チトー主義は進歩か退歩か?―労働者自主管理をめぐって
- 2011年 2月 6日
- スタディルーム
- ユーゴスラヴィアとムッソリーニのイタリア労働者自主管理法岩田昌征
ベオグラードの週刊誌ペチャト(2010年12月31日、2011年1月14日)に二号続きで1928年生まれの高名な歴史家ミロラド・エクメチチ教授のインタビューが載っていた。そこでエクメチチは、チトー主義を評して、それはスターリン主義的全体主義から民主主義への進歩ではなく、戦間期中部ヨーロッパのカトリック的全体主義への退歩である、と断言している。それを読んで、私がセルビア科学アカデミー外国人会員に選出され(2006年11月)、それに対する名誉ある義務として行った記念講演において、エクメチチ教授から私のトリアーデ体系論へ同様の批判がなされたことを想い起した。その際に贈られた著書『虐殺と耕作の間の長期循環 近代セルビア人の歴史(1492‐1992年)』(2007年)の関連個所(pp.511-523)を再読してみた。旧ユーゴスラヴィア社会主義の要であった労働者自主管理システムの歴史的起源に関する見過ごしえざる考察がなされているのでここに要点を紹介しよう。周知のように、チトーはスターリンと決別するや、ソ連型集権制社会主義の修正から否定に転じ、市場の許容と同時に、企業の労働者自主管理の導入を開始した。1949年12月、大企業215社に労働者自主管理の導入実験が許可され、1950年6月27日、人民議会で労働者自主管理法が議決された。その後、それは工業→教育→すべての社会的・経済的活動に普及していった。ただし、個人営業以外。
エクメチチは、ほとんど同一の産業社会化と労働者自主管理システムが、末期ムッソリーニ政権のイタリアに実行されていたと説く。ナチス降下部隊がムッソリーニを救出した後、ムッソリーニはヒトラーをドイツに訪ね、帰国後、ファシスト党と党軍の再建に没頭し、1944年北伊のサロにおけるファシスト党大会において、新社会的共和国イタリーを宣言した。以前からファシズム党内に社会転形論争があって、国家資本主義からそのよりリベラルな自主管理型への移行を考える動きがあった。古典的資本主義でもなく、ソ連型社会主義の古典的官僚制でもない新しい社会秩序が必要であるとされた。生産手段の所有者国家に代わって、生産の社会化制度と新型の所有制が導入されることになった。サロ大会において「社会化憲章」Carta di socializationeが採択された。戦略的重工業企業、大型中型工業企業(労働者数100人以上)が社会化され、労働者評議会と管理委員会が導入された。企業長は秘密投票で選挙され、かつ唯一の指導党が存在した。ただし、小企業は私有制のままであった。
ドイツ・ナチズムはこれを共産主義の忍び込みであると疑った。ドイツ大使はトリノの諸自動車工場を訪ねまわって、この新しい制度が効率的に機能していると判断した。ドイツ大使はイタリア・ファシズムが共産主義的理念を実験していると信じた。やがてチトーのユーゴスラヴィア・パルチザン軍はリエカ、イストラ半島、ゴリツァ周辺、すなわちイタリア支配地域を解放することになるが、そこにはすでに諸社会有工場が存在していた。それらはユーゴスラヴィア軍によって国有化された。
エクメチチの主張は、1950年6月の「労働者自主管理法」が1944年1月のムッソリーニ・イタリアの「ヴェロナ憲章」を下敷きにしているというだけでなく、1963年社会主義憲法の多院制政治体制もまた、1934-38年期オーストリー独裁体制Christliche Staendesstaatのそれを参考にしてデザインされたとも言う。
このような根拠をもって、本論の冒頭に引用した「進歩ではなく、退歩である」発言が出てきた次第である。2008年3月26日の講演の時に同じ趣旨の質問をされて、私は次のように答えた:「進歩」とか「退歩」とかは適切な表現ではない。私のトリアーデ体系論によれば、経済社会の三類型間の移動は、まずは転形であって、価値的響きがする「進歩」や「退歩」を即座に使用できない、と。ちなみに、インタビューの中でエクメチチは、私が講演の中で、「中国にとってマルクス主義は、目的ではなく、手段であった」と語ったところに言及し、評価してくれている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study380:110206〕
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