現代史研究会での古賀暹報告に寄せて-北一輝論への感想(疑問と意見)-その2
- 2016年 5月 23日
- 評論・紹介・意見
- 合澤清
*その1は5月11日に掲載(http://chikyuza.net/archives/62823)しています。
(2)北は「構造改革論者」なのか、それとも「国家社会主義者」なのか?
北一輝に対する評価はこの点で大いに割れる所であるようだ。右翼だからといって北一輝を評価する者ばかりではない。むしろかなりの数の右翼が北の中に「反天皇制」左翼の陰を見て「擬装右翼」として毛嫌いするようである。左翼の方では、これまでほとんど北一輝を評価してこなかったように思う。松本清張が言うように彼は「右翼・超国家主義者」なのである。因みに、清張は初期の北一輝(「国体論及び純正社会主義」)=社会民主主義者と、後期の「日本改造法案大綱」=国家主義者との間に彼の思想的な変節を見ている。北は変節したのか?何が北の実相に近いのであろうか?
私見では、どちらも紛れもなく北一輝である。この場合、どちらか一方に決めつけることはできない。一方に決めつければ、たちまち他方の側によって反撃・否定されるからだ。北は一見すると相反する(正反対ともみなされうる)主張を独自のやり方で統合しようとしている。その統合の過程は北一輝にとってもなかなかの難儀で、一筋縄なやり方では解決できない。まさにその悪戦苦闘こそが北一輝そのものなのである。この悪戦苦闘の経過を、純粋に北一輝の精神の歩みとして捉えるとき、それは概念的な把握になる。
ここで改めて、松本清張の『北一輝論』(ちくま文庫)から少々長い引用(重複する箇所もあるが)をしながら、関連個所をピックアップしてみたい。
A.「日本改造法案大綱」の巻四は「大資本の国家統一」である。
①私人生産限度は、資本金1千万円とする。海外における国民の私人産業亦同じ。この限度を超過せる生産業はすべてこれを国家に集中し、国家の統一的経営とする。
②私人生産限度を超過せる資本の徴収機関は、在郷軍人団会議たることは前掲に同じ。
③銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省の設置。
④生産的各省よりの莫大な収入は、消費的各省と国民の生活保障の支出に応じる。したがって、基本的租税以外各種の悪税は悉くこれを廃止する。
⑤遺産相続税は、親子の権利を犯すものなるを以て、単に手数料の徴集に止める。
…その資本金の超過を査察するのも、これを徴集するのも、すべて、在郷軍人団会議である。何もかも軍人が統制管理を行う。(pp.144-5)
B. 巻七でも「将来の帝国領土」の語を用い、私有財産限度、私有地限度、私人産業限度の「三原則」は「将来の帝国領土内に拡張せらるる者なり」と、侵略戦争結果の見取り図を描いている。(p.153)
C. 久野:…(「国体論及び純正社会主義」を)初めのものと比較してみますと、まず書物の表題そのものを「民主社会主義原論」と変えています。それから第四編の「所謂国体論の復古的革命主義」を「現代国体論の解説」と変え、「復古的革命主義」をすべて「国体破壊主義」に、「偏局的個人主義」は「民主主義」にそれぞれ変え、そのほか、文中の小見出しをすべて削り、文章もかなり訂正して、アップトゥデートにしている。また「純正社会主義」を全部「民主社会主義」にかえています。しかし、ぼくの一読したかぎりでは、むしろ前の説をラジカル化しているくらいです。 (pp.326-7)
D. 久野:…北には社会主義のインターナショナリズムと共和主義は、ずっと先へ進んだ後の話にしか過ぎない、という考え方がある。「国体論及び純正社会主義」の中でも、主権の本体としての国家はリアリティなのであり、個人の実在よりも高次の実在であって、国家の利益と目的のためには統治権の行使者は天皇や議会からどのように変わってもいい、個人が国家の利益と目的のために身を捧げる愛国主義が必要だという考え方を彼は持ち出しています。そしてこの愛天皇主義でない愛国主義が、伝統的国家主義によりかかって天皇を担ぎ上げる官僚と軍部から、北がすごく憎まれる理由でもあるし、同時にこの考え方は、階級闘争と階級連帯によって国家主義を越えようとする左翼からは右翼国家主義と見られる客観的理由でありましょうね。…北はさしあたり明治憲法を基礎にして君主主義を主張していますけれども、彼のいう君主主義はあくまで国家が主権の本体であって、政体の違いというのは国家の持つ統治権を誰に代行的に行使させるかという違いにすぎず、天皇に行使させるか、天皇と国会の共同に行使させるか、平等の国民に行使させるかになる。
