今、日本の政治に問われているものは何か(七)、(六)、・・・(壱)
- 2011年 2月 10日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治日本の政治に問われているもの
今、日本の政治に問われているものは何か(七) 2月10日
『名古屋発どえりゃあ革命!』という本がある。河村たかしが選挙向けに緊急に出したものである。革命かどうかはともかくとして河村の好きな「どえりゃあ」ことが愛知知事選、名古屋市長選、市議会の解散などを問うトリプル選挙において実現したことは言うまでもない。上京した河村たかしと大村秀章が小沢一郎とエールを交換している映像も流された。これについては政権交代後の民主党に対する不信と失望が示されたことは間違いないと思う。民主党の首脳陣は彼らを政権の座に誘った民意について認識も判断もできていなかったことを示している。彼らは「風」とか「世論の支持率」などに一喜一憂しながら、国民の意思が何であるかに向いあってはこなかった。「政権の行っていること国民に十二分に伝わっていなかった」という紋切り型の言い訳を繰り返すだけであることがそれを物語っている。
政権が国民に必死で隠していること、メディアがそれに同調しているようなことがあっても大体のところを国民は知っている。国民の意思は国民の心の動きであるが、それを実現することが政治の根本であり、俗にいう民主主義である。この意味や怖さから目をそらせば自分の目線も認識もずれてしまうのである。政権の座にあること、つまりは権力の座にはあることはそこでしか見えないことがあるのかも知れない。そうした場にあることではじめて見えることもあると想像しえる。そこでかつて自己が構想していた政治イメージと矛盾するものを意識(認識)したのなら、それらを思考の過程を含めて明らかにする努力をしなければならない。その言動を国民は見ているのである。政策や政治構想の変更や転換があってもよい。それを自他に示す努力は必要であり、それは政治家の言動として現れるのだ。そして国民の不信や失望はその言動に対して発生するのである。信頼をもある。自分たちがまだ首の皮一枚であれまだ国民の意思を代表しているというなら、思いきった政策転換でもしたどうであろうか。小沢一郎問題では裁判を見守り政府や政党とし動かないこと、沖縄基地問題の見直しを含めてアメリカとの再交渉をやること、まず格差是正と雇用問題の解決をやること、消費税も含めて財政再建は時間をかけてやるなどでいい。社民党と再連立して衆院での予算関連法案を通すこともいい。首の皮一枚残っているというのは怖いものなしでこれに向けて進むことだ。アメリカとメディアを恐れなければできるはずだ。まず小沢一郎と手を組み公約を守ることの再検討からやればいい。民主党の存在意味を問うことになるが道はそこしかない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0334:110210〕
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今、日本の政治に問われているものは何か(六) 1月31日
記憶に残る言葉は少ない。同じように記憶に残る政治的事件も少ない。菅や仙谷が政府や民主党の中枢にあって行っていることなどすぐに忘れ去られていくだろうし、誰も記憶に留めはしないだろう。これに比べれば小沢一郎の政治資金規正法での起訴事件は不幸な出来事ではあるが疑いもなく記憶に残るに違いない。それだけこの事件が現在の政治を象徴するようなところがあるからだ。僕らはこの事件の意味するものを想像力によってつかまえ、現在の政治に対する認識と判断を明瞭にしなければならない。それは同時に現在の政治に対する異議申し立てを意味するものでもある。
この事件については僕も多くを論じてきたし、巷には多くの見解が流布されている。あらためてこの事件について述べれば、これはまずアメリカや日本の旧勢力が小沢一郎(鳩山前首相も含めて)を政治の中枢からの排除に動いたことである。アメリカが彼らを反米的な存在として排除すること、それに共同の利害を持つ旧勢力(自民党・財界・官僚・メディア)が加担し、民主党の首脳が合流しているのである。ここには戦後の日本の世界的な枠組みを保守しようとする側のそれを超えて行こうとする部分への警戒と排除がある。一般には小沢一郎を擁護し、権力側の動きを批判する部分は反米的な意図を持つものの発言、あるいは政府や権力への反感を持つ部分の胡散臭い発言と見なされてきたのかもしれない。だがこの事件はメディアの宣伝してきた疑獄事件的な性格付与を越えてその政治的性格が明るみになりつつある。このことは今後さらに明瞭になって行くだろうと思える。そうであれば、僕らはアメリカを含めた小沢排除に対する抵抗運動を広げつつ、現在の政治的混迷の理由になっている日本の構想不在を克服する努力を続けなければならない。戦後の日米関係を見直すことは同時に中国関係を見直すことでもあるが、それは日本の政治・経済の現在から未来にわたる構想を提起することである。