異論なマルクス 資本は労働価値説を欲するか?
- 2016年 3月 26日
- スタディルーム
- ブルマン!だよね
まず表題の労働価値説のほうから、議論したいがそのきっかけに、中野「かまってちゃん」@貴州さんからのコメントにお答えし、その流れで論題の前半に入っていきたい。
中野さんの指摘は、基本的にミクロ経済学の短期供給曲線と長期供給曲線の関連1)についての、教科書にもある初歩の理論に基づいているのだが、それと、生産に用いられた技術の投入係数という、「客観的」条件によって需要の契機とは無関係に、均衡価格が一意的に決定されるという、客観価値説とがどう関わりあうというのか、そこに何か行き違いがあるのではないか。
1) 例えば、ロビン・ウェルズ、ポール・クルーグマン大先生「ミクロ経済学」
東洋経済新報社 P264-P267
神取道宏 「ミクロ経済学の力」日本評論社 P163-P168
など参照のこと。両書とも、身近な例解を手際よく導入して、明快な論旨の好著。
なお「ミクロ経済学」のほうは、「入退出の基準」を、「利潤」としているのに対して、「力」のほうは、「超過利潤」としていて、二つは全く同じことをさしているのだが、アングロサクソン本場の教科書と、この国のそれとの対照が面白い。彼の地のほうは、やはり限界生産力説=能力主義が社会的に徹底しているのに、この国ではそこまで明け透けに語れない差異なのかとも、あて推量もしたくなる。「ミクロ経済学」では長期均衡価格は、利潤ゼロ水準に収束する、と記述されていて、誰しも「そんな馬鹿な!」と取っ付きでは不審に感じること間違いなしだろうが、企業の収入はすべての生産要素の限界生産力に比例した収入に分解しつくされる、といっているわけだ。このうち資本財への収入が、通常言われる「利潤」にあたる。
このときのミクロ経済学の論理の大雑把な道筋は、通常の右肩上がりの短期の供給曲線(水平ではない)を持つ企業群が、短期均衡価格から生じる超過利潤や損失によって、当該産業部面で入退出するから、長期には超過利潤の消失した、長期平均費用の最低値と等しい均衡価格が、産業の規模に関わらず成立する。そこから見ると、長期の供給曲線は水平になる、というもの。これは個々の企業は、右肩上がりの供給曲線を維持したまま、産業全体としてそうなる、ということであるが、中野さんはこれをもって、何を主張したいのか。単にこのコンテキストで、産業全体としてみると、長期では水平の供給曲線は一般的であるというのなら、全くそのとおりで異論はない。が、これでミクロ理論も客観的価値説である、とするならそれは筋違いの議論だろう。このミクロ理論では「完全競争かつ各企業は全くのプライステイカー」という前提条件が置かれていて、ようは、価格は用いられた技術係数から一義的に決定できる、という客観価値説の主張は全くなりたたない条件下のものではないか。この意味での客観価値説からいえば、短期も長期もないのである。
このように、解きほぐすと、中野さんは当然「ミクロ理論が客観価値説であるとは、いっていません」と反論されるだろうが、この長期供給曲線の話をこの場面で持ち出すのは、すじ道をきちんとたどると、こういう妙な主張をしていることに行き着く。
ったく、「かまってちゃん」もよいが、なんだか毎回毎回、出てくるたびに叩かれているような・・・。そっか、本日をもって、改め「サンドバッグ中野」を名乗るのがヨロシ(獏藁
さって、おちゃらけ前振りはこれくらいにして、本題に入ろうか。これは、札幌のサルさんからの私宛の投稿に、答える含みも持たせている。もっとも、私宛になってはいるが、内実は小幡氏へのものなので、それに代わって答えるということは当たり前だが、ありえないので、私自身の考え方をしらっと以下開陳するほかない。
マルクス経済学では、労働価値説に依拠して、価格理論と搾取理論を説くのが当然とされて来ているが、資本論のように、冒頭商品論で商品相互の等値関係から価値実体を人間労働に還元してしまうのは論外としても、そうした行きかたを退けて、商品による商品の生産が徹底する、資本の生産過程で始めて解き明かしうるのだという、宇野弘蔵以来の方法に陥穽がないかどうか、改めて吟味してみる価値はあるだろう。労働価値説なのだから、生産関係が明らかになった時点で説くのは当然過ぎるほど当然ではないか、と宇野学派の面々からは、反駁されるのは火を見るより明らかだが、そこにはマルクス経済学は労働価値説に依拠するものだとして、惰性的に受け入れてしまう知的な態度がある。
これは私一人の感想なのかもしれないが、なんど資本論冒頭の価値実体還元のくだりを読んでも、なにかすっと頭に入っていかない、もどかしさを覚えるのだが、なんといってもそれは、古今並ぶものなき大論理家のマルクスが、その膂力を余すところなく動員して、商品を梃子万力でこじ開け分析し、かくして価値実体を抽象的人間労働にもとめるという、その操作のあざとさが癇に障るからなのだと、あるときから思い至るようになった。手短に言えば、マルクスの強力な思弁によって、労働価値説は外部からもたらされた、そういう印象を強く持たされてきたのだ。- Who ordered such a damned junker?