明治憲法下の日本は、統治権の主体が国家にある国家主権の国家で、国家のこの統治権を行使する機関として天皇と国会がある。両方が協力し、それが国家機関となって統治権を行使しているのだ、という論理でしょう。(pp.337-8)
…彼の特色は、君主主義なんだけれども、主権と統治権を国家に代わって天皇と一緒に国民の代表たる国会が行使するのだという点で、民主主義の要素を持ち込んでいるところにある。(p.339)
E. 久野:…君民共治から共和民主へという図式は明治維新をやった大久保利通や木戸孝允の様な天皇制官僚でさえ、日本の体制はやがては共和民主に行かなきゃいかんが、それまでの中間過程として君民共治をとるんだ、と既に言っていた。北は、…この大久保や木戸のいったところを逆用して、君民共治からどこへ行くかという問題は両義性のままにおいていると思うんです。もし松本さんのいわれるように、君民共治で絶対君主だというふうにとらえると、ちょっと北の意図とはずれる。北はあの書物を政論として書いていて、ずいぶん中で駆引きをやっている。それが要するに彼の、敵の武器をとって敵をうつというやり方です。大久保、木戸を逆用して、何とか国会及び国民の優越支配のほうへ進めていきたい、そして明治憲法をぎりぎりのところまで持って行きたいと考える。(pp.351-2)
北は国内体制としては「憲法と国会の中の国王」的民主主義を徹底化するというが、対外的には国家を、個人や自発的な集団を超えた超実在だと考える。…国内体制においては、あくまで個人自由主義を擁護して新しい藩閥になった巨大会社を倒さなければいけない。他方で対外的には、帝国主義と無関係に将来の社会主義国家のイメージを考えるのではなくて、帝国主義の革命化のところに彼のいう革命的大社会帝国主義を生み出そうとする。北は社会主義を、全体主義的にとらえる、…彼の場合全体の単位は国家なんです。だから彼のは、国家社会主義だ、と言っていいと思います。(pp.352-3)
F. 松本:…彼は忠義のことを言っていますが、それによると忠義とは眼前の君主に対する忠義である。それより上の天皇にしても将軍にしても、家来にとっては問題ではない。つまり、忠義とは直属の主人に対するものだから、その主人が天皇を弑逆しろと言ったら、家来はその通りにいうことを聴く。島流しにしろと言えば、何の抵抗もなく命令を実行して佐渡にも流す。だから日本の歴史は、国民がすべて「乱臣賊子」の歴史である、と北は言います。…ところが「国体論及び純正社会主義」をだんだん読んでいきますと、突然この説を撤回しているでしょう。…撤回するくだりはこうなっています。「吾人は更に前より用ひ来れる「乱臣賊子」の文字を取り消さざるべからず。それは日本国民の凡ては乱臣賊子の従犯者若しくは共犯として皇室を打撃迫害しタル乱臣賊子のみなりという吾人の断定これなり」ここで彼が言っているのは、中世の各領主、豪族は、それぞれが経済的に独立した自由な君主であるから、君主間の争闘にそのおのおのの家来が参加したところで乱臣賊子とはいえない、ということです。このことは君主の一つである皇室に対しても言えるので、他の君主が別の君主である皇室に自由を発動して衝突しても乱臣賊子的行動とはいえず、それに従う直属の家来も皇室に対して乱臣賊子とはいえない、とする。…それならば前の乱臣賊子論の活字を全部、著書から抹消すればいいのに、それはやっていない。(pp.355-6)
松本:明治維新後議会が天皇と衝突した場合を想定すれば、議会は天皇に対して反逆です。乱臣賊子です。ところが北の想定によれば、議会は天皇とともに民主主義国家を代表する機関であるから、これを乱臣賊子にする論理がなくなる。そういう矛盾…。(p.358)
G. 久野:…直接の自分の君主に対する忠誠と天皇への乱臣賊子とを、明治憲法以後において国家への忠誠に置き換えようと北はする。天皇も国民も国家への忠誠を尽くさなきゃいかん、国家こそが永遠なのであって、天皇はその単なる機関にすぎないという、だから忠君はあくまで愛国の一部でなければならない。そこが北の国家社会主義たる特色…乱臣賊子も忠君もすべて愛国に結集する。そうすれば天皇に対する乱臣賊子も、逆にいえば愛国になる場合もあるかもわからない…。(pp.358-9)
