文化大革命の思い出
- 2016年 4月 6日
- 評論・紹介・意見
- 文化大革命阿部治平
――八ヶ岳山麓から(178)――
50年前、中国で文化大革命が始まると、在日華僑系の会社に勤めていた昔の友人は、文革反対を口にしたばかりにたちまち華僑青年の集団に囲まれ、ぶん殴られて最後は両腕をつかまれて階段から突き落とされた。また若い友人の中には熱狂的な文革支持者となり、その実態を見るために中国に渡り、「資本主義の道を歩む実権派」を糾弾するデモ行進に加わり、帰国して「感動しました」と語るものがいた。
ここではそうした「はなばなしいこと」ではなく、自分の地理教員としての体験を書きたい。
1960年代の半ば中国からのニュースを見て、私の友人らは「中国共産党に何かあるぞ」といった。これが文革であり10年の騒乱の始まりだった。中国通の多くは文革を「魂を揺さぶる革命」と評価し、新島淳良氏などは、「毛沢東は延安で万巻の書を読み、前人のなしえなかったマルクス主義の普遍化を成し遂げた」などと持ち上げた。またある研究者は私に「国民党時代の官僚が中共政権に残っていて、これが劉少奇や鄧小平にくっついて官僚主義の温床になっている。文革はこれと戦うものだ」とまことしやかな話をした。
文革が進行すると、毛沢東は権力を林彪に禅譲する憲法をつくった。たちまち林彪を持上げるジャーナリストや研究者が現れた。ところが林彪の国外逃亡事件が起きると大いに困ってしまい、ある人は私に「文革は林彪がやった。文革はこれで終わる」と説明した。林彪と周恩来を批判する「批林批孔」運動が起きると、またこれを支持する人がいた。あとで満蒙開拓団生残りの帰国者に聞くと、この時期子供たちが「ピーリンピーコン、ピッピッピ(批林批孔、批批批)」と練り歩いたという。
1960年前後中ソ論争が行われると、日本共産党(日共)はソ連首相フルシチョフを「現代修正主義」と批判し、中共寄りとなった。ところが60年代半ばには、ベトナム戦争支援、対米ソ観において中共とは著しく意見が異なるものとなった。文革に入ると中共は激しく日共を批判し、日共は(それまでの毛沢東傾倒を反省することなく)これに精力的に反論した。
私の周辺はこれとはちょっと異なり、ある友人は文革以前から毛沢東思想を「弁証法理解は俗流、ほとんどプラグマチズム」と評していたし、別の農業経済研究者は、文革を検討して「農民的急進主義」と断定した。私は、さいわい友人たちの強い影響があって、文革を中国の退歩そのもので、「破旧立新」などただの文化破壊だと考えることができた。そうでなければ文革支持の旗を振っていたかもしれない。
当時高校の地理教員として困ったのは、大躍進失敗以後、中国が統計を公表しなくなったことだ。教科書の記述は平板で、授業で中国の経済地理をわかりやすく教えることはひどく難しかった。なかでも中国の農業分布図は1930年代と変わらず、あまりに古いと思われた。
教材をニュースにたよることはできなかった。1967年以後各紙の特派員がつぎつぎ中国から追放されるなか、70年以後朝日新聞だけが北京に残ったが、文革礼賛記事が多く、地理教材の研究には役立たなかった。
当時、文革をまともに批判したのは日共の「アカハタ」と産経新聞だけだった。産経は反共主義の立場から文革を批判した。北京支局の柴田穂氏は文革開始後1年くらいで中国を追放されたが、その記事は内容が具体的で非常に参考になった。
だが、私は日本メディアの報道に満足できなかった。それで人民日報の農業・農村関係の記事を地域別に分類したり、米ソの推計数字を求めたり、ときには台湾の「匪情月報」とか、香港の「中共研究」などの雑誌に頼って自分の農業分布図をつくった。その結果わかったことはだいたい以下のようであった。
人民公社を組織する以前に、中国の農業生産が頂点に達したのは1957年である。そのとき食糧生産は一人平均年285㎏だった。これを機械的に全部米としたとき、1日玄米で547g、白米で468gの食料となる。これから工業生産のための蓄積、農業再生産のための肥料・種子・農機具分を差し引かなくてはならない。そうすると人の口に入る分は、「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」るのにも及ばない量となる。
