「九段線」の正体見たり・・・ハーグ仲裁判決と中国政権
- 2016年 7月 20日
- 評論・紹介・意見
- 中国南シナ海田畑光永
新・管見中国(13)
南シナ海のほぼ全域に自国の主権や権益が及ぶとする中国の主張に対して、フィリピンが国連海洋法条約に違反するとして、国連の仲裁裁判所(オランダ・ハーグ)にその確認を求めた仲裁裁判で、同裁判所は7月12日、「中国の主張に法的根拠はない」とする判決を下した。
この裁判は2013年にフィリピンが単独で提起したもので、一方の当事者である中国は国連海洋法条約第259条の「海洋境界画定に関する条約規定の解釈適用に関する紛争」、あるいは「歴史的湾あるいは歴史的権限に関する紛争」などは、締約国が選択的に適用から除外できるという規定を盾に、同裁判所が審査すること自体が違法であるとの立場から仲裁にかけることに反対し、裁判に参加しなかった。
「九段線」の正体
南シナ海における領有権紛争が特異なのは、特定の島嶼の帰属を複数国が争うというのでなく、中国が一方的に同海域にいわゆる「九段線」なるものを設定し、その内部の海面、島嶼のすべてに自らの主権(「管轄権」という言葉を使うことも多い)が及ぶと主張しているため、紛争が各所で発生していることである。
当然のことながら、各国から「九段線」なるものの根拠を問う声が上がったが、これまで中国は「中国人民は南海(南シナ海)で2000年以上の活動の歴史を持ち、南海諸島を最も早く発見し、命名し、利用し、最も早くかつ持続的、平和的、有効的に南海諸島および当該海域で主権と管轄を行使してきた」として、それは「歴史的に形成された権利」である、と言う以上には、具体的な根拠を示してこなかった。
したがって、フィリピンの提起に答えて中国も仲裁裁判に参加すれば、「九段線」の根拠についても当然、議論が交わされるはずであったのに、それはかなわなかった。しかし、12日の判決が「九段線に法的根拠なし」としたことに反駁する形で、翌13日、中国国務院新聞弁公室(報道室)が「中国は南海におけるフィリピンとの紛争を交渉を通じて解決する立場を堅持する」という長文の白書(中国語で約2万字)を公表したので、それによって、中国の主張の根拠を検証してみよう。
その前に俗に「九段線」といわれる動物の舌の形をした破線がそも何物であるかに触れておきたい。
中国南端の海南島の西南沖から始まりベトナム沿岸に沿って南下、ベトナム東南沖から東へ転じてマレーシア沖からフィリピン沖へ北上、台湾の東南沖で終わる九本の破線が「九段線」である。中国は歴史的権利と言うが、この線自体は歴史的というほど古いものではなく、今回の「白書」によれば、1947年に中国政府(当時の国民党政府)が『南海諸島地理志略』、『南海諸島新旧名称対照表』を編纂した際に『南海諸島位置図』にこの破線の図をつけ、翌48年2月、その『南海諸島位置図』を含む『中華民国行政区画図』を公表したというのがその経緯である。
したがって「九段線」そのものは歴史的に伝承されてきたものではなく、第二次大戦後の産物であるから、現代の国際社会の規範でその正当性が論じられなければならないものであることは言うまでもない。
「九段線」はこのように「歴史」と言われるほどのものを持っていないが、それによって囲まれた海域が中国のものであることは歴史的事実だ、というのが、中国の言い分である。
そこで「白書」はその根拠としていかなる記述をしているか。
まず各時代の古文書の数々を持ち出してきて、それらに中国人がこの海域で活動していたことが描かれ、島に名前をつけたり、生産活動をしていたことが記録されていることを挙げる。
近世の明清時代以降になると「中国漁民は毎年、東北風に乗って南沙群島海域に南下し、漁業生産活動に従事し、翌年の西南風に乗って大陸に帰った。一部の漁民は島に逗留し、井戸を掘り、土地を開墾し、建物を建て、家畜を飼った。・・・南沙群島の一部の島嶼にはそうした生活の跡や墓などが残されている」と書く。
さらに19世紀以降では、英、仏など外国人の記録にも、「海南漁民」がナマコや貝を採り、あるものは島で暮らしていることが書かれ、1940年の日本文献『暴風の島』や1925年米国海軍発行の『亜州領航』第4巻にも中国漁民の南沙群島における生活ぶりが描かれていることを指摘している。
さて、これらの記録がすべて事実を告げているとしても、それが「九段線」で囲まれた海域にあまねく中国の排他的主権が及ぶ証拠となるであろうか。様々な島に「中国人」(どこまでをその範疇に含めるかは難しい)が住んでいたとしても、今のフィリピン人やベトナム人の祖先はいなかったという証拠にはならない。むしろ「いた」と考えるほうが自然である。現に領有争いが起きているということは、中国以外の地域の住民もこの海域で生産、生活をしていた伝統があるからこそではないのか。
それからここに挙げられている例示では、大雑把に(緯度、経度を特定することなしに)引かれた「九段線」の内部の島のすべてに中国人の足跡があると断定できないことは明らかである。自国の沿岸から遠く離れた他国の沿岸にまで「主権」を主張するなら、そのすべての島嶼について、領有の根拠を持たなければならないはずである。
一番肝心なのは、「主権」とか「管轄」とかを口にする以上は、時の中国大陸の権力がこの広大な海域にどのように及んできたかを明らかにすることである。しかし、それらしきことに触れているのはわずかに宋代(10~12世紀)に「両広地区」(広東・広西)に「安撫使が置かれ南疆を総绥(ソウスイ)した」とあるだけである。「安撫使」という役職についての説明はないが、この言葉のもつ意味と「南疆」(南の境界)を「绥」する(うまくやる、安んずる)という役柄からイメージされるのは、国内を管理するというより、異郷との関係を処理する役職である。
