の要請とともにはじめて登場したのである。
「世界史的立場と日本」という〈悪名高い〉という修飾語が必ず付される座談会が高坂正顕・西谷啓治らによって開かれたのは昭和16(1941)年11月26日である。それは「大東亜戦争の大詔渙発に先んずる十三日」であった。「我々はもとより情勢のそれほどまでに緊迫せるを知る由もない。しかし世界の日増しに感ぜられる実にただならぬ気配は、自ら我々をして世界史とそこに於ける日本の主体的位置の問題に論議を集中せしめた。かくてその夜の座談会の記録は、後に「世界史的立場と日本」と題せられた」とその記録『世界史的立場と日本』[7]の「序」に記されている。私がここで大東亜戦争を哲学的に意義づける座談会「世界史的立場と日本」をもち出すのは、大川によってはじめて現代日本の歴史的自覚として喚起された「世界史」概念の二十年後の行き着く先を見るためだけではない。「東亜」が、そして「日本」が呼び出される〈時〉とは、「世界史」が日本知識人に呼び出される〈時〉でもあることを確認したいがためである。
大川は『日本文明史』の最終章で「世界史を経緯しつつある二問題」(第28章)を提示する前に「世界戦」(第27章「世界戦と日本」)について語っている。「世界戦」とは第一次世界大戦である。それがはじめての、日本も参戦した「世界戦」であった。この「世界戦」はヨーロッパに未曾有の物的、人的な被害と損失とを与え、ヨーロッパの世界史的な没落を決定づけるものとなったと大川はいう。「世界戦は、其の胎内に社会革命を孕み、露国の社会主義国家を生んだ点に於て、重大なる意義を有するのみならず、侵略劫奪の欧羅巴没落を暗示する新ペロポネソス戦争として、特殊の重大なる一面を有する」と大川はいっている。世界戦によるヨーロッパの世界史的な没落が、ヨーロッパ中心的な世界史に代わる真の「世界史」の立場を日本知識人に自覚させるのである。大川の『日本文明史』はこの「世界史」の最初の成立を記すものであるだろう。そして大川における「世界史」の成立の〈時〉とは、「日本精神」の成立の〈時〉でもあるのだ。「世界戦と日本」の章の末尾で大川はこういっている。
「世界戦は是れ新ペロポネソス戦争、日本は断乎として落日の欧羅巴に対する従来の過当なる崇拝、畏怖を止め、深く日本精神に沈潜し、無限の努力によって一切の至貴至高なるものを日本の魂其ものの衷より汲取り、一貫徹底これを内外に実現せねばならない。」
3 世界史を経緯する二問題
大川が「世界史」とともに呼び出す「日本精神」とは何かをたずねる前に、「世界史を経緯しつつある二問題」を見ておきたい。ヨーロッパの世界史的な没落とともに、「世界史」は大川の眼前にその顕わな姿を見せはじめた。
「世界は歴史の未だ嘗て知らざる徹底的革命に面して居る。故に数限りなき事象が、紛糾錯雑を極めて吾等の周囲に起伏する。然も其等一切の事象のうち真個世界史的意義を有するものは、まごう可くもなく唯二つである。世界史を経緯しつつある此等二個の事実を、明白確実に領会することは、取りも直さず非常なる世界変局の深層を把握する所以である。」
「世界史を経緯する」ものとは、世界史を縦糸となり横糸となって織りなすものということであろう。それは「二個の事実」だというのである。では「二個の事実」とは何か。「一は即ち諸国家内部に於ける階級争闘であり、他は即ち国際間に於ける民族争闘である」と大川はいう。世界戦の間は休戦状態であったこの二個の争闘の事実は、世界戦の終わりとともに一層深刻な姿をもって現れることになった。
「資本と労働との対抗は、今や新しき戦局に入り、二個の到底相容れざる抗争原理が、一切の狐疑逡巡を排して、最後の決戦を試宜区進みつつある。而して亜細亜に於ては、欧羅巴在来の支配に対し、亜細亜諸民族は明らかに平等と独立とを要求し始めた。」
私は今ここでひたすら大戦後の世界史を経緯する「二個の事実」を大川にしたがって記している。この「二個の事実」とは、世界戦の終わりとともに顕在化する「世界史」を構成する「二個の事実」であり、同時にそれは「世界史」的自覚としての大川の思想を構成する「二問題」でもあるだろう。
ヨーロッパ諸国における階級闘争の激化は社会革命の進行を不可避のものにしている。あらゆる軍事的干渉と介入、経済的封鎖にもかかわらずロシア革命によるボルシェヴィキ政権の確立をヨーロッパが阻止しえなかったことは、社会主義革命が「世界史」の「真個の事実」であったからである。大川はボルシェヴィキ政権による国家形成を「一個人間精力の奇蹟」として評価するのである。
