社会理論学会第112回月例研究会のご案内
- 2016年 3月 18日
- 催し物案内
- 社会理論学会
日時:2016年4月23日(土) 14:00~17:00
13:10より編集委員会・理事会があります。(参加者は事前に昼食を済ませておいてください)
場所:渋谷区笹塚区民会館4階和室
【会場案内】
渋谷区笹塚区民会館
〒151-0073 東京都渋谷区笹塚 3-1-9
・区民会館は催し物に関する質問にはお答えできませんので、会場への電話問い合わせはご遠慮ください。
・会場は駐車場がありませんので、自動車での来場はご遠慮ください。
案内図:https://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sasazuka.html
会場費:無料
報告者:日山紀彦(社会理論学会顧問)
タイトル:『資本論』に帰れ:「生産価格」における「価値」表示
─「価値の生産価格への転化」とはどういうことか─
概要:
〔はじめに〕
わたしの現在の主要研究テーマは、『資本論』を「マルクスに帰って」、物象化論を視軸に読み解き直すということにある。さしあたっての焦点は、異種の諸具体的有用労働が、資本制商品世界における諸商品の価値実体としての社会的単位労働たる“抽象的人間労働”へと還元・換算されるのはいかにして可能か、その論理の討究にある。
本日の発表は、この問題へのアプローチのための一つの手がかりとして、件の“『資本論』における「第Ⅰ巻と第Ⅲ巻の矛盾」”を中心にして、『資本論』読み解きのプロブレマティック(問題のありか・なりたち・構成etc.)を浮き彫りにすることにある。
〔Ⅰ〕問題のありか
(A)第Ⅰ巻(「労働価値説」)と第Ⅲ巻(「生産価格説」)との矛盾というのは、以下のような問題構制において提示されたものである。すなわち、伝統的なあるいは正統的な解釈においては、マルクスも明言しているように(?)、『資本論』のⅠ・Ⅱ巻で展開されている「価値法則」ないしは「労働価値説」は単純商品世界において妥当する法則であって、Ⅲ巻で対象となる資本主義的商品世界においては妥当しない。資本制商品社会において妥当するのは「生産価格法則」である。これが、マルクス・エンゲルス・ヒルファーディング等の言説に依拠する「公式的見解」である。
これは、驚くべき、というより衝撃的な事態である。われわれは何のためにⅠ巻の「価値論」を読み、これをマルクスによる資本主義社会の分析の基礎理論として受け入れてきたのか。
これまでの長期に渡る様々な議論・論争においてもこの問題の決着はついておらず、マルクス「価値論」のⅢ巻における有効性・妥当性の問題は、今日では論じられることは殆んどなく、あっても副次的な問題としてあいまいなまま扱われるか、敬遠されているのが実情といってもよい。
今日のマルクス「労働価値説」・「価値論」の低迷・衰退は、一つはこの問題に由来するものともいえる。
(B)マルクスの言説
・「こうしてわれわれは、すでに次のことを明らかにした。─すなわち[Ⅰ巻の「価値論」では]異なる産業部門においては、諸資本の有機的構成の相違に対応して、また前述の限界内では諸資本の回転時間の相違にも対応して、不等な利潤率が支配するのであり、それゆえまた、同じ剰余価値率のもとでの同じ有機的構成の諸資本にとってのみ─同じ回転時間を前提すれば─利潤は諸資本の大きさに比例し、それゆえ同じ大きさの諸資本は同じ時間内には同じ大きさの利潤を生む、という法則[Ⅰの「価値法則」]が(一般的傾向から見て)妥当すること、それである。ここに展開されたのは、諸商品が価値どうりに売られるという、一般にこれまでわれわれの基盤であったもの[Ⅰの「価値法則」]にもとづいて言えることである。他方[Ⅲの「生産価格法則」においては]、非本質的な、偶然的な、相殺される諸区別を度外視すれば異なる産業部門にとっての平均利潤率の相違は、現実には実存せず、また、この相違[利潤率が産業部門によって異なるということ]は、資本主義的生産の全体制を廃棄することなしにはありえないであろうということは、少しも疑う余地がない。したがって、[Ⅰの]価値理論はここでは現実の運動と一致しえず、生産の実際の諸現象と一致しえないかのように見え、それゆえ、一般にこれらの諸現象を把握することは断念しなければならないかのように見える。」(Ⅲ:「第二篇 利潤の平均利潤への転化」、S.162.)
