病気に気づく-はみ出し駐在記(87)
- 2016年 3月 22日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
あと一週間もすれば今年も終わり。シカゴ事務所の二人もニューヨークに戻って、みんなそろってギリシャレストランでクリスマスパーティーを兼ねた忘年会だった。
レストランに入るなり、社長から「もうすぐ三年になるけど、帰ってもしょうがないだろうし、当分こっちにいるか?」と訊かれた。口ぶりから、日本本社との話はついているのが分かる。言われる通りで、日本に帰ったところで何もない。「そうですね、その方がいいです。NYにいます」と答えていた。島流しのままにしておいた方が、されたままでいた方がいい人間だった。
シカゴ地区はY先輩が一人で十年近く切り盛りしていた。ニューヨーク支社の顔だったY先輩が夏の終わりに帰任した。そのあとを、ニューヨークからM先輩と若手駐在員の二人がシカゴに引っ越して引き継いだ。Y先輩の時代が長すぎたこともあってか、M先輩が慣れないところで苦労していると聞いていた。半年ぶりに会って、疲れた様子もなく、何も変わっていないのにほっとした。職人気質で多少荒っぽいところがあるが、面倒見のいい人で、シカゴに転勤されるまでお世話になりっぱなしだった。
散々食って飲んでわいわいやった後、有志そろってお決まりの「横浜」にくりだした。人数が減ったこともあって、M先輩との距離がちぢまった。M先輩がこっちの顔を見るなり「お前、なんか変だ。何だか分からないけど、なんかおかしい。早々に医者に行って来い」M先輩の指示とはいえ、医者に行くのは面倒だし、それはないだろうといい顔をしなかった。それに気付いて「いいか、お前、絶対何かおかしい。今年中に医者にゆけ、分かったか」飲みながらたわいのない話になっては、また「医者に行って来い、分かったか」と念を押された。
そうは言われても、なんの実感もない。元気も元気、元気すぎるほどだった。今年の大みそかは、上司のお誘いを断って、一人でマンハッタンにでかけて馬鹿騒ぎしようともくろんでいた。駐在した途端、上司のお宅で「紅白歌合戦」を見ながら、新年を迎えるのがお決まりのようになっていた。一人者が一人で寂しく新年、と気にかけて頂いていて感謝しなければならないのだが、一人の方が気楽だった。好きでもない「紅白歌合戦」に気をつかう人間関係、できればお断りしたかった。
M先輩がああまで言うのだから、何か変なのかもしれない。でも自覚症状はないし、事務所では誰もそんなことを言ってこない。食欲はありすぎるほどあるし、元気だった。もう二十代も後半なのに「さっぽろ」で、ごはんを七杯もおかわりしたほどだった。朝から晩まで、いい歳をして食欲旺盛で腹が減ってしょうがなかった。悪いところなんかあるわけがない。
年内にと言われても、もうクリスマスで病院の救急ならいざ知らず、開業医でやってるところなんかありゃしないと思いながら大家に相談した。大家が簡単に予約してくれた。クリスマスに関係のないユダヤ系の医者がいた。
何もありっこないと思いながら、医者に行って健康診断のようなチェックの後に目を測られた。眼球が出てきていると言われ、病名を告げられた。血液検査もなしで、そんなに簡単に分かるものなのかと思いながら、その病気はいったい何なのって訊いた。「ハイパーサイロイ」と病名を言われても分からない。医者と弁護士は専門用語が多くて、辞書を片手にでもよく分からない。
椅子に座ってくつろいだ状態なら、一分間に七八十くらいの脈拍が多すぎて測れない。多分百三十は超えていたのだろう。このまま放っておくと心臓に負担かかかりすぎて危険だ。軽い事務仕事もよくない。症状を抑える薬を出すから、薬を飲んで家で新聞でも読んでいるように、車の運転も極力控えるようにと言われた。寝耳に水だった。こんなに元気なのに、病気?