「此の革命政府の業績は真個驚異に値する。そは不断に内外両面の敵に襲われ、峻酷なる封鎖の下に飢寒の極に押やられ、屢ば没落の危きに瀕しつつ、能く一切の難局を打開し、常に困難の間より新しき力を獲得し、混沌の間より強力なる政治的並に軍事的機関を設置し、終に新社会の基礎を築き上げた。そは真に仏蘭西革命の間におけるジャコビン党の業績と共に、一個人間精力の奇蹟である。」
さらにロシア革命の遂行を人類史的意義において評価する大川の言葉をここに引くことは決して余計な繰り返しではない。やがて昭和ファシズムを代表するイデオローグとなる大川の1920年における思想的な立ち位置を知るためにも重要である。
「吾等にとりて重要なることは、一個の偉大なる国民が徹底して過去の制度を顚覆し、社会主義の極端なる実行を敢てし、ブルジョアの議会政治に代うるに一個新しき政治制度を以てし、全然新しき社会秩序の創造の為に其の全力を挙げつつあると云う事実其ものである。そは確信と勇気との仕事である。而して人類の進歩を促進し激成せるものは、当に此種の確信と勇気とであった。」
ロシアに成立しつつある社会主義政権のために、これだけの言葉をもってした同時代日本からの称賛を私は知らない。『日本文明史』が大川の著作リストから外されていったのは、ロシア革命へのこの称賛のゆえかもしれない。だがここには欧米と急速に近代化を遂げた日本をも含めた先進資本主義国における社会革命を必須とする社会的危機の深刻化をたしかに見つめている眼がある。社会革命による国家的改造への志向、あるいは社会主義的国家革新への志向は、世界戦後の1920年代に成立する大川の思想の第一の構成契機である。それは「世界史を経緯しつつある二問題」の第一の問題でもある。では第二の問題とは何か。われわれはもう一度大川の世界大戦後の「世界史」認識にもどろう。「世界戦は終った」という言葉とともにいう大川の「世界史」の自覚的認識をもう一度ここで見てみよう。
「世界戦は終った。必然の進行として一時其の影を潜めたる二個の根本問題が、更に深刻なる姿を以て現れた。資本と労働との対抗は、今や新しき戦局に入り、二個の到底相容れざる抗争原理が一切の狐疑逡巡を排して、最後の決戦を試むべく進みつつある。而して亜細亜に於ては、欧羅巴在来の支配に対し、亜細亜諸民族は明らかに平等と独立とを要求し始めた。」
第二の問題とはヨーロッパの没落が必然的に世界史上に登場せしめる「アジア復興」の問題である。「アジア復興」の要求はさし当たってヨーロッパに対する政治的、経済的な自由と平等と独立の要求としてあるだろう。だが「アジア復興」がそうした要求としてあるかぎり、それはヨーロッパ近代の政治的、経済的原理の移植的再生ということにならないか。それはすでに大英帝国が植民地インドに要求している独立の条件ではないのか。だがそのヨーロッパがすでに死に瀕するヨーロッパであることを知るならば、「アジア復興」はヨーロッパの近代的原理による模倣的復興であってはならないことをも知るはずである。
「現在の欧羅巴文化の制度は、少なくも其の資本主義的産業組織の姿に於ては、最早如何ともす可からざる窮極に達した。そは晩かれ早かれ死すべくある。而して之に代わるべき制度は、露国に於て企てられつつあるものと同型の社会主義的組織か、若くは新しく而して未だ顕われざる原理の出現でなければならぬ。」
資本主義的文化、社会制度の形をとってきた近代のヨーロッパ的原理がすでに死に瀕しているならば、それに代わるものはロシアで進行しつつある社会主義的原理による国家社会の再組織化であろうか。もしそれがなお人間の将来に向けて取るべき社会救済の原理でないとすれば、われわれは「未だ顕われざる原理の出現」を待たなければならない。大川はそれを「アジア的原理」として提示するのである。
1920年のヨーロッパの世界史的な没落が大川に可能にした「世界史」的認識は〈二個の世界史的事実〉を明らかにした。「第一の事実」とはヨーロッパ諸国における社会革命、あるいは社会主義的な国家改造を不可避とするような社会的危機の深刻化に見出される事実である。これを「第一の事実」として認識する大川はロシアにおけるボルシェヴィキ政権による社会主義的国家形成を高く評価した。このことは20年代に成立する大川の思想の第一の構成契機として〈社会主義的な国家革新〉への志向があることを教えている。