・「したがって、価値どうりの、または近似的な価値どうりの諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換に比べれば、それよりはるかに低い段階を必要とする。……/したがって、価値法則による価格および価格運動の支配は別にしても、諸商品の価値を単に理論的にだけでなく歴史的にも生産価格の“先行者”とみなすことはまったく適切である。」(同上篇、S.186~87.)
「右のこと[Ⅰの「価値法則」]は、生産諸手段が労働者のものである状態について言えるのであり……」(同上)
(C)エンゲルスの言説
「ひとことでいえば、マルクスの価値法則は、おおよそその経済的諸法則が妥当する限り、単純商品生産の全期間にわたって、したがって、資本主義的生産形態の登場によって単純商品生産が変化をこうむるときまで、一般的に妥当する。そのときまで、価格は、マルクスの法則によって規定される価値のほうへ引き寄せられ、価値を中心に変動し、その結果、単純商品生産が十分に発展すればするほど、それだけますます、外からの暴力的攪乱によって中断されない比較的長い期間の平均価格が、価値との差が取るに足りない商品に転化される交換の最初から一五世紀にいたるまでの期間にわたって、経済的一般的妥当性をもっている。……したがって価値法則は、五〇〇〇年から七〇〇〇年の期間にわたって支配してきた。」[資本主義体制の現今下では違っている、ということ](Ⅲ.エンゲルス「『資本論』第Ⅲ巻への補足と補遺」、S.909.)
(D) 「バヴェルクVSヒルファーディング」論争
・いわゆる「価値論論争は、限界効用学派のBöhm-Bawerkのマルクス批判(Zum Abschluss des Marxschen Systems, 1896)とりわけ「第一巻と第三巻の矛盾」として提起した問題にはじまる。バヴェルクはいう。マルクスがⅢ巻でいうように、生産価格が商品生産物の現実の価格の基準であるならば、それに先行してⅠで説かれる生産物の等労働量交換を内容とする「価値法則」との不一致はどうなるのか、「価値法則」にはどのような理論的・現実的妥当性があるのか、破綻しているではないかと。
・これに対してHilferdingは、1904年の著述(Böhm-Bawerks Marx-Kritik)のなかで、先に掲げておいたエンゲルスの「第三巻への補足・補遺」を承けて、“価値法則は、資本主義に先立つ独立小商品生産者の生産物の交換に妥当し、資本主義の発展にともない生産価格に転化する”という、いわゆる「歴史的・論理的展開説」をもって反論。
→マルクス学派の正統的解釈へ
*各々の文献からの引用は略。
cf. スウィージー『論争・マルクス経済学』法政大学出版局、1969.(両者の論文を含む)
(E)論争の展開─戦前・戦後の内外の「価値論論争」さらにはマルクスの総計一致命題をめぐる「転形論論争」において様々に論じられてきたが、確固たる答は出ていない。
*戦前・戦後の「価値論論争」および「転形論論争」の整理および文献等は略。
〔Ⅱ〕関連する諸問題(概要)
われわれが企図するものは「価値価格の生産価格への転化」の論理と「生産価格」の表示する〈価値〉概念の弁証法的再措定の内実の解明である。それは同時に、「生産価格」における異種の具体的有用労働(相互に通約不可能)の「価値の実体としての社会的単位労働たる〈抽象的人間労働〉」への社会的還元の論理の究明が軸となる。この作業によって、〈抽象的人間労働〉の特殊歴史社会的な存立の機制と構制が明るみにもたらされるであろう。しかしながら、そのためには、これまで不当に看過ないし軽視されてきた以下のいくつかの問題群の討究が、不可避の前提作業として必要である。簡潔にそれを提示しておく。
(A)『資本論』における〈価値〉・〈抽象的人間労働〉をめぐる概念規定の齟齬。