宇野弘蔵が冒頭価値実体論を退け、商品から貨幣の資本への転化までの、資本の生産過程に至る直前までの領域を流通形態論として純化したことで、商品流通を形成する商品・貨幣・資本の流通形態は、価値実体による直接無媒介の規制というくびきから解放され、個別無政府性という「本性」を、容赦なく発揮する事態を迎えた。
かく流通論を押さえた時、さて資本は労働価値説を欲するのであろうか、とようやく表題のテーマにたどり着くこととなる。依然として、資本に対して外部から、資本にとっては招かざる客=労働価値説を覆いかぶせ、なんとかその個別無政府性を手なづけようとする操作に陥っていないだろうか。
宇野自身の原論でもそのことが端的に露呈している。そこで示される流通形態としての資本が産業資本へ転化していく必然性とは、資本論の説くところの、労働実体に規制される流通を前提しては、流通の原則に違反する以外には価値増殖が困難であることから、それを突破する唯一の商品である労働力の売買を過程に包摂する資本、すなわち産業資本形式が導出されるのだという論理構成と余り選ぶところのない、流通形態にとどまる限りの資本の価値増殖は、等価交換という商品流通の原則に反するのだという指摘を介して、五十歩百歩的論証が試みられていた。
それに対しては、商人資本形式および金貸資本形式の資本の商品流通界への外的な働きかけによる価値増殖が、資本とはそれ自身の前貸し金額と前貸し期間に比例して自己増殖する価値の運動体であるという、いわば理念体に未だ至っていない限界を示すこととなっており、それを根本的に突破する新たな資本形式を、
いまや次のよう新たな資本形態への要請が定立されている。すなわち、自らの過程を通して商品世界の全体を再生産し、それによって商品世界を統一的な価値関係を持った単一の商品世界として設定するとともに、みずからの資本としての内的な価値増殖をも達成する資本形態が、それであって、もはやそれは、産業資本、すなわち、あらゆる社会の普遍的実体をなす労働生産過程を自己自身の生産過程としてその内部に包摂する資本、以外にはありえない。2)
と産業資本形式に求める、論理構成が示されてもいた。
2) 岩田弘「マルクス経済学(上)」風媒社1972 P94-P95
同様の記述が鈴木鴻一郎編「経済学原理論(上)」東京大学出版会 P89に見られ
るが、こちらはさらに商品の使用価値と価値の対立と止揚という、弁証法的論理が際立っている。
が、どうだろうか。商品経済の等価交換の原則に反するにせよ、自己増殖する価値の運動体としての理念が未完であろうと、そんなことを個別無政府的な流通主体でしかない、商人資本や金貸資本が一体全体問題とするだろうか。資本にとって、擬似問題に過ぎないものを外挿して、労働生産過程の商品形態による包摂と、その内的構造を個別的にせよ全体的にせよ、労働時間の投下-回収の循環によって明らかにしたところで、それが一体資本にとってやむにやまれぬ要請であるのか。そこに労働価値説をめぐる様々な混迷の根源があるのではないだろうか。
まずもって明らかなのは、流通形式に過ぎぬ資本にとっては、貨幣を流通に投じて、より大なる貨幣として回収する形式に、生産過程を挟んで新たな商品を生産し販売することで、それが達成できるのなら、そうするだろうし、それが見込みの立たないものであるなら、参入しないだけのことで、労働者の労働時間による商品価値の決定と剰余価値の取得など、そもそも認識すら不可能であって、様々な生産手段のうちの一つの取得価格の大小と、商品販売を通じて獲得した貨幣額との差額でしかない。どんなに流通形態としての資本の論理を追跡していっても、金輪際、商品形態に包摂された労働生産過程の労働時間構造論的把握などというのは、資本の論理そのものからは出てこない。労働生産過程も流通形式上の把握にとどまるのである。
