「6月4日」を前にしてー劉暁波のために 劉暁波のために、劉暁波に代わって ー天安門事件と「08憲章」を一つにする存在
- 2016年 6月 2日
- 評論・紹介・意見
- 子安宣邦
[これは『天安門事件から「08憲章」へー劉暁波・中国民主化のための闘いと希望』(藤原書店、2009年12月刊)の序文として書かれたものである。「64」という数字さえネット上に登場することを許さない中国では「天安門事件」も「劉暁波」も忘却することを強制されている事件であり、名前である。そのような強制のないはずの日本でも、それらは忘れ去られているようである。だが隣国中国における苦闘する民主化運動に関心をもつことの薄い日本人にもともと忘れ去るようなものとして「天安門事件」も「劉暁波」も存在しなかったのかもしれない。とすればそれは日本における民主主義の決定的な弱さであり、欠点でもあるだろう。やがてくる6月4日を前にして2009年の文章をここに再録したのは、われわれの民主主義が中国の、台湾の、そして韓国の民主主義と共闘しうる21世紀的民主主義になることを私が強く願っているからである。]
1989年6月4日という日を歴史の上から削除するようにして2009年10月1日が来ようとしている。まさしくそうだ、20年前のあの朝の犠牲者たちの墳墓からの叫びを民主化の文字にして書き続けてきた劉暁波を拘束し、幽閉し、沈黙せしめることで、中国の共産党政府は60周年の祝典を行おうとしているのだから。己れ以外のだれのための祝典なのか。そこでなされた圧殺のあらゆる痕跡を消し去ってしまったその広場を、巨大な軍事パレードが厳重な警備の中で行われようとしている。
20年前の6月4日の未明、天安門広場で何があったのか。4月15日の胡耀邦前党総書記の死をきっかけに始まった中国の学生たちによる民主化を求める運動の行方を日本の私たちも固唾を飲んで見守っていた。その運動の中には私がその前年に北京で接した学生たちも必ずいるはずであった。5月20日にすでに中国の共産党政府は民主化要求と反政府運動を「動乱」と規定し、解放軍と公安部隊の投入を決定した。事実上の戒厳令を布かれたのである。天安門広場でハンストや座り込みを続ける学生とそれを支援する市民たちに確実に危機が迫っていた。だが学生も市民も人民解放軍と称する軍隊が人民に向かって発砲するとは考えもしなかった。私はいまこの文章を、旧い新聞・雑誌類を保存していたダンボール箱の中から20年前のこの事件を報じる新聞を探し出して書いている。
6月3日の朝日新聞の夕刊は「迫る軍市民ら阻む」という見出しで、「戒厳令下の北京で三日未明、郊外に展開していた人民解放軍の戒厳部隊約二十万人のうち数万人が市中心部に進出、学生が占拠する天安門広場近くまで迫ったが、急を聞いてかけつけた十数万人の学生、市民らに囲まれて動きがとれなくなり、同日朝に再び駐屯地に引き返し始めた」と報じている。ここから4日未明に起きる惨劇をだれが予想しただろうか。だが翌4日の朝日の朝刊は刻々と迫る危機を分刻みで伝えている。「四日0.00 数千人の戒厳部隊を乗せたトラック約四十台が学生・市民らが築いたバリケードを破り、天安門広場方向へゆっくりと進み始める。0.30すぎ 天安門広場南側で待機していた戒厳部隊二百数十人が市民に威嚇発砲。未明 ロイターによれば、武装した兵員輸送車に乗った戒厳部隊がバリケードを突破して、天安門広場に到着。広場の群衆を解散させるため、発砲を始めた」と報じている。
そして私たちは4日未明に起きた天安門広場の惨劇を聞くことになるのである。「中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場を戦車と装甲車で制圧した。火炎瓶、投石などで抵抗する学生らに向けて発砲、学生、市民の側の死者は市内の一部の病院が明らかにしただけでも百五十人を超した。死者数は数百人規模、二千人との説もあるが、当局側は一切明らかにしていない」と、6月5日の朝日新聞は「乱射・制圧 死者150人超す」という一面に大見出しを掲げて報じている。毎日新聞は「武力鎮圧 死者2千人超す?」の見出しを掲げ、また読売新聞の見出しは、「軍乱射、死者3000か」となっている。だが3日から4日未明にかけての事態の推移を分刻みで伝えた新聞報道も、4日未明、戦車・装甲車を伴う戒厳部隊が天安門広場に向けて進撃し、5時半に武力をもって広場を完全に制圧したということを報じるだけで、その制圧という実際は何であったかを報じることはない。いや報じることはできなかったというべきだろう。