大川の「世界史」的認識が指摘する「第二の事実」とは、「第一の事実」が世界史の対極に示す事実、すなわち「アジア復興」という事実である。大川のいう「アジア復興」とは、〈ヨーロッパの没落〉と世界史的に対を為す〈アジアの復興〉をただ意味するのではない。それは〈ヨーロッパ的原理〉とは異なる〈アジア的原理〉による「アジア復興」である。「アジア復興」という「第二の事実」はヨーロッパ諸国における社会主義的革新を不可避とする「第一の事実」と対をなすというよりは、むしろそれを内包している。20世紀の「世界戦」後の「アジアの復興」すなわちアジアの新国家の建設、あるいは既存国家の再構築は〈アジア的原理〉による〈革新的復興〉でなければならないからである。
「アジア復興」という「第二の事実」は大川の思想を構成する〈アジア主義〉というか、〈ヨーロッパ近代のアジア主義的超克〉という思想契機を教えている。大川における国家の社会主義的革新は〈アジア的原理〉による革新、あるいは〈アジア主義〉的な〈ヨーロッパ近代の超克的革新〉でなければならないのである。では大川における〈アジア的原理〉とは何か。
4 〈アジア的原理〉は世界を救うか
近代の〈ヨーロッパ的原理〉[8]が社会的格差の拡大と階級対立の激化、そして最後には世界戦争に至り着く形で自らを否定してしまった後に、〈社会主義的原理〉という人間社会救済のための方程式が提示された。大川はこれを「第二の方程式」という。
「かくて今や第二の方程式が提示された。そは自然の不平等の裡に、理性と科学との力によって出来る限り絶対の平等を実現せんとするもの、共同生活に於て出来る限り絶対に労働を平等にし、利得を平等にせんとするものである。」
大川は「第二の方程式」をこのように定義しながら、はたしてこれが人間社会救済の方程式として成功するかどうかは疑問であるという。ソ連における社会主義が人間疎外の、人間精神の抑圧的システムとして成立したことをすでに知るわれわれにとって以下に引く大川の言葉はある重みをもっている。その重みは大川の思想の先見性というよりは、彼における〈アジア的原理〉の選択がもつ重みであるだろう。
「第二の方程式が第一よりも成功するや否やは、大なる疑問である。何となれば此の方程式は、当初は唯だ最も苛酷なる強制によってのみ支持せらるべく、少なくとも人間は一時その自由を奪われねばならぬ。加うるに第二の方程式の提示者は、精神に於て実現せられざるものは、之を生活に実現することが出来ぬと云う根本の困難を無視して居る。人は其の精神に於て自由であり、平等であり、融合がある時にのみ、初めて生活に於ても自由・平等・友愛を実現し得る。そは可変不定なる、而して稟賦と本能とによって常に左右せられ勝なる思想や感情の能くする所ではない。之が為には深刻徹底せる魂の革新を必要とする。欧羅巴は、漸く此の必要を認め初めた。然も今日に於ては、彼等の主力は、尚お合理的方式と器械的能率の発見及び実現に傾倒されて居る。」
ヨーロッパがいま初めて魂の革新とともに要請する「精神における自由も、平等も、融合も」アジアがその精神の内部で一切の努力を傾注してきたことではなかったか。だが「亜細亜は、従来欧羅巴の如く社会的進歩の為に全力を傾倒したことがない。その至高の努力は実に内面的・精神的自由の体得に存し、且之によって偉大なる平等一如の精神的原理を把握した。而も亜細亜は、此の原理を社会生活に実現する為に努力することなかった」のである。
大川は「世界戦」後の世界史を経緯する「第二の事実」としての「アジアの復興」を提示した。その「アジアの復興」はアジア主義的復興としてはじめて世界史的意義をもつとされた。アジア主義的復興とは〈アジア的原理〉による新しい世界、新しい人間社会の革新的創成である。だがそれはアジア主義者の抱く空しい願望に過ぎないのではないか。なぜならアジアはひたすら精神の内面における絶対的平等と無限的融合に全力を傾注してきたからである。アジアは自らの精神的原理を現実世界に実現するための努力をすることはなかった。〈アジア的原理〉による「世界史」的革新とはアジア主義者の願望に過ぎないのか。大川は「吾等が抱懐し得る最大の希望である」という。
「亜細亜は、欧羅巴の経験せる産業制度、その第一相としての資本主義、その第二相としての社会主義を模倣するかも知れぬ。されど若し斯くの如くんば、亜細亜復興は、人類の努力に何等新しきものを加えぬことになる。又は復興の亜細亜と革新の欧羅巴との融合が、両者の最高の理想ーー内外両面の自由・平等・友愛を実現す可き真個の組織を生むかも知れぬ。然り、之れ実に今日吾等が抱懐し得る最大の希望である。」
〈アジア的原理〉による「世界史」的革新が、アジア主義的革新者大川によるただの〈希望の表明〉にとどまるかと思われるその時、はじめて「日本」が登場する。〈アジア復興〉の切り札として「日本」が呼び出されるのである。「日本」がどのように呼び出されるか、『日本文明史』の最終節の言葉によって見よう。