…北があの時点で考えたことは、今までの封建藩主への忠誠が明治維新で天皇への忠誠になったのを、もう一度国家への忠誠にどのように変えるか。…だから彼は「皇民国家」という言葉を自筆訂正本では全部「国民国家」にかえています。(p.360)
…私が北に同情的なのは「皇民国家」を(自家訂正本ではすべて)「国民国家」と変えているところを見ても「国体論及び純正社会主義」を書いた時点では、何とかして「国民国家」という方向へ行きたいと考えていたと思うからなんです。(p.361)
H. 松本:国家についての北の解釈…進化論を援用…国家の進化とは…国家の繁栄である。そしてその繁栄に向かうべき国家の上に載っている元首の明治天皇はナポレオンにも比すべき大皇帝である。(オゴタイ・カン=元の太宗とナポレオンとケマル・パシャ=トルコ共和国初代大統領にあこがれている)(p.362)
I. 松本:北が言うような軍事的な行政機関を作れば彼は自らその最高顧問になります。「日本改造法案大綱」通りの国家になれば、北の「院政」です。つまり北のいう通りに操縦されることになる。…もう一つは、“改造法案”に従うと、それまでの重臣層は全部排除される。天皇から重臣層を排除したならば、天皇制の崩壊ですよ。天皇を核として二重にも三重にもそういう機構が取り巻いているから、天皇制が存続するわけでしょう。…自然に天皇制廃止につながる。(pp.375-6)
J. 久野:2.26事件は人民のレベルまで届いていない。ぼくにいわせれば、あれはどれほど深刻でも、天皇の担ぎ方をめぐる争いでしょう。…官僚制の頂点として天皇を担ぐか、それとも官僚の垣根をぶっ壊して天皇を担ぐかという、天皇の担ぎ方の違いだというのが、ぼくの判断なんです。(p.386)
以上かなり長々しい引用をしたが、前述したものと併せて、問題点を整理する。
①「財産制限」を設けて、主に財閥・大企業を国家管理下に置く。その場合の管理責任者として在郷軍人団会議(下級士官からなる軍人層)をあてる。(A,B)
②「民主社会主義」革命をめざし(改訂版「国体論及び純正社会主義」)、その過渡期形態として、天皇制と議会とよりなる「国家」を考えている。「愛国主義」「忠誠」の強調。(C,D)
③「国家有機体論(進化論)」という考え方。「北は国内体制としては「憲法と国会の中の国王」的民主主義を徹底化するというが、対外的には国家を、個人や自発的な集団を超えた超実在だと考える。…国内体制においては、あくまで個人自由主義を擁護して新しい藩閥になった巨大会社を倒さなければいけない。他方で対外的には、帝国主義と無関係に将来の社会主義国家のイメージを考えるのではなくて、帝国主義の革命化のところに彼のいう革命的大社会帝国主義を生み出そうとする。北は社会主義を、全体主義的にとらえる、…彼の場合全体の単位は国家なんです。」(E)
④多種の王侯(豪族、君主)の一つとしての「天皇家」(「乱臣賊子」論)という考えと、「特別な国民としての天皇家」という考えの並列。(F)
⑤「国民国家」という発想。(G)
⑥「国家の進化は国家の繁栄である」→「革命的帝国主義」の発想へ(H)
⑦「英雄」による革命の推進。→「神道天皇制」を超えた「法華経の行者」による「大元帥信仰」へ(I)
⑧「広汎な大衆運動」の欠落(J)
まずこの全体を概観してわかることは、北の理想が「民主社会主義革命」による「国民国家」の実現にあったこと、しかし一気にその革命を実現することの困難さゆえ、段階的な実現を考えていて、それが過渡的な形態としての「皇民国家」(天皇と議会の併存する国家)である。北の考えでは、天皇を取り囲んで、腐りきった重臣ども、高級将校群、高級官僚、それに旧藩閥にも等しい権勢をふるう財閥、これらを統制管理することが過渡期の主要な役割となる。そのために必要なのが、在郷軍人団会議(下級士官からなる軍人層)よりなる管理組織である。だが、北のこの構想からすれば、天皇は「裸の王様」にならざるを得ず、結局は「天皇制」は崩壊する。北の「国家社会主義」としての国家論は、このことの自覚の上に構想されていたのであって、途中からの変節などではないであろう。だからこそ、「日本改造法案大綱」を書き上げた後に、「国体論及び純正社会主義」に筆を入れ、それをさらに過激な方向で書き改めたのであろう。北は「乱臣賊子論」からもわかるように、終始「皇国史観」に組していないのである。この革命を実行するために、彼は法華経の行者になり、「天皇信仰」を超えた「大元帥信仰」を提唱しながら、少なくともレーニンのように青年将校中心の革命を嚮導しようとしたのではないだろうか。その際、彼は次の事を熟知していた。それは「契約」に基づく「法的な縛り」に代わる「道徳」(「愛国心」「忠誠」)の提唱である。