しかも人口と食糧生産の推計をグラフにしてそのトレンドをみると、大躍進期はもちろん飢餓状態だったが、1970年代になっても57年水準を越えた年はいくらもない。中国は70年代を通してかなり大量の小麦を輸入したし、人民日報には、「農閑期には1日2食にしよう」という呼びかけもあった。慢性的な農業不振、食糧不足が続いていたのだ。
さらに新聞の切り抜きから判断するかぎり、農業の地理的分布は、L.バックが1930年代に作成した分布図と基本的に変わらないことがわかった。たとえば稲作は秦嶺・淮河の線よりも北にもあるけれども、それは点在しているに過ぎなかったのである。
1972年の日中国交回復後は、文革はまだ終わってはいなかったが、ぼつぼつ満蒙開拓団の生残り・残留孤児が中国から帰国するようになった。その人たちからの聞取りは、私のおぼつかない教材研究の結果とほぼ一致した。何よりも印象深かったのは、「革命委員会」なる新統治機構が文革以前よりも横暴で官僚主義的だったことだ。こうして私は県教育委員会の研究会や地理教師の自主的な研究会で自分の得た結論を発表することにした。
私の主張は文革を容認する人からはもちろん受け入れられなかった。彼らは「中国の農業は大きく発展している。稲二期作地域や米麦三毛作地域が広がっている。人民公社でもトラクターを自力で生産している」と反論した。もちろん文革に共鳴する研究者の本の受け売りである。
多毛作になっても農業の生産性はそう簡単に上がるものではないし、トラクターの自力生産などは、どの人民公社でもおしなべてできるものではない。たまさかどこかでやれたとしても、それなりの技術があり安定した部品供給がなければ修理すらおぼつかないが、この人たちにはそうした基礎知識もないようであった。
ところが意外にも、頼りにした?反文革派の日共系教師からも厳しい批判を浴びた。「中国をことさらに暗く描いている。社会主義のいいところを見ていない」という。私は文革にはよいところは何もないと反論したが、これはよけいに人々を怒らせた。後になって親しくなった同僚教師も、このとき私を「ごりごりの右翼だと思った」という。
私はその後自主的な研究会の機関紙で弁解した。
「私の考えは、社会主義だから必ず良いところがあるとか、資本主義だからただちにダメだとかいうところにはない」「中国の現実が(いままで)あまりにも知らされなかったがゆえに、事実が目の前に出されると、人によっては社会主義をそしったと思いがちではあるが、中国の人々が何を食い、なにを着て、どのような日常を送っているかを明らかにすることが、教育にとっては理念問題よりは重要である。イデオロギーはそのような具体的現実から出発しなくてはならないと私は考える」(「歴史地理教育」1978・3)。
だが人々が文化大革命を称賛したのはなぜだろうか。またそれを批判する人までがなぜ「社会主義のよいところ」を付加えないと承知できなかったのだろうか。
直接には、文革の経過と論理が日本の政治・社会を批判するのに都合よく報道され、それによる文革理解が政治・社会の革新を求める人々の心理にうまく適応し浸透したためだと思う。根本的には、新旧左翼の理論家はもとより、日本の左翼の人々全体に社会主義(計画経済)は善である、あるいはそうではないとしても資本主義(市場経済)は悪であるという固定観念が強固だったことがある。
こんにち日共は北京に「赤旗」特派員を置きながら、その紙面には中国の政治・社会問題はほとんど登場せず、思考停止状態である。これも社会主義の嫌なところは読者に見せたくないという心理の表れであろう。
文革期の私の教材研究は、あまり受入れる人もなく時間が過ぎた。現行社会主義には固有の問題があるという認識が、これに関心を持つ研究者や教師に広まるのは、1980年代前半まで待たなくてはならなかった。これには盛田常夫氏の翻訳によってコルナイ・ヤーノシュの著作が紹介されたことが大きかったと思う。その後20年間市場経済下の中国の経済発展はご存知の通りである。そしてその裏側で成長したのはすさまじい環境破壊である。
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