おそらく地方長官を意味する「道尹」とか「総督」とか、あるいはそれに類する役職がこの地域を対象に置かれたことはなかったか、歴史書を必死に探したがついに存在せず、わずかに網にかかったのが宋代の「安撫使」だったのであろう。
こう見てくると、国際社会からの「九段線の根拠を示せ」という声に答えるはずの白書だったが、結局、あの海域に中国が特別の歴史的権利を持っていること示す証拠はなかったと見ざるを得ない。その点では仲裁裁判所の判決が「南シナ海における中国による歴史的な航行と漁業は、歴史的権利というよりは、公海上の自由の公使を示すものであり、中国が南シナ海で歴史的に独占的な管理を行使した証拠はない」(『毎日』7月15日の「判決要旨より」としているのを、皮肉にもこの「白書」は裏付ける結果となった。
「交渉による解決」と「核心的利益」
ところで、中国政府が発表したこの「白書」のタイトルは前述したように「中国は南海におけるフィリピンとの紛争を交渉を通じて解決する立場を堅持する」となっている。そして交渉をしているの最中なのに、仲裁裁判所に持ち込むのはけしからんとフィリピンを非難している。
また中国は南シナ海の問題を自国の「核心的利益」と位置づけ、絶対に妥協はしないと公言している。
これらは中国独特の言葉使いなので、誤解のないように若干補足しておきたい。
南シナ海での紛争の特徴は「九段線」の存在であるといったが、もう1つはアセアンなどの国際会議や二国間で、確かに話し合いや交渉が行われている一方で、中国が各所で埋め立てなど現状変更をどんどん進めていることである。通常は交渉の場が設定されれば、紛争現場での行動はやめるものだが、中国はそうはしない。現場での現状変更を進めることで交渉を有利にし、相手に妥協を強いるというのが、中国の交渉戦術である。乱暴な話ではあるが、じつは今、中国はそういう外交を展開せざるを得ない状況にあるのだ。
その理由を説明するキーワードが「核心的利益」である。その意味は「絶対に妥協できない問題」ということである。この言葉が最初に登場したころはチベットや台湾の独立問題が対象だった。チベットや台湾が独立することは絶対に認めないという意味で使われた。一時、尖閣諸島が「核心的利益」に入るかどうかが話題になった。中国の新聞も入るように書いたり、反対に書いたりして混乱したが、どうやら今のところ尖閣は「核心的利益」ではないようである。
しかし、おかしくないだろうか? 北京や上海でなく、そんな遠い辺境がなぜ「核心的利益」なのか。これには中国の政権(王朝といってもいい)の性格が独特だからだ。中国の政権は現政権に至るまで、毛沢東が言ったように「銃口から生まれた」。だから強い政権、あるいは政権が強いときには版図は広がった。逆に政権が弱くなると周辺から反乱がおこり、版図は縮まった。チベットや新疆ウイグル自治区で独立運動が広がったり、台湾が大陸との関係を見直したりというのは、政権にとっては絶対に見たくない悪夢なのだ。
現在の政権が成立してすでに60年以上が経過したが、その間、国民合意による政府の誕生、政権交代の許容という、いわゆる民主国家への転換を政権が断固拒絶し続けているために、逆に現政権は歴代王朝が味わった、腐敗などによる権力の衰亡、国内混乱、政権滅亡という昔ながらの恐怖を今、身に迫って感じている。
だからチベットや台湾が政権にとって「核心的利益」となるのだ。では人のほとんど住んでいない南シナ海までがなぜ「核心的利益」なのか。今、国内では党・政府幹部による汚職の蔓延、貧富の格差の拡大、経済不振など、政権にとっては向かい風ばかりが吹いている。何とかしなければならない。国内状況を急に改善する方策は見当たらないから、どうしても目を外に向ける。去年は対日戦勝70周年を盛大に祝う軍事パレードを行ったり、アジア・インフラ投資銀行(AIIB)を創立したり、ヨーロッパ外交に力を入れたりと、派手なイベントを繰り出したが、そろそろネタも尽きて、今、最も力を入れているのが海洋進出なのだ。新造軍艦や巡視船の勇姿が報じられ、新しい埋め立て飛行場に一番機が飛んだなどというニュースが政権にとって極めて重要なのだ。
中国政権としてはとにかく海洋権益を拡大して見せて、求心力を高めたい。そんな内情は人には言えないが、そばで見て入れば分かるだろう。今までさんざん中国相手に儲けたアセアン諸国は、ここで多少のことには目をつぶっておれのわがままを聞いてくれたっていいじゃないか、というのが本音であろう。
ずいぶん身勝手な理屈ではあるが、今の中国政権にとってほかに選択肢はない。来年秋には5年に1回の中国共産党大会が開かれ、トップ7人の内の習近平、李克強2人を除く5人が交代する。これから1年はそれをめぐって政治は緊張する。そこへ今度の仲裁判決である。万座の中で恥をかかされたようなこの事態をどう切り抜けるか。
この問題での日本の安倍政権の態度には腹わたが煮えくり返っているはずなのに、ウォンランバートルのASEM首脳会合で李克強首相は30分という短時間とはいえ、安倍首相との会談に応じた。なんとか苦境をのりきる方策を模索する姿がそこに見え隠れするような気がするのだが。(20160718)
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