ここでアメリカや旧勢力の政治(軍事)・経済・社会の構想を超えて行くものを提起できるかどうかに課題はある。小沢排除に対する異議申し立てとは直接つながらないかもしれないが、小沢擁護に含まれる期待を考えればこれはつながることである。今回の小沢排除の動きは戦後の日本の権力構造の問題(特に検察やメディア)を露呈させた。自由や民主制の実際を示したのであり、日米同盟の根幹にあるとされる共通価値(法治国家)なるものの実態を示しているのだ。この意味では戦後民主主義への疑念とそれを超えていくという課題が試されてもいるのだと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0319:110201〕
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今、日本の政治に問われているものは何か(五) 1月27日
よく色眼鏡で見ているということが言われる。それはイデオロギーや宗教的な理念で物事を判断しているという意味でもある。これはその種の立場にある人の存在があらかじめ分かっているという意味でそれに戸惑うことはない。ある種の疑念を持って対応できるからである。だが色眼鏡でない見方や判断というように思われているものはそうでないから厄介である。例えばメディアは党派に偏しないとか中立であるとか称されそれが常識のように浸透しているから難しいところがある。だから、僕らは色眼鏡をかけてはいないと称している面々の色眼鏡を見ていなければならないし、そこに届く眼光が必要である。
僕はこの間に何となく浸透してしまった感のある北朝鮮や中国の《脅威論》についてこうした事を考えている。アメリカの日本のコントロールを受け入れる政府や民主党の面々はアメリカ軍の抑止力やそれがアジア地域の安全のための公共財であるという。そして国民的は北朝鮮や中国の脅威論を受け入れているように思える。これはアメリカの思想というフィルターを通じた見方であり
北朝鮮や中国の立場に立てば別の見方ができるかもしれないという疑念は抱いていない。まして日本は独自の見方ができるのだという考えに立とうとはしない。これには理由がある。アメリカは日本の思想的支配のためにそれを押し付けているということを隠す。日本が受け入れたような形態をとってアメリカ自身は背後に身を隠すという方法を取ってきた。日本の政府やメディアが本当のことを国民には知らさないという伝統がここにあるためだ。脅威といっても北朝鮮と中国は同じではないにしてもこれが基本的にはアメリカの見方であり、アメリカというフィルターのかかったものであることを確認しておかなければならない。北朝鮮や中国は本当に脅威なのかこの自問に答えるにはそれがまず必要である。田母神ですら北朝鮮の軍事的脅威論は虚妄であると言っているが、北朝鮮や中国が日本の脅威というのは根拠の疑わしいものである。北朝鮮や中国の統治権力が一党独裁であり、それがもたらす脅威感は存在する。中国については歴史的に周辺諸国に与えてきた威圧感が復活しつつある面がある。日本人の中国に対する意識は明治維新前後に帰りつつある。この傾向は大きくなるかもしれない。しかし、この脅威感(嫌悪感)はアメリカが抱いているものとは違うはずである。日本人は北朝鮮や中国の統治権力に対する脅威感があってもそれが軍事的対立(戦争)に発展する性格のものではないと認識しているはずだ。脅威論を疑い中国との独自の関係構築の道はあると思える。
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今、日本の政治に問われているものは何か(四) 1月26日
「法華の太鼓」という言葉がある。打てば打つほどその音色はよくなるという意味だが、民主党政権での施政方針演説などは逆でやればやるほど貧相になる。この政権の政策や政治構想と旧政権(自民党と公明党)とほとんど変わらなくなるかそれよりも悪くなってきている。このまま行くと政権維持のために民主党枯れるという状態になる。政治的な思想や哲学)を持たず政局を演出する才や技術だけは長けた連中が政府首脳だからが始末は悪いと言える。
アメリカが中国と北朝鮮への軍事的緊張を進めている根底には先述したように中国のアジア通貨提唱や動きへのけん制がある。アメリカのアジア戦略は日本と中国が独自の経済圏の形成的な動きを封ずることであり、アメリカの枠組み《ヘゲモニー下》でのアジアの再編(対応)を構想しているのだと思う。日本の東アジア共同体構想を懸念し、日米同盟深化の名の下に日本をアメリカの枠内でしか動けなくするのもそのためである。日本独自のアジア関係の構築を警戒し、この動きを反米的動きとして排除しているのである。これらは用意周到に進められ、アメリカの意を受けた民主党の面々もアメリカの戦略に乗せられ唯唯諾諾とそれを受け入れている。日本のメディアはこれらを密約のように背後に隠し伝えないが、僕らにとって問題は日本の政党や政治家、あるいはメディアがアジアの発展の中で日本がどうあるべきかのビジョン《大きなデザイン》を欠如しているのだと思う。