ミシェル・フーコーなどが指摘するように、権力(支配者)による「法秩序」「社会秩序」の押しつけ、は明らかに「外在的関係」である。既成の権力が崩壊すれば、当然の如く「規制の仕方=法秩序のあり方」も変わる。古代・中世の主従関係はある種の契約(恩賞、褒賞による)によって成り立っていたが、それは「下克上」によって絶えず破られてきた。近世江戸幕府に至って、永続的な政権維持のために、朱子学を徳川政権流にアレンジして取り入れ、「忠孝」や「忠誠」を道徳化することで、いわば、「上からの強制」という外在的な関係にオブラートをかぶせたこと、このような道徳化(徳義)は明治以降も採用され、「神道」「教育勅語」「軍人勅諭」などに残されたこと、このことを北は熟知していたがゆえに、「信仰」(「神道天皇信仰」に代わる「大元帥信仰」)を取り入れようとしたのであろう。これらの事は古賀さんの『北一輝論』の「第三部 天皇制イデオロギー批判」で詳しく論ぜられているので、これ以上は触れない。
続いて上のまとめの中の、③、⑥、⑧の問題について検討したい。
(3)北一輝の悲劇は何故に起こったのか?
『北一輝論』を読みながら、絶えず頭を離れなかったのは、彼はどのような革命を嚮導しようとしたのか、彼に「悲劇的結末」をまねいたものは何だったのか、という問題であった。
彼は国家を「有機体国家」と捉え、その「進化」を考えている。その機能としての「天皇」であり「議会」(国民)である。ここではいうまでもなく「国家」が主体であり、天皇も議会も「愛国心」「忠誠心」を以て国家に奉仕することを当然の義務とされている。一見すれば、両者は一体であるように思える。しかしそうではない。庶民に超越した国家は、庶民に対して上から「法」をお仕着せようとする。先述したように北は、道徳(あるいは信仰)を以て庶民の内側に「愛国心」「忠誠心」を呼び覚まそうとすることで、外からの強制ではなく、内側から働きかけようとした。しかし、それならなぜ、広汎な大衆運動を組織しえなかったのか?過酷な弾圧?どのように苛酷な弾圧化においても大衆の運動は繰り返し生み出される。このことは人類史が証明している。簡便のために卑近な例を示すことにする。それはナチズムとの比較である。
ナチの運動が、最初はミュンヘンのささやかな一地方政党から出発し、世界恐慌を契機に一挙に巨大な大衆運動に成長し、最後には政権を掌握して一つの新たな政治体制を樹立することになったことはよく知られている。それではナチの組織力とはどんなものだったのであろうか。『ナチ・エリート 第三帝国の権力構造』山口定著(中公新書1976)によると、おおよそ次のようだ。
「財界人、保守派の政治家、高級官僚、軍の首脳部、大土地所有者の援助が本格化したのは、ファシストがその独特のプロパガンダと組織力によって、大衆を掌握しうることを証明しえた後のことである。-政権掌握時の党員数は、イタリアの場合は、およそ25~29万人、ドイツの場合は、約138万人(1932年末)。政権定着後は、機会主義的便乗派のなだれ込みと、全体主義支配を可能にするための党分肢組織並びに各種の職能別の党付属大衆団体の発展により巨大なものになった。」(pp.35-6)
「1935年1月の時点でのナチスの中核…ナチ党帝国指導者:21人、大管区指導者:33人、管区指導者:827人、地区指導者:20724人、細胞指導者:54976人、街区指導者:204359人/総計:280940人-1937年にはこの数は約70万人を上回るにいたった。」(pp.37-8)
桁が違っていて比較にならない。確かにそのとおりである。古賀斌氏(古賀さんのご親父)が北派のオルグとして活躍したにもかかわらずである。次の久野収の嘆きがリアルに響く。
