「連帯」その後のトピックス
- 2011年 2月 13日
- 評論・紹介・意見
- 「連帯」とは何だったのか?ワレサはスパイだった?岩田昌征
2月6日、突然ポーランド人の友人が一冊の本を送ってきた。それはリシャルド・ブガイの自伝『自分自身と他の人々について』(The Facto、ワルシャワ、2010年)であった。ブガイはワルシャワ大学経済学部出身で、1980年の自主管理労組「連帯」に初発からコミットしていた活動家である。ポーランド統一労働者党(共産党)体制を崩壊させた1989年6月4日の準自由選挙で国会議員に選ばれた。それ以前に体制側と「連帯」側の間でもたれた円卓会議の重要な参加者であった。ブガイは「連帯」活動家の多数派がネオリベラリズム路線を旧体制崩壊後突進するのに対して、「連帯」運動本来の労働者階級性をできる限り保持しようとした政治家であり続けた。1989年後半に「連帯」運動に立脚して成立した非共産党政権は、皮肉なことにその運動の基幹部隊であった重化学工業の労働者階級にとってまさに「失われた20年」の始まりをなした。もちろん、ポーランド経済社会にとって「失われた20年」ではなかったにせよだ。ブガイの語るところを抄訳(要約ではなく)しよう。
―マゾヴィエツキ政府成立後、円卓会議の社会経済問題に関する合意は、事実上放棄された。政治的バリケードの両サイドの(経済的)自由主義者たちは握手した。ここで、「ジェフリー・サックス作戦」が重要な意味をもった。このアメリカのエコノミスト(今日は社会民主主義者を称するが、当時はオーソドックスなネオリベラルの見解を確信的に提起していた)は、ジョージ・ソロスの援助で送り込まれ、ポーランド経済救済再建の叙情的プログラムを展示した。サックスは、OKP―「連帯」派の議員グループ:岩田―の下院議員と上院議員の圧倒的多数を見事にチャームした。したがって、議会が急行列車的テンポで「バルツェロヴィチ・プラン」を採択したのは、不思議ではない(p.40)。
旧共産党勢力は、旧い共産党イデオロギーを脱ぎ捨て、社会民主主義的政治勢力に変身することに成功し、1993年の選挙で大統領と首相を獲得した。しかしながら、クワシニェフスキ大統領もミレル首相も北米西欧志向を貫き、イラクへポーランド軍を派兵することを決め、また非累進的な比例税法を採択した。まさしくブガイの書くように「両サイドの(経済的)自由主義者たち」がリードする時代が到来したのである。ここで犠牲になったのは、労働者階級に基礎を置く社会民主主義である。
―社会民主主義者たちは、自分たちの本領で降伏して、脇舞台にチャンスを見出そうと決めた;エコロジー、両性平等政策、性的少数者差別克服(p.61)。
ブガイが言う「脇舞台」の諸課題は、類的人間存在にとって決して「脇」として片づけるわけにはいかない本質的テーマであろう。資本主義と社会主義に貫通するといえる。しかしながら、旧共産党系であれ、社会民主主義系であれ、資本主義批判をする社会主義者がほとんど消失してしまったからといって、資本主義問題、つまり資本主義害が社会から消失したわけではない。かくしてブガイは書く。
―逆説的なことに、「旧社会民主主義」の諸要素は、むしろ右翼の旗の下に登場している諸政党の綱領の中で特殊な形で救出されている。それは広義の社会経済政策(社会保障や国家介入)、そして国民国家への関係性〈「連邦的ヨーロッパ」要求への熱狂の欠如〉にかかわる。同様に、共和制民主主義の普及宣伝(と「手続き的」自由民主主義への懐疑主義)は、旧社会民主主義によって尊重された人民権力の理念により近いように思われる。もちろん、右翼はその社会国家的バージョンにおいてさえ、伝統的社会民主主義とは深刻に相違する。しかし、「伝統的」社会民主主義と「新時代的」社会民主主義との間に存在する距離よりも大きく離れていると必ずしもいえない(p.62)。
このような社会分析の目をもっていたからこそ、左派のブガイは前ポーランド大統領・右派の国民主義者レフ・カチンスキー―2010年4月、カチンの森被虐殺ポーランド将校慰霊式典に向かう途中、スモレンスクの航空事故で悲劇的死を遂げたポーランド政府高官96人の一人となった大統領―の経済顧問に2009年春に就任したのであろう。かくして、労働者の利益を直接代表する政治政党が不在だったとすると、日本人の私たちには一つの疑問が残る。あの伝説的な人物、正真正銘の工場労働者・電機工、「連帯」労組のカリスマ的議長、そして自由ポーランド初代大統領レフ・ワレサは、何をやっていたのか。ここに一冊の本がある。スワヴォミル・ツェンケィエヴィチ著『レフ・ワレサ問題』(ZYSKIS-KA、2008年、ワルシャワ)である。著者の詳細な調査を信用すれば、ワレサは1970年12月29日にSB、つまりポーランド公安にスパイ「ボレク」としてリクルートされ(p.12)、1976年4月19日に現役スパイ網名簿から取り除かれた(p.86)。公安SBへの協力に疑問が生じたからである。ことの真偽は現在でもポーランド社会にくすぶり続ける後味の悪い問題である。ブガイもこのワレサにふれて次のように書いている。
―彼は勤労者の希望と利益を支持することは何もやらなかったが、レシェク・パルツェロヴィチの頭上に傘を広くさしてあげた。
―SBとの接触の抹消行為が彼の大統領職に影をさしている。自分の地位と内相アンジェイ・ミルチャノフスキの職権を利用して、彼にかかわる諸文書を入手した。おそらくは確実に、彼自身のファイルを浄化するために、ともかく諸文書の多くは返却されなかった。しかしながらもっとも不埒なのは、アダム・ホドゥイシに関する彼の発言「一回裏切った者は再び裏切るだろう」である(ホドゥイシは「連帯」と秘密に協力した恐らくただ一人のSB高官であって、それ故に共産主義法廷で数年の禁固の判決を受けた)。ホドゥイシは、ワレサの意向でクダンスクの要職から排除されて、かわって前SB職員が彼のポストに就いた(p.187)。
以上のように厳しい筆使いであるが、ブガイの総合的ワレサ評価はプラスである。毛沢東に関して、功が7分、罪が3分という中国の共産党評価に近いであろう。自由主義の方向であれ、共産主義の方向であれ、社会変革は、私たち凡人の常識や良識や美学の範囲を越えているということであろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0337:110213〕
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