「此の如き世界史の偉大なる転換期に於て、日本の地位は真個特殊のものである。そは亜細亜に於て名実共に独立を保持し来たれる唯一国であり、欧羅巴の制度を採用して其の社会を組織せる唯一国である。
日本は、欧羅巴の社会制度を踏襲したるが故に、その経済組織に於て必然資本主義の確立を見た。而して資本主義は世界戦争中に於て最も著しき速度を以て発達した。日清日露の両役によって、日本が武力的に欧州列強と同位に進んだとするならば、世界戦によって、日本は初めて欧米と伍し得べき資本主義的発達を遂げたと言い得る。故に今日日本に於て見る社会不安は、程度の差こそあれ、本質に於ては西欧のそれと同一のものである。
さり乍ら、日本は此の問題を西欧に模倣して解決すべきか、西欧の社会主義を如実に借用して、新しき日本を組織す可きか。吾等は断じて否と答える。吾等は亜細亜精神の権威によって、日本の改造は、単なる西欧の卑しむべき模倣であってはならぬと断言する。
日本は亜細亜国家として、亜細亜本来の魂の自由、平等、精神的統一を、千年に亘りて鍛錬して来た。而して亜細亜に於て日本のみが、西欧の科学的知識を咀嚼し消化した。同時に日本のみが、断乎たる独立国家として、自由に創造の大業に従い得る地位に在る。
故に革命欧羅巴と復興亜細亜とが、来るべき世界史の経緯であるならば、その第一頁を書くものは日本でなければならぬ。」(『日本文明史』第28章「世界史を経緯しつつある二問題」12)
〈革命ヨーロッパ〉と〈復興アジア〉とを「世界史の経緯」として見る大川によって「日本」は「世界史」の新たな一頁の書き手として呼び出された。その時、大川は明らかにアジア主義的革新者であった。だがこの「日本」が「世界史」の主題的意味をもって、そして「アジア」の盟主の位置から語り直される時、大川はもはやアジア主義的革新者ではない。その〈時〉は、もうすぐそこにまで来ている。
[1] 大川の『日本精神研究』は昭和2(1927)年に行地出版部から出版された。私が見ているのは明治書房刊の普及版(1939)である。なお大川の著書からの引用に当たっては、漢字・かな表記は現行の用法に従っている。大川以外の著者の場合も同様である。
[2] 『日本精神論の調査』文部省思想局、昭和10年11月、思想調査資料特輯。
[3] 社会教育研究所刊の『日本精神研究』は講義の順序に従い、「横井小楠の思想及信仰」(第一)、「佐藤信淵の理想国家」(第二)、「平民の教師石田梅厳」(第三)、「純情の人平野二郎国臣」(第四)、「剣の人宮本武蔵」(第五)、「近代日本の創設者織田信長」(第六)。「上杉鷹山の政道」(第七)、「戦へる僧上杉謙信」(第八)、「頼朝の事業及び人格」(第九)の9巻からなっている。これは単行本『日本精神研究』の目次をなすものである。
[4] 大川は満川亀太郎らとともに大正8(1919)年8月に、「中原還鹿を逐い、筆を投じて戎軒(軍事)を事とす、縦横の計就らざれども、慷慨の志猶存す」の気概をもって猶存社を結成した。日本国家改造の具体案をもつ北一輝を上海から呼び戻し、大川・満川とともに三位一体的組織を構成した。同人には鹿子木員信、安岡正篤、西田税らがいる。
[5] 『大川周明全集』全7巻、大川周明全集刊行会、岩崎書店、1961−70。
[6] 『大川全集』は『日本文明史』の結論のこの三章だけを第四巻の「時事論集」に収録している。
[7] 高坂正顕・西谷啓治・高山岩男・鈴木成高による3回の座談会、「世界史的立場と日本」「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」「総力戦の哲学」の記録は『中央公論』(1941年1月、4月、1943年1月)に掲載された後、『世界史的立場と日本』にまとめられ、中央公論社から昭和18(1943)年3月に公刊された。引用文中の傍点は子安。
[8] 近代の〈ヨーロッパ的原理〉による資本主義的社会の成立を、大川は人類に提示された社会革新の「第一の方程式」としている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.03.11より許可を得て転載
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〔study712:160313〕
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