武力制圧の真相を知るものは制圧の当事者か殺された死者たちだけである。事件の証言者たる報道者は最初から排除されている。生き残ったものも背後に残した事態を証言することはできない。天安門広場の制圧の当事者は直ちに武力制圧の痕跡を抹消し、証言を封殺した。4日未明、天安門広場で何が起きたかは、伝聞としてしか報じられない。だから5日の新聞も、「一部学生たちによると、軍は最後まで残る学生に一斉射撃を浴びせた。また、広場のテントに居座る学生を装甲車で圧殺したとの情報もある。軍はこのほか広場周辺と進軍途中で、阻止行動に出る数十万人の学生や一般市民に無差別な銃撃を加えており、各種情報を総合すると、幼児や老人、妊婦を含め死者は三千人ともいわれ、負傷者は一万人と推定されている」(読売新聞)と、伝聞として広場とその周辺における武力制圧の様子を報じているのである。
天安門事件について、われわれはこの事件直後の伝聞による情報以上の真相をたどることはできないのだ。広場を脱した学生リーダーの一人紫玲が広場の武力制圧について語ったテープが10日の香港のテレビに流された。「四日午前三時ごろ、ハンスト中の同胞、つまり候徳健、劉暁波らが『ここで犠牲になる必要はない』と言い、広場を去る安全保証を軍とかけ合うため出かけた。だが兵士らは撤退を仲間に伝えようとする記念碑上の拡声機をこなごなに撃ちこわした。泣きながら、撤退を始めた。軍はせいぜい強制排除をするぐらいと考えて、テント内で寝ていた仲間は戦車の下敷きになった。二百人死んだと言う者も、広場全体で四千人以上死んだという人もいて正確な数字は分からない」といっている(朝日・12日夕刊)。
武力制圧の真相とは、事件の中心にいた人物においても、あの新聞の伝聞による情報以上に出るものではないのだ。それこそが武力制圧というものの本質なのである。その真相は制圧した当事者か殺された死者しか知らないのだ。これは武力制圧的な事件、あるいはジェノサイドといわれる事件がもつ悲劇的な本質である。だから制圧の当事者は「事件はなかった」というのである。
中国当局は事件による死者は319名であり、天安門広場からは軍の説得によって午前5時までにデモ隊は退去し、広場における一人の死者もいないと発表した。「広場に座り込んでいた学生は、最後に強制的に撤退させられた者も含め、一人も死ななかった」と9日夜に共産党の北京市委員会は発表した。4日未明に広場を辛くも脱出した学生たちだけではない、あの激しい銃声と戦車の轟きとを聞いた北京の市民ならだれもが、この発表を真実とはしなかったであろう。だが事件の真相を隠蔽し、事件を歴史的事実としても抹消しようとする操作は中国当局によって徹底してなされていった。そして20年前のこの事件をまったく知らない、知らされない無垢な青少年が中国ではすでに育っている。
事件は共産党国家によって体系的に隠蔽され、抹消されたのである。何が抹消されたのか。中国の民主化を求め、未来の希望を民主的中国に求めて天安門広場を埋め尽くした学生・市民たちがいたことである。そして、その声とそれを発した学生・市民たちを共産党政府とその軍隊とが文字通り銃弾をもって圧殺したことである。だが事件の真相が隠蔽されたのは中国だけではない。日本でもそうである。日本政府をはじめ大方の日本人は、天安門広場における死者はいなかったという中国当局の公表で内心の疑念にケリをつけ、中国とのつき合いを復活させていったのである。
私もそうだ。六四事件以降、私は二度北京を訪れ、天安門広場に立った。そのとき私は事件の死者たちを思い起こしたか。思い起こしていない。あるいは思い起こすことを避けていた。私も知らず知らずに中国当局に同調し、内心の疑念にケリをつけていたのである。これは間違っていると私が知ったのは、昨年12月の民主的中国のための「08憲章」のネット上での公表と、劉暁波の同時的な当局による拘束を知ってである。天安門事件にケリをつけてはならないことを、中国の当局が私に教えたのである。
