金聖雄監督 映画「袴田厳 夢の間の世の中」の衝撃−拘禁反応論への反証として
- 2016年 4月 4日
- スタディルーム
- 半澤ひろし
袴田さんの精神疾患
このように映像で袴田さんに会えるとは想像できなかった。金監督は再審開始と死刑及び拘置の執行停止の決定、釈放後の袴田さんの日常をほどよい距離で映している。その映像からは袴田さんの逮捕以来48年の辛苦が感じられる。
そこには、座っている時は絶えずうちわで顔を煽り、落ち着きなく家の中を歩き回る姿(最近は外出して、長時間、街中を歩き回っていると言う)や取材に集まった新聞記者を前に立ち止まり、手をかざして宙に指で何かを描くような仕草、客と打つ将棋(強くて勝つことが多いと言う)、ご飯を2杯3杯と存分に食べる上に、買い物に行くと大量に買い込んで食事の前に平らげそのために糖尿病を悪化させたというあんパンやイリスト風味パンというあん入りどら焼き、冤罪による死刑判決の否認に対応するかのような食事の前に唱える、あるいは日記として書き連ねられた「天王」とか、「第18代の警視総監」とかの自称、自分の映画を見て「こんな映画は嘘なんだ、わしゃあんなよぼよぼじゃねぇんだ」と実年齢79歳を23歳と言い張るという…、今の袴田さんがいる。これらの言動はより激越な度合いで拘置所医務部が現認していたはずのものである。
姉秀子さんによれば、袴田さんの精神疾患は冤罪での死刑確定、既決拘禁から始まったという。精神疾患はその状況において選択を強いられた可能な一つの生の様式である(意図や願望を読み込みやすい生存戦略という見方は採らない)。再審請求とともに、医療機関に移して治療するよう要求する支援者側ととりたてて医学的治療を要しない拘禁反応であると主張する拘置所医務室との応酬が繰り返された。
司法精神医学を揺るがす映像
刑務施設で練り上げられた司法精神医学の見方は近代精神医学の主要な源流の一つである。刑務施設の医者は、近代的人道刑として行われる拘禁を全うする立場から、拘禁による苦痛として理解できる範囲を越えた状態でも疾患と見立てることに慎重である。袴田さんの精神疾患も拘禁を免れるための意図的・目的意識的行動と見なし(拘禁反応)、真性の精神疾患から峻別すべき・できる状態として治療をなおざりにしてきた。袴田さんの病苦を拘禁反応という見方に押し込める司法制度を告発した映像となった。
拘置所医務部は袴田さんの映像を見ても、従来の拘禁反応の見方を固執し、その破綻を認めず、症状が長期にわたったために固定した事例と、拘禁反応の見方をつくろうために用意されている説明を持ち出すのだろうか。拘置所医務部は、このような映画が公然と上映されるとは予期せず、国家権力を後ろ盾に袴田さんの病状に拘禁反応論を強引に読み込み通したと考えられる。映画が上映された現在、拘置所医務部が袴田さんの拘禁性精神疾患(以下、拘禁の苦痛と拘禁性精神障害の病苦を区別するために疾患と記す)の治療をなおざりにした反省が示されなければ、司法精神医学の退廃である。
市民社会からの隔離拘禁は社会的な死としてヒトとしての本性を脅かす外傷となりうる
わたしは、刑務施設に勤めた経験がない精神科医である。刑務施設外の拘禁性精神疾患は、例えば人工透析の日常診療にもありふれた事例としてある。人工透析は週に2,3回、体外機に依って腎臓の機能を代替して延命する治療である。通常は寝入ったりして終わる透析機への拘束が、残り10分、15分で終了という時になって耐え難くなり、透析ベッドを降り地団駄を踏んで直ちに透析を中止しなければ体外機に繋がる血管のルートを引き抜く(大量出血死を結果する)とまで言い立てるなど落ち着かなくなり(不安発作)、即刻の医学的な対処を迫られる事態を招くことが珍しくない。
拘禁刑の苦痛も人道刑からイメージされがちな生やさしい苦痛ではない。死の過程から人工透析を繰り返して延命する日常から発症する不安障害も自殺衝動を引き出す病苦を伴う。冤罪で死刑既決囚の拘禁下の日々が引き金を引く精神病レベルの不安に至る拘禁性精神疾患の病苦は想像を絶する。
刑務施設における精神疾患の心因論への回収