アメリカの衰退とアジアの発展の中で、戦後にアメリカとの関係を中心にしてきた日本の存在をどう変えていくのか、あるいは続けていくのかが問われているのだ。僕はその晩年に中国との共同的な関係でアメリカと対抗して行く構想を提起した広松渉のことを想起する。広松のイメージにはかつての「近代の超克」や三木清の「アジア的協同体」の構想を念頭においていたものだ。広松の提起は曖昧なところが多いが方向性の提示としては示唆的なところがあった。僕はかつて「近代の超克」が提起された時とは時代も基盤も違うことを自覚しているが現在はアジアとアメリカとヨーロッパの三つの圏の共時的存在を考えることが重要になってきていると思っている。
日本が戦後の政治・経済の枠組を変えていくこととアメリカとの関係の枠組みを変えて行くことは同じであり、ここには中国やアジアの新たな関係が媒介《枠組み》の柱になるように思う。その意味でアメリカの枠組みを通した中国やアジアの関係ではなく日本の独自の構想が必要なのである。政治《政党や政治家》の感度や動きが一番保守的だが、そこに戦後日本の政治的惰性をみる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0315:110128〕
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今、日本の政治に問われているものは何か(参)
新聞は米中首脳会談を華々しく報じている。「米中 2強が組む」がその見出しである。だが、この報道にはこの会談の両国の狙いもその結果も伝えられてはいない。朝日新聞の社説は2009年の秋にオバマが訪中した時のような米中主導時代の提唱のような声は聞こえてこないと論じていが、この会談が儀礼のような側面が強かったことを物語っている。9年の秋の訪中ではオバマが中国を世界で最も重要な国と語ったとして大騒ぎになったことが想起される。これは日本での報道が誤訳に基づくものであったというおまけ付きのものであった。
中国にとっては国内の統治権力の問題がありアメリカに基軸通貨問題があるが、この両国の課題に触れるような会談ではなかった。米中関係は軍事を含む緊張度を高めてきたがこれが解消される兆候は見えなかった。この会談を見ながら思うことはアメリカと中国に対して日本はどのような立場を取ればいいのかということであった。アメリカの思惑という枠組みの中でしかに中国との関係を構想も実践もできない日本の現状への苛立ちも含めてである。この間に中国とアメリカは一方で軍事的緊張を強めてきた。オバマ政権による軍事的緊張緩和の期待は裏切られ、北朝鮮と韓国、あるいは台湾を使ったアジアでの軍事的対立の演出の様相すら見える。アメリカにとつては中国の軍事力の警戒や脅威を提示することは本当の意味での軍事脅威を感じているからではない。アメリカの本当の狙いは中国が経済発展を通して通貨(元)の自立化の阻止であり、基軸通貨としてのドルの補完を維持することである。元のドル離れ《基軸通貨としてのドルからの離反》はアジア圏でのもう一つの通貨の提起になる。日本や周辺諸国のそれに唱和する動きが出てくることにもなる。アジアでの基軸通貨の動きになる。「ドルが基軸通貨であるのは過去の遺物」という胡主席の発言が報道されたが中国にはその思惑があると言える。このことをアメリカは最も恐れているのだ。経済基盤が衰え、経済力の裏付がなければドルの基軸通貨としての維持は困難になる。それはドルが基軸通貨であることの多大な利益を失い、金融による世界支配も困難になる。このためにはアメリカはアジアでの中国の政治的孤立(政治的包囲)を取る。それがこの間の軍事的緊張の演出である。アメリカは中国の統治権力の構造《共産党の一党独裁》からくる周辺諸国の不安を脅威に結び付け、軍事的対抗措置を強める。これがアジア地域安定の公共財としてのアメリカの抑止力というわけである。アメリカの対中国戦略の手のひらで踊るだけの菅首相の姿から」は日本の独自性の主張は見られない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0307:110123〕
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今、日本の政治に問われているものは何か(弐)
過日、僕の家の近辺で「世田谷ボロ市」が開かれていた。暮れの12月15日と16日、新年の1月15日と16日に毎年行われる恒例の市である。433年前に「楽市楽座」の一つとして生まれ今日まで続いているらしい。雑踏のような人混みの中で骨董品などに目をやりながら、甘酒のはしごをして歩いただけだが何となしに人を魅せるものがある。祭りの持つ自然な匂いや雰囲気がそこにはあるのだろうと思う。時間を経ても持続してきた人の気分をそそるものといえるが、今の政治に欠如しているのはそれだろうとも思えた。
