中国との付き合い方はこれでいいのか ―チベット高原の一隅にて(100)―
- 2011年 2月 5日
- 評論・紹介・意見
- マスコミ対中感情阿部治平
半年ぶりに中国から帰国して日本のメディアに現れた中国像が自分の予想以上に悪いものになっているのに驚いた。中国批判がやたらに多い。論説や解説というよりは悪口雑言に及ぶものがある。内閣府の世論調査によると、中国に親近感を「感じない」と答えた人が77・8%に達するという。
久しぶりに会った小中学校の同級生は「尖閣諸島事件では日米安保があってよかったと思った」と語った。その道ではとびぬけた業績を上げた人だが、政治はあまりわからないという、その人でさえこのような気持になっている。
尖閣諸島事件、北朝鮮によるとされる韓国戦艦の撃沈事件と北朝鮮による砲撃といった事件が続いたから「日米安保」強化という政界やメディアの主張が受け入れやすくなっているのだろう。さらに、反中国感情の根底には日本経済が20年間低迷し、中国の経済が高成長を続けついにGDPが日本を追い越したという事実に国民の多くが苛立ちを感じていることもあるかもしれない。
中国にたいする強がりの例は多い。西尾幹二は「中国恐怖症が日本の元気を奪う」(「産経」2011・1・12)で、対中貿易が日本のGDPから見ると微々たるものに過ぎないとか、中国のGDPの中身が怪しいとか、国内投資を増加させればすぐ中国を追い抜くとかと怪しげな経済観をふりまく。
そのうえで彼は「われわれは(中国を)恐れる必要はない。福沢諭吉の(脱亜論の)ひそみに倣って、非文明の隣人としてズバッと切り捨てる明快さを持たなくてはいけない」というのである。
中国のGDP世界第2位に西尾の頭がしびれたらしい。「産経」の読者にも中国市場をズバッと切り捨てて日本が何か得るところがあると考える人は少ないだろう。
「文藝春秋」誌(2月号)の「中国とこれから『正義』の話をしよう」という特集に、アミテージとナイ(日米同盟強化を主張する対中強硬派)と日本経済新聞の春原剛の鼎談がある(「共に中国と戦う用意はある」副題;中国へのメッセージは一つだけ。尖閣、尖閣、尖閣――オレたちをなめるんじゃないぞ、という編集者のバカ丸出しの表題である)。
ここには対中関係に関して注目すべき発言が記録されている。ナイはいう。
「繰り返しになりますが、日本が『過去』を否定することは誤りだと思います。……ドイツは過去を修正し、近隣各国との関係を修復しました。一方で、日本は完全に過去を顧みていません。だから中韓両国はいつまでもそれに不平を漏らすのです。日本は1930年代についてはっきりとした態度を示す方がいいと思います」
アメリカの対中国強硬派から見ても、日本は歴史的過去に対する始末をし終わっていないのである。これでは中国に反日感情「千年の恨み」が存在するのは理不尽だとはいえまい。尖閣諸島の事件など「オレたちをなめるんじゃないぞ」というのは中国大衆の気分である。
日本人の対中感情が悪いのは尖閣問題などのほかに、中国に08憲章と劉暁波ノーベル賞受賞問題など民主や人権、司法の独立などいわゆる自由権が欠けていることもあると思う。だが中国について日本人はこの方面をどのくらい知っているだろうか。これに答えた論文があった。
「文藝春秋」誌(2011・2)のに高島俊男「共産党と資本主義が両立し続ける矛盾」である(高島論文では表題のような、共産党の独裁が資本主義と両立しないとは一言もいっていない)。高島は中国の権力構造を正確に理解するように我々をうながし、また漢や明など、王朝の混乱期に立上ったヒラの男が天下を取った王朝を盗賊王朝とし、毛沢東共産党の革命と功臣を片付けたやり方がその範疇に入ることを書いている。これを認めるかどうかは人それぞれだろう。
彼は「我々外の者から見れば中国は不愉快この上ない国だが、圧倒的多数の中国人は今の安定した強盛な中国に満足している。共産党を信頼し、支持している。党の役人の非違行為はしばしば起こるが、国民にとってはそれは個々の悪人の悪事であって、それが共産党そのものに対する疑念にはならない」という。これは私の生活実感でもある。「党は正しいがあいつは悪い」という感情である。
過去の屈辱的な歴史からして「強兵富国」は中国民衆の切実な願いである。私は経済の高成長と軍備拡張が続くかぎり官産軍複合体の党支配は強力だと思ってきた。ただ近年、支配層のやりたい放題、富と権力の一人占め、生活格差の拡大ぶりに党に対する民衆の信頼が揺らいでいるように見える。これへの警戒からか中国メディアへの締付けが強まっているという。
