「right」は「権利」でも「権理」でもなく「利権」でしょう
- 2011年 2月 3日
- 交流の広場
松野町夫さんの「権利とright-権利は『権理』としたほうがよい」を読みました。翻訳家ですから当然の工夫としての考察なのでしょうが、世の中には似たようなことを考える方が居られるのだと共感致しました。外国語としての様々な言葉をどの様に日本語にするのか、と言う事は難しい事だろうと想像します。新しい想念を何も知らない人に共有する「物象」にすると謂うのですから途方もない事です。
私などは、思春期を国粋主義者として自覚しつつ自己形成し(外国語を習う努力をするくらいならば、日本語を世界語にする努力をすればいいじゃないか)、青年期を世界革命主義者として自覚しつつ自己形成し(帝国主義体制もスターリン主義体制も毛沢東主義もカストロもチトーもどうせ敵対してきたら討伐するのが当然じゃないか)て来た人間だものですから、似たような事を考えながらちょうど逆の形で、「権利」を考えてきました。「right」は日本語とされるのだから、日本語文脈の中で使われて磨かれていかなければならない、と言う思いです。
「権利」とはどの様な意味なのだろうか。「人権」、「著作権」、「知的所有権」とは明らかに、権利観念の拡張したものだがいったいどんな意味のある概念なのだろうか、と言う風にです。「人権」は私の日本語経験から考えれば、「自然人の他人や法人や制度や自然や事物に対して主張して良い事があらかじめ承認されている優先的権益=利権」です。「自然人の利権」として人類史のある特定の時間と空間で了解できるものが「人権」でしょう。「著作権」というものは、「国境国家の権力が設計した特許の一種で、中央権力が直ちには飼って置けない知識人の知的営為の外化物を印刷・製本・出版・流通と癒着してとりあえず勝手に喰っていける様に知識人に与えた利権」です。被統治人民が作りだしたものでは有りません。「知的所有権」というものは、まだ内容の安定したものでは有りませんが、「変動相場制が生み出した無政府的な信用の拡大に伴う過剰資本の出路を求めて、世界が作り出している先進国のバブルやアンダーグラウンド経済、途上国の原蓄過程なき離陸と並ぶ、国際的に横並びの形で資本やすばしこい奴にあらかじめ提供しておこうとして設計されつつある金儲けの協約利権」でしょう。
いずれも堅気の考える様なものではない発想で構想された利権以外の何物でもないのではないでしょうか。「権利」ではなく、「利権」という事によって、近代というとんでもない世の中を作った歴史的に特殊な時代の特殊なイデオロギーだという事が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
岩田昌征先生が、村岡到先生という常民思想家の「権理」という使用方法を紹介しておられますが、「right」を「権理」としてしまったのでは近代や西洋というものに対する根源的批判を回避する言語として恐らく機能させてしまうでしょう。私には強い違和感が残らざるを得ません。
実際、若い人たちには「権利という言葉は使うな。利権と言え。そうでなければ、お前達意味がわからねえだろう」といつも説教しています。解ってくれます。当然、「道理」や「筋」と言った言葉の含みとは「right」は違います。しかし、それは翻訳の適否とは別の、「表音文字圏の音声言語の不安定」問題が絡みます。先人が苦心して翻訳したものを自分たちのものにするのは後からの人間の責任です。「訳字を持って原意を尽くすにあらず」事は明白だからです。
同時に、先人の思想の限界を明白にさせつつしか、後からの人間は先人の思想を自らのものとする事は出来ません。とするならば、「right」を「権利」にしてしまった以上、日本語として主体化するためには「権理」などとはとんでもなくて、「利権」という風に発展させて西洋思想、近代文化を批判していく鍵の一つとして育てていく事が必要なのではないでしょうか。
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