内閣改造も菅首相の反転攻勢とやらもパットしない。地味であってもどこか人を魅了するものが必要だがそれがない。外交政策についての菅の会見をテレビで見たがおやと思わせるものは何もなかった。経済外交推進をいうがこの中心がTPP参加交渉の決定をめざすというのではいかほどのこともない。これについては後で詳しく論じたい。中国の位置が大きくなる中で対中国、対アメリカの関係をどう変えていくのか、そこでの戦後的枠組みをどう超えるかの構想がない。戦後の冷戦構造の中で成立した日米安保という枠組みの継続である日米同盟論の深化というだけではアメリカの日本支配の再承認ということにしかならない。アメリカの軍事力が膨張する中国の軍事力の抑制力になる、また地域安定の公共財であると菅はいう。この発言の背後にはミサイル防衛の強化によるアジアでの軍拡競争、自衛隊の海外派兵(集団自衛権行使の枠組み緩和)、軍事産業の拡大が目論まれている。衣の下の鎧ではないが民主党の面々の発言にもそれを聞き取れる。冷戦構造下でも専守防衛論でアメリカの軍事パートナー化の要請に対する抵抗は存在してきた。吉田ドクトリン(軽武装―経済重視)下の保守本流はアメリカとの距離を確保しようとしてきた。この枠組みを「一国平和主義、消極的平和主義」としてかなぐり捨てアメリカの要請する軍事パートナー化へ進むのが菅の外交戦略である。オバマ政権がブッシュの政権の外交戦略を踏襲しているように菅政権は小泉―安倍政権の踏襲者であり、彼らは民主党内の改憲論者であることを見ておかなければならない。日本がアメリカの軍事外交路線から自立し、そのことでアジア諸国の信頼を勝ち取ることが安全保障の道である。アメリカとの対等関係によってアジア諸国との対等な関係や共同体の構築は可能になる。冷戦構造時代のソ連脅威という共同幻想を中国脅威に変えるだけで思考構造は継続する事態を反省的に見れば、アメリカの軍事戦略からの自立が中国との関係に新たな道を開くことも見える。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0303:110121〕
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今、日本の政治に問われているものは何か(壱)
「真夏日」という言葉ほどの喚起力はないが、「真冬日」という言葉が聞かれる日もある。やはり寒い日が多い。なんとはなしに少年期までを過ごした郷里の鈴鹿降ろしと呼ばれる寒風を想起する。それに身を切られる思いの中を中学へは自転車通学をしていたのだった。これらの季節の中で感受する寒さは自然に属しているものだが、僕らは今、この日本列島の中でもう一つの寒さを感受している。政治や社会に反応するこころ(心的)の動きである。そこでまた、僕らは寒々としたものを感受しているのだ。
民主党政権は新年早々に内閣を改造し強い風当たりを避けようと試みている。だが政府や党への批判的な反応が緩むことはない。大手メディアの御祝儀のような解説は一時的なものだろう。政権交代を支えた人々のこころの動きは冷えて行く一方であり、これは反小沢グループという政府や民主党の面々が権力の中枢を占めている限り変わることはない。選挙公約(マニフェスト)が次々と裏切られて行くに比例して人々の民主党への期待は萎んでいくが、これはその内容の是非如何の以前のことのように思う。それは民主党の面々がマニフェストで示された政治的見識や構想を自らの頭で考え抜いたものであるのかという疑念であり、それこそつけ刃的に整えた作文ではないのかという疑念である。民主党の面々は自らに向けられたこの不信と疑念にこころいたすべきだろうが、政党や政治家の資質への問いかけであることを受け止めるべきだ。政治家として自立しているかという疑念であると言い換えてもいい。民主党のマニフェストの第一ともいうべき「官僚主導の政治主導への脱却」には政治家の自立ということがあったはずだ。政治家の自立とは政治的見識や構想を自分の経験と練磨の中で持ち得ているということである。明治維新以降の国家権力の官僚主導の中で政党や政治家はそれらに育成され、その役割を果たす存在であっても自立した存在たりえた存在は少なかった。だから名目が国民国家であっても官僚主導の国家であり、国民の意思(代表)が主体となる国家ではなかった。政党や政治家が官僚から自立し国家権力を仕切るには現在の権力システムの肥大化の中で何処まで可能かという問いはあるが、この自立は前提である。これは政治家の見識と構想力であり、人々が政治家を代表として認めるのはこの点においてなのである。菅や仙石らの政府あるいは民主党の面々への不信や疑念はかれらの政治的な見識や構想に向けられているのである。どんなデザインを持っているのか、何をやりたいのかという疑念なのだ。これを念頭におくべきだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0299:110116〕
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