なぜ劉暁波を中国当局は拘留したのか。彼を「08憲章」の起草者あるいは提唱者の一人とみなしてか。もしそうなら、まず「08憲章」自体が断罪されねばならないだろう。たしかにネット上での「08憲章」の公表と、とその支持者の署名活動は妨害された。だがそれが反国家的活動として断罪されたのではない。むしろ「08憲章」などはなかったかのように当局によって無視されたのである。だから憲章の署名者たちも当局にいやがらせをされても、拘留されることはない。もちろんこうした事態をめぐる情報を私が正確に知るわけではない。だがはっきりしていることは、劉暁波は直ちに拘留され、拘留され続けていることである。そして今年の6月24日に当局は彼を政権転覆煽動容疑で逮捕したと報じられた。なぜだ。なぜ彼だけが政権転覆煽動の容疑者であるのか。当局は彼の何を恐れているのか。彼が「08憲章」の起草者あるいは提唱者であるからではない。ましてやその署名者であるからではない。当局が恐れているのは劉暁波が背負っている「64事件」の数知れぬ死者たちである。
劉暁波は1989年の「64事件」以降二度投獄され、さらに三年にわたる労働教育という監禁的刑罰に処せられながらも、彼はなお「64事件」の死者たちを背負い続けてきたのである。彼が書く中国の希望ある未来のための詩も文章もその死者たちが書かせたものだろう。当局が恐れているのは、劉暁波が背負う天安門事件の死者たちの声と「08憲章」を書き、それを支持する人びとの声とが一つになることである。劉暁波とはこの二つを一つにする人である。彼は中国国内における「64事件」の生き証人であり続けてきた人である。それが中国当局にとってどれほど邪魔なことかは、彼がこの20年間に受け続けてきた恐るべき政治的、暴力的禁圧の過程が示している。
劉暁波は「08憲章」の起草者でも、提唱者でも、署名者でもあってはならないのである。彼がこの憲章の背後にたしかに存在するならば、「64事件」と「08憲章」とは歴史的に一つになるだろう。「64事件」の死者たちとこの憲章を支える生者たちとはその声を一つにするだろう。死者たちと生者たちとの共闘がここに成立するだろう。当局がもっとも恐れているのはこの共闘である。だから劉暁波はこの共闘成立の現場から除かれねばならないのである。
なぜ死者たちとの共闘を、あるいは死者たちを彼らは恐れるのか。それはあの傲慢な生者たち、あの朝の死者たちをもう一度殺し、歴史から消去してしまおうとする傲慢な生者たちだけの都合でこの国家の現在が作り出されているからである。希望のない、しかし繁栄の様相だけを増大させている国家の現在が。だがそれはあの傲慢な生者による国家の私物化だけを意味するのではないか。公の私物化とは本質的に不正であり、腐敗はそこから限りなく増殖する。この不正を暴くものこそ、あの傲慢な生者によって抹消され、忘却された死者たちであり、その死者たちを負い続ける生者であるだろう。
この不正との戦いは死者との共闘である。彼らは死者たちを恐れている。死者たちを背負い続ける生者を恐れている。だからもしわれわれが希望を未来に見出しうるするならば、歴史から抹消され、忘却されようとする死者たちをわれわれが背負い続けようとすることによってである。当局による劉暁波の拘留が私に教えたのはこのことである。
私がここで死者との共闘をいうのは、中国のためにだけいうのではない。日本人である私が「64事件」をいい、「08憲章」をいう言葉は、其処と此処との共闘の言葉である。私は劉暁波についていいながら、この日本での死者たちを背負った私の戦いのあり方を考えている。いま日本の新しい首相によって東アジア共同体が公然と提唱されている。それははたして東アジアのわれわれに希望を告げる共同体であるのか。繁栄の現在をただ長引かせるためのあの傲慢な、死者を忘れた生者たちの連帯の模索でしかないのではないか。アジアの其処と此処における死者たちを背負ったものの戦いだけが、アジアのわれわれの間に希望の共同体を築いていくだろう。
2009年10月1日を前にした9月30日にこれを記す。子安宣邦
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.06.01より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/60915080.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6129:160602〕
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