だが、文化大革命時代と異なり、体制批判をする人のすべてが弾圧されているわけではない。ある一線を越えなければ、批判論文を発表してもメディアや個人の待遇は変わらない。
高島がいうように、なにしろ大陸の人々は4千年の歴史の中で権力批判をする自由を味わった経験がない。外から見るとはがゆいかもしれないが、人権とか自由にこだわる人は大学教育を受けた人の中にもそう多くはない。それが多数の要求になるまでには時間がかかる。
さて、今後対中外交といわず外交はすべて専門的知識と経験のあるものが指揮してほしい。「政治主導」と称して尖閣諸島など歴史的経過を知らないものがやみくもにやるから検察官が失敗外交の始末をする。この意味では現中国大使のように大商社のOBが大使に当たるのはかなりの冒険である。
ましてや紛争のさなかに「中国の対応はヒステリックだ」などと放言する人物を外相にしてはならない。当時「人民日報」国際版の「環球時報」は2回にわたって前原外相の写真を1面に大写しにして「これが外交に当たるもののいうことか」とからかった。
さらに外交には金がかかることを認めるべきである。日本ではどこかの大使館に高級ワインがあったことをとがめたらしいがじつにケチくさい。交渉相手の趣味や好き嫌いをよく知って、酒でも食いものでも出して応対できなければ外交官とはいえまい。
遠くはニクソン・周恩来による交渉、近くはオバマ・胡錦濤交渉に見るように、中米関係は日本の頭越しに、日本の「核心的利益」とは関係なく変化することを忘れてはならない。アメリカは日本人の多くが考えているほどには日本を大事にしているわけではない。それに「日米安保」は対等平等の盟約ではない。日本は目下の存在だ。中国にしてみれば、ことによってはアメリカとやりあったほうが早い。中国になめられたと怒ってもどうしようもない。
日本は通常兵器では有数の軍事力を持っているのだから、ほどよく対米従属性を弱め、東アジア諸国と経済的地理的結びつきを前提にした友好関係を形成することが中国と対等に外交交渉する基盤である。そのためには、かつて鳩山元首相が主張したように「常時駐留なき安保」の方向に歩むべきだと私は思う。嘉手納の基地から米海兵隊をグアムに移動させ、さらに日本各地のアメリカ軍をじょじょに引揚げさせることである。
ところが、民主党菅政権は尖閣問題から北朝鮮の挑発行動をふまえて、「日米基軸の再出発」をえらんだ。かつて「朝日」は社説で「日米関係の基盤は安保条約であり、日本が基地を提供するのは不可欠の要件である」といったが、民族の誇りも国家の権威もないいい方だ。同じ同盟国といっても日本ほど外国軍隊が常時駐留している国家がほかにあるだろうか。
一方、日本政府が米軍基地を存続させ、沖縄に忍耐を強制し続けるならば、沖縄人は自らの自由と人権のために「琉球共和国」を選ぶしかなくなる。独立政府がアメリカと基地解消のための交渉をする以外に現状の苦難から逃れるすべがないからである。
さらに、領土問題は長期の交渉を覚悟すべきである。いたずらに自国民をあおるような言論は互いにマイナスである。1905年対露交渉の「日比谷焼打事件」に見るように興奮した国民は譲歩や妥協をゆるさない。
中国はインドやソ連との国境紛争の時期、モンゴル・パキスタン・ネパールにはかなりの譲歩をし、ビルマとは(インドに対しては絶対に認めなかった)マクマホンラインを認めることで妥協した。ソ連とインドという主敵に立ち向かうためである。毛沢東時代の強大な中央集権が存在したからできたことだ。その後ソ連とは妥協できたがインドとはまだ火種が残っている。
北方4島、竹島問題も我々は長期にわたる交渉を覚悟すべきである。この点では、めずらしくも「産経」(2010・12・8)に掲載された尖閣諸島をめぐる中国清華大学劉永清教授の主張と同紙伊藤正中国総局長の反論の「両論併記」は重要な示唆を我々に与える。劉永清は尖閣問題では中国もまた傷ついたと発言している。
とりあえずは互いに容認できない部分が大きいとしても、こうした試みをすることによって相手側の主張が国民にわかるようになる。昨年9月のように今にも撃ちあいを始めるような日本メディアの報道姿勢は間違っている。
情勢が変われば、とくに両国間に平和的友好的関係が深まれば、おのずから領土問題解決のいとぐちは得られるのだ。気長にやるのが一番だ。
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