ようは儲かればやるしそうでないならやらない、そういう実にザッハリッヒな態度こそが、資本の真骨頂なのだから、さらに進んですべての生産部面を資本が包摂するなどということを、資本の本性から導き出すなどということは、どう引っくり返ってもなしえぬ業でしかあるまい。歴史的傾向などという経験主義丸出しの観念を、これまたそこに外挿するか(純粋資本主義)3)、商品世界の全体を社会的労働生産過程の全体性を包摂することで、内的に産出する形式が要請される(世界資本主義)などという観念論丸出し(一体誰が誰に要請するのか?)の論理を採るのか、選ぶところではないのはもはや贅言するまでもないだろう。
3)19世紀中葉までの資本主義の純粋化傾向?わらかしてくれる。その時期までイギリス綿工業の原料綿花供給基地であるアメリカでは奴隷制経営真っ盛り、制度的にアフロアメリカンが解放されたのは、20世紀も半ば過ぎ、60年代公民権運動の進展によってではないのか。純粋化傾向などというのは、単にイギリス本国という国境の内部で区切って、綿工業とその周辺機械工業での企業化を誇大妄想しているに過ぎまい。余談だが、概してアメリカ資本主義は、ヨーロッパ中心進歩主義史観である唯物史観とそりが合わないのか、マルクスはニューヨーク・トリビューンに寄稿していたにもかかわらず、本格的な考察は及んでいない。そういう「存在拘束性」を取り払うことが出来ていれば、近代にありながら奴隷制資本主義の隆盛という事態に目を向けることで、労働者一元論的枠組みに囚われた、経済学の枠組みを転覆しえたのではないだろうか。
しかし、この純粋性にせよ全体性にせよ、それが再生産表式による価値法則の総括、社会的生産の質量編成の開示4)に要請されている限り、労働価値説も虚構の上に楼閣を築いているのに変わりはあるまい。
4)宇野弘蔵「経済原論」岩波全書1962、P115-135
岩田弘前掲書 P116-P118
さて締めに急ごう。かくして労働価値説は、純粋の流通形態から出発する、資本の運動過程の理論的再構成にとっては、外的な要請にとどまり、論者の何らかの問題関心によって取捨選択できる、理論的ツールであることが示された。それの最たるものが、「搾取」の解明であって、一日の労働時間のうち、労働者の再生産生活資料の生産に、X時間。それを超える労働時間が剰余価値として資本に取得「搾取」され云々のストーリーとしては誠にわかりやすく、いかにも生命力が資本によって搾り取られるイメージが喚起されるがごとき、迫力を持っている。これにさらに、資本の運動に労働者の力能が外化=疎外され、労働者は自分の生み出したものに、逆転して支配翻弄される、金融恐慌、格差拡大だ、などと続ければ仕上げは上々あとはお手並み拝見となろう。
茶化して言っているのではない。私は、マルクス経済学の存在意義は、実は実証科学風の装いを固めることにあるのではなく、こうした極端とも言える仮構的な絵面をそれなりに理論的な装置の上に構築し、人々を突き動かすことにあるのだと思っている。ただしそれが、情況にマッチしなければ、単なるドンキホーテ的駄法螺に終わるのも致し方あるまい。
そんな思いもあり、岩田弘革命理論の跡づけやら、周回遅れのネグリ読解にいそしむ今日この頃ではあった。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study718:160326〕
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