自然的実体説─生理学的エネルギー支出説:理論的抽象化の産物、実体概念、超歴史的カテゴリー
社会的実体説─一分子の自然的要素を含まない幽霊のような対象性説:社会的抽象化の産物、関係概念、歴史的カテゴリー
cf. マルクスは「生理的エネルギー説」を〈抽象的人間労働〉の規定においてのみならず〈具体的有用労働〉の規定にも用いている。
(B)「商品等価交換」規定における齟齬。
等価値(等労働量)→交換的等値(等価交換)(等価値は等価交換の前提)
交換的等値(等価交換)→等価値(等労働量)を産出(等価値は等価交換の結果)
*各々の文献からの引用は略。
(C)〈抽象的人間労働〉の産出・具現をめぐる運動過程の規定の齟齬。(Bの齟齬に関連)
生産過程説
交換・流通過程説(こちらの規定のほうが多い)
*各々の文献からの引用は略。
(D)〈抽象的人間労働〉は諸種の具体的有用労働の外在化Entäußerungの産物とはどういうことか(『批判』におけるフランクリン批判、『1861~63ノート』におけるスミス、リカード批判) *各々の文献からの引用は略。
cf. 社会的必要具体的有用労働a(織布労働1時間)と同b(裁縫労働1時間)は通約不可能、共約性はない。両者の還元・換算率は「1」とは限らない。両者はいかにして還元・換算されるのか。
cf. 具体的有用労働時間は「自然的時間」、抽象的人間労働時間は「社会的時間」
(E)〈抽象的人間労働〉は、それ自体、不可視・計量不可能な社会的実体(社会的抽象態)であって、その可視化・計量化は貨幣による価値表現をもってはじめて可能になるとはどういうことか。マルクスのいう「労働と貨幣との内的関連」とは?
・「一般的労働時間[抽象的人間労働時間]そのものは一つの抽象であって、それはそういうものとしては諸商品にとっては実在しないのである。」(『批判』)S.31.
・「価値の尺度としての労働時間[抽象的人間労働時間]は、ただideal(理念的・観念的)に存在するだけなのだから、価格の比較のための材料としては役に立つことができないのである。」(『要綱』)MEGA.Ⅱ-3-2, S.369.
・「なぜ貨幣は直接に[抽象的]労働時間そのものを代表しないのか、……なぜ私的労働[具体的有用労働]は直接に社会的労働[抽象的人間労働]として、つまりその反対物として取り扱われないのか……」(『資本論』Ⅰ.S.109.─マルクスのプルードン流の、あるいはグレイの「労働貨幣」批判、「浅薄なユートピア主義」批判の要点)、関連文献略
cf. 「価値と生産価格」という表現は「価値価格と生産価格」という表現に訂正すべし!
cf. 価値は価格でしか表現できない。両者は次元が異なる。
(F)マルクスの強調する「商品・価値・貨幣は物ではなく社会関係である」とはどういうことなのか(各著述・ノート等に頻出、引用略)
cf. 関係概念としての諸カテゴリーにして、かつ全体概念としての諸カテゴリー
(G)マルクスにおける〈Sache〉と〈Ding〉(両者『資本論』でも多併用)の概念規定上の差異をどうみたらよいか。今日では、それらは〈物象〉と〈物〉という訳語が定着しつつあるようではあるが、それらはどう違うのか。
cf ①;〈物的実在性〉の規定をめぐるヒュポダイム・世界観上の地平の違い。
(前回の発表を参照)
cf ②;〈Versachlichung〉(物象化)と〈Verdinglichung〉(物化)の違いとその意味と意義。因みに、マルクスはこの二つの用語はごくまれにしか使っていない(『ドイデ』以降、前者16回、後者3回)。『資本論』における〈Versachlichung〉は一回のみ(Ⅰ.S.128. “Personifinierung der Sache und Versachlichug der Personen”)
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