近年、絶滅収容所症候群やインスティテューショナリズムなど、共同体からの排除や社会生活の剥奪を意味する施設への隔離・拘禁が、ヒトとしての本性を脅かす打撃として、ヒトの進化の過程でプログラム化され遺伝的に獲得された危機に対する防衛機制を起動し、人間の精神生活に破壊的な作用を及ぼすことが認知されるようになってきた。また、ドイツの強制収容所症候群やベトナム戦争神経症の臨床から、心因論の破綻が意識され、精神疾患理解の心理主義的一面化を批判してPTSD(外傷後ストレス障害)という疾患概念も打ち出された。しかし日本ではトラウマを「心的」外傷と訳すことに現れているように、この疾患概念成立の心因論批判の契機が無視されることが多い。例えば、第12回世界精神医学会(2002横浜)でカザフスタン地域における核実験回数と同地域における自殺者数の相関を示すデータが発表された。これは放射能被曝が身体・生命に直接危害を及ぼすものとして福島第一原子力発電所事故が精神疾患の発症をもたらすことを示唆している。しかし、いずれの問題をめぐる言説でも、問題の心理的側面のみを切り取り、個人の枠に押し込み、心理的操作によって対処できるかに扱い、症状に意図や願望を読み込むことにより問題に関与する精神科医の政治的立場を投影する心因論による理解が支配的である。子宮頸癌ワクチン被害で日本医師会は、心因と言うと思いこみや気のせいと取られるので心因ということばを使わないようにと忠告しているが、心因論という説明モデルの批判と言うより隠蔽である。
拘置所医務部の見方を離れて
人道刑とされる刑務施設における隔離・拘禁は、近代合理主義の人間モデルからの逸脱に対する矯正と制裁の制度=暴力であり、拘禁性精神疾患に対する心理主義的に一面化した偏見に基づく差別的処遇の実体をなしていて、それを再生産する根源でもある。
刑務施設や司法の実務においては、なお、従来の精神疾患の理解は揺るがず、大阪教育大付属小学校事件の宅間守氏やオウム真理教事件の松本智津夫氏でも、外部からは公判が維持できる状態にはないとする意見があったが、いずれも精神鑑定では公判が可能な状態として治療の必要性を認めず、公判は継続され死刑判決に持ち込まれた。
袴田さんの現症を映画で見てもらえば、拘置所医務部の当時の見解が維持できないことは一目瞭然である。拘禁性精神疾患は人工透析の事例と同じ精神疾患として対処を要する病苦である。近代的な人道刑とされる拘禁刑でも、まして冤罪で死刑既決囚としての拘禁は、拘禁性精神疾患発病の引き金を引くに充分な打撃となりうる。環境、とりわけ人との関係による被影響性・被暗示性の高さ、症状の不安定さは拘置所医務部が無視する拘禁性精神疾患の身体性としての疾患特性である。再審開始と死刑及び拘置の執行停止、釈放と姉や支援者に見守られた、それなりに安心できる安全が保障された生活は、これまでの負荷を格段に緩和し不安と緊張を和らげたが、疾患が治癒したわけではない。長期にわたる罹病期間も疾患特性の一つとして留意すべきである。こじれて遷延する事情は見当たらないとしても症状があるのは通常であり、拘置所医務部が主張し、拘禁反応という見方が想定する、拘禁が長期にわたったための例外としての症状の遷延・固定とする議論は破綻している。先入主から自由に観察すれば拘禁反応とされた病状の多くは、一旦発病すれば、刑務施設外の拘禁下に発症する不安障害と同様に、釈放後も長期にわたる気分の不安定さ、過敏さ、つかれやすさ、気力減退、負荷耐性の低下などの症状が認められるはずである。このような追跡がなされずに、基本的に釈放されれば解消すると見なしてきた粗雑さに、司法精神医学の立場と思想性が露呈している。
精神疾患として気になること
他にも映像を見て感じることがある。即ち、ボクサーでチャンピオンを目指したファイターあるいはチャレンジャーとして身につけた公判当時の冤罪に立ち向かう姿勢、公判に見せた姉と共有する強靱なメンタリティ、その精神疾患の不安障害周辺と見られる特性、精神疾患発症前の文学的なセンスや繊細な感受性を窺わせる文章と対比的な死刑確定後の獄中から始まる荒唐無稽で誇大的な文言、問題ないということであろうが血液検査や画像診断の所見の不在、ふつうのボクサーが年3回程度という試合数が年19回の日本記録を持っている話から気になるパンチドランクの影響の有無、もう少し突っ込んで病苦に対する医学的な吟味と対処がなされなくてよいのか、従来の心因論の見方を引きずり病苦を軽視しているのではないだろうが、拘置所医務部の見方に引きずられ、精神疾患の病苦に対する感受性を損ない、医学化、技術化し難い親密な関係の中で過剰な意味づけから看過している医学的な問題がないかなどが気になる。この映像にはそういう気がかりをかき立てるポテンシャルがある。2016.04.03
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study722:160404〕
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