久野:2.26事件は人民のレベルまで届いていない。ぼくにいわせれば、あれはどれほど深刻でも、天皇の担ぎ方をめぐる争いでしょう。…官僚制の頂点として天皇を担ぐか、それとも官僚の垣根をぶっ壊して天皇を担ぐかという、天皇の担ぎ方の違いだというのが、ぼくの判断なんです。(p.386)
なぜこのような差異が生じたのか?ここではこれ以上に立ち入ることは控えたい。私見では、運動が内在化しえていないこと(北の国家構想は「人民レベルまで届いていない」)、それ故「社会革命」をともなわない単なる「政治闘争」に矮小化されてしまったこと、一揆、暴動(暴挙)の類で片づけられる程度に治まったたこと、このことが北の悲劇である。道徳はまだ極めて抽象的なものでしかない。(ナチもかかる理念は持っていなかったのではあるが)共同主観性(世界精神)を基盤にした「理性国家」が実践的にも目指されなければならない。
「ツングースのシャーマンは、神を自己の外にもつが、西欧のキリスト教(カントと読んでも構わない)はそれを内にもつ。違いは外か、内かでしかない。内なる他者(外)は依然として残る」(今や内側において内と外との対立が生じているという意味)。-ヘーゲル
否定は再び否定されなければならない(「否定の否定」)。
北の「世界聯邦」論はカントと同様に外的な結びつきでしかない。またスペンサー流の競争をもとにした帝国主義の革命化論(ハイエクの「新自由主義」にまでつながっているのであるが)。あるいは中国(当時の支那)革命論、満州進出論と対ソ連防衛論、また「排満興漢」論-北は一方では元のオゴタイ・カン(太宗)を評価しながら、こういう逆の発想もしている、また、一方でアメリカを「正義の代弁者」の如く評価しながら、他方で反米の立場をも打ち出している、など。これらの議論はいずれも外部からの政治領域での問題提起(政治戦略上の問題-政治主義、ご都合主義)となっている。例えば、北の「乱臣賊子」論には底辺の民衆が出てこない。せいぜいが、天皇と他の豪族や武家の統領、そしてその家臣の関係だけが問題にされているにすぎない。社会の下部構造を形成する人々の動きは全く見えない。北らの運動に比べてナチ運動の怖さは、それが一定の「社会革命」へと展開されていた点にあった。
再び、先の山口定の著書からの引用を以てひとまずこの稿を終えたい。
「1965.西ドイツの社会学者R.ダーレンドルフ『ドイツにおける社会と民主主義』-この著書の中の「ナチス支配下のドイツと社会革命」という章で、ナチスの支配が、少なくともその意図せざる効果として、ドイツ社会における「近代化」を大きく推進する役割を果たした「社会革命」であった(「ダーレンドルフ・テーゼ」)。」(p.ⅰ)
「要するにナチズムが、(1)その全体主義権力の力によって、それまでの地域社会、政治団体、家族、教会、大学に対するドイツ人の伝統的な忠誠心を破壊し、(2)その大衆運動を通じて下層社会の出身者を大量にエリートの座に押し上げることによって、それまでのドイツ社会における「社会的流動性」の欠如した「前近代的」なあり方を大きく破壊した、というもの。」(p.ⅲ)
「これらの一連の「近代化」論の立場からするファシズム論は、一面で、その国の「近代化」の巨視的な歴史的展開の中でファシズムがどのような役割を果たし、またどのような歴史的位置を占めたのかという問題を、これまでの性急な論難の姿勢には一歩距離を置いたところから冷静に考えてみようとする点でプラスの側面をもっていることは否定できない。しかし、他面では、そこでいう「近代化」の概念の多義性のゆえに、さまざまの問題を孕んでもいるのである。この「近代化」の概念の多義性は、実は、それぞれの国の歴史的発展の特殊性が各国の社会科学者や歴史家の基本概念の中に入りこんだ結果なのである。(pp.ⅱ-ⅲ)」
追記:古賀さんから(その1)に関して電話とメールで詳細なコメントをいただいた。深甚のお礼を申し上げたい。その中に、「北が自ら大元帥になる」意図は無かっただろうというご指摘があり、その点を考慮しながら、この(その2)の中ではその部分の表現を少し変えている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6108:160523〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。