ちょっと面倒なことになったのは分かるが、英語で言われて病名すらよく分からない。夜にオヤジに電話して医者に言われたことをざっと伝えたら、「甲状腺機能亢進、ようはバセドウ病だ。死にはしない。心配するな。まあ、ちょっとおとなしくしてるんだな」と言われた。オヤジは東京の郊外で内科の開業医をしていた。
なんてこった、せっかくマンハッタンで、一人でNew Year’s Eveだと思っていたのに。翌日、事務所に出て、病名と医者に言われたことを伝えた。出張どころではなくなって、事務所で軽い事務仕事、倉庫で入出荷の手伝いをするしかなくなった。
オヤジに訊いて、そう言われれば症状が結構あったことに気が付いた。食べても食べても太らない体質だったが、その頃は食べても食べても体重が減っていった。言ってみればエンジンの空ぶかし状態で、体力を保つことさえ難しくなっていた。清涼飲料水のボトルのキャップを開けられなくて困っていた。アルミ製キャップの何か所かでつながっているところを切る力がでなかった。客先で「はんだ」付けが上手くゆかなかった。なぜだろうと思っていたが、要は手先が細かく震えていて、溶けた「はんだ」が固まるまで保持できなかったからだった。よく見れば、立った状態では、脚の筋肉が落ちているからだろう、体全体にも震えが出ていた。脈拍が早くなった分、話すのも早くなっていた。もともと東京の下町の人間で早口だったが、気が付けば日本語でも英語でも、自分でもここまで早くなるかというほど早くなっていた。
定期的な健康診断でもあれば、そこまで症状が悪化する前に分かるだろうが、そんな気のきいたもの、駐在員にはなかった。症状が進んでいたからかだろう、薬を飲み始めても、なかなかよくはならなかった。腹が減って減って、外食では間に合わなくなった。電気釜を買ってきてごはんを炊いて、カレーやステーキ、肉野菜炒め。。。を作り出した。夕方、三合炊いてぺろっと食べてしまう。それでも二時か三時には腹が減って目が覚めた。寝ようとするのだが、空腹で寝れない。こんな時間にと思いながら、ダンキンドーナッツかダイナーに出かけた。
昼食をしっかり食べても夕方まで持たない。事務所の冷蔵庫に大きなレアチーズケーキを何個か丸ごと入れておいて、夕方になるとそれで空腹を凌いだ。General Affairsのおばちゃんは、昼ごはんはサラダだけという厳しいダイエットしていた。腹がすくのだろう、チーズケーキをムシャムシャやっているのを恨めしそうに見ていた。申し訳ないと、気にはなるが、食べなければ筋肉の落ちた脚がよろよろしだす。おばちゃんも大きな体にサラダだけじゃもたない。何度かチーズケーキを一切れというのがあった。カロリーも何も気にすることなく、食べたいものを食べたいだけ食べられる。病気としては恵まれた病気なのかもしれない。
それにしても、食べても食べても腹が減る。自然の摂理で入れれば出る。食べたものがろくに消化もされずに体の中を通って出てゆく。食べるのも忙しいがトイレはもっと忙しい。出たものを見れば、さっき食べたものが小さくなっているのが見える。赤いものが散っているのを見たときは、まさか出血?と慌てたが、よく見たら、さっき食べたカレーに入れた冷凍野菜の人参だった。食べてちょっと経てば食べたものを確認できる。確認するのが習慣のようになってしまった。
つけたばかりのトイレットペーパーがあっという間になくなってしまう。出張が多かったこともあって、買った記憶すらないトイレットペーパーをなんども買うことになった。ついこの間買ったのに、また買ったときは、なんだか分からない笑がこみ上げてきた。食って出して、生きてる実感といえば、確かに実感なのだが、オレはいったい何やってんだろうって。
最悪のときは、一週間で五キロ以上体重が落ちた。そこまでゆくと、ズボンを保持できない。ベルトをするのが面倒でスーツのズボンもスラックスもベルトレスだった。そのまま歩くとズボンがずり落ちる。しょうがないから、両手をポケットに入れてズボンを抑えながら歩いた。
このまま薬で抑えていっても、仕事をできるようにはならないのがはっきりしていた。ニューヨークで手術したら、後の面倒を見る人がいない。薬で症状を抑えて、早々に日本に帰るしかなくなった。もうちょっといようかと思ってはいたが、何年いたところで、今までやって来たことの繰り返しにしかならない。やりそこなったことも多いし、思い残すことも多いが、もういいだろう、はみ出しも潮時だった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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