2016ドイツ便り(7)
- 2016年 8月 14日
- カルチャー
- 合澤清(ちきゅう座会員)
1.フランス産赤ワイン「Rothschild」を飲む
最近のことだが、ドイツ人の友人の家でホーム・パーティをやることになり、いつもは手土産にチョコレートを買っていくことにしているのだが、この日はあいにくゲッティンゲンまで行く暇がなく、Hardegsenの飲み物専門のスーパー(Getränke Markt)でワインを買うことにした。いろんな種類のワインが並べている中で、あんまり安いものを買うのも気が引けるし、ドイツ人のところにドイツワインを持参するのも笑われそうだと思い、お手頃の値段のフランスワインを選んだ。因みに、日本でドイツワインやフランスワインといえば、バカ高い値段を想像しがちであるが、こちらではせいぜい10ユーロも出せば、周囲の人たちに「高いワインだね」といわれるのである。
今回買ったフランスワインは、9.99ユーロした。名前は「Rothschild」(ロスチャイルド、ドイツ読みではローチルトとなる)で赤ワインである。われわれ日本人(特に私)は、こんな名前にはあまり拘泥せず、産地国と値段しか見ない。まあ、面白くていいんじゃないだろうか程度に考えて、花と一緒に買って帰った。
そしてPetraさんに見せた途端に大騒ぎになった。「なにこれ、アメリカのローチルトじゃないの」「あんた、ローチルトが何をしたか知らないの。私の考えではヒトラーは彼らの操り人形だったんだよ」「どうしてこんなのを買ったの」…、と矢継ぎ早に言われた次第。急いで抗弁して、これはフランス産であって、アメリカのものではない。その証拠に「エドモン・ローチルト」となっているじゃないか、ローチルトも元々はユダヤ系の人たちなんだろ、云々。「いくらしたの?」と聞かれたので、正直に「大体10ユーロした」と答えたら、高いのねとPetraさんはしぶしぶ承諾してくれた。
ここで少しロスチャイルドについて復習しておきたい。彼らの祖先はナポレオン時代にフランクフルトで金融業を営んでいたユダヤ人で、ナポレオンのドイツ進撃の際に、危機を感じて逃亡した王侯からその財産の管理を委託され、それを元手にロンドンで株を売買して大儲け(シティの株取引所では、当時ロスチャイルドがいつもそこに立っていたという円柱に記念の刻印が残されているという)、世界的な金融業者ロスチャイルド家の礎を築いたのだと昔読んだ本(確か、新潮社から出版されていた『ロスチャイルド』という本だったと思う)に書かれていた。
その後は、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、アメリカに子供や孫を配置して、鉄道や銀行(「ドイツ銀行」は、ロスチャイルド銀行とも呼ばれる)など、多くの事業に手をだし、個人企業家としては世界最大の規模と富を手中にしていると言われる。
彼らは裏で、ナチスのスポンサーだったとも言われているし、実際にナチスの時代にあっても、彼らは無傷(ゲーリンクに空港で丁重に出迎えられたという記録もある)だったことは確かであるが、なにもこれはロスチャイルドだけに限った話ではない。世界中の大企業、大富豪が、一方では「反ナチス」を唱えながら、他方でナチスへの財政支援をしていたことは周知の事実である。スイスの銀行はこの種の典型とも言われる(戦後、ナチの隠し資金を長いこと保管していて、占領軍によって強制的に接収されている)。日本でも、軍部が南方戦線に侵略の方向を転換した背景には、三井財閥の意図があったという。
さて話を再び元に戻して、肝心のフランス赤ワイン「Rothschild」の味であるが、Petraさんは「まずい」という。「名前のせいじゃないの?」と聞いたら、「それじゃ、あんたも呑んでみたらどう」と言われて飲んでみた。なるほど、重い感じの舌触りがする。「僕の好みじゃないな」というと、「やっぱりRothschildはダメだね」といわれてしまった。それでも空にしたのだが。
招待してくれた友人の実家は、フランケン地方である。早速自慢のフランケンワインの1リットル入りが2本出された。フランケンワインを飲み比べた経験は初めてだったが、なるほど味が微妙に違うのが分かった。もちろん、Rothschildよりこちらの方がはるかに美味しいことは言うまでもない。つい飲み過ぎる。
ドイツでも飲酒運転は禁止されているそうだが、この日来ていたもう一人のドイツ人の友人は、私と同程度に飲んでいたはずなのに(Petraは控え気味)、平気で車を運転して帰って行った。やはり彼らは体質的に強いらしい。
2.Braunschweig訪問記
ニーダーザクセン州の第二の都市(第一は、ハノーファー)Braunschweig(ブラウンシュヴァイク)に友人の車で出かけた。この日は終日ぐずついた天気で、雨が降っていたかと思うとちょっと晴れて来て、またすぐに雨になる、といった繰り返し(ドイツの天気の典型?)。そのため傘は手放せないうえ、上着も着たり脱いだり忙しい。おまけに霧雨となると、足元はびっしょりになる。
行き帰りはもちろん「アウトバーン」を使ったのだが、友人の話では夏場はあちこちで工事を行うため、各所で渋滞が起きるのだそうだ。この日も何度か渋滞に巻き込まれながら、それでもおよそ片道90キロ位の道のりをそれぞれ1時間半ぐらいで往復した。
車中では専ら彼女の早口のドイツ語(われわれ日本人にはいつも大変な早口に聞こえるものだ)のシャワーを浴び続けていた。時々は分かることもあるので、その時にはこちらとしても元気づいて、何か自分でもよくわからない意味のことを喋るのだが、大抵は聞き流して(意味不明なことがかなりあるため)、曖昧な相槌に終始している。その内眠気に襲われることもままある。一番困るのは、質問される時で、こればかりは曖昧では済まされない、もう一度言ってくれと聞き返しながら、今度は真剣に聞くようにする。こういうキャッチボールが語学の練習ではないだろうか、などと多分に虫のよい考えをしている。
Braunschweigにはこれまでも何度か来たことがあった。ゲッティンゲンからICEに乗ればおよそ1時間で来れる。但し、駅から中心街までは市電かバスか徒歩(もちろんタクシーの手はあるが、使わない)で、これまでは専ら徒歩ばかりで行ったのだが、30分以上は歩かされる。今まではこの町と相性が悪かったのか、大抵はすごい暑さの中を、とぼとぼと歩いたものだった。Braunschweig=「暑い」というイメージは、その時からしっかりと心に刻まれている。
しかしこの日は全く違っていた。そのせいなのか、この街そのものが始めてみる所のように新鮮で違ったものに思えるのだ。とにかくゲッティンゲンなどと比べて大きいし、都会である。比較的新しい建物が多いのは、この街が戦災で焼け野原になった証拠だと彼女は言う。街中には最近建てられたと思われる近代的な建物も多くみられたが、彼女は顔をしかめていた。折角の景観がぶち壊しだということらしい。なるほど、古い教会を覆い隠すようにビルが建っているのはやはり無粋としか思えない(東京に住んでいると日常茶飯事なため、こんなことには無感動になるのだが)。
しかし、広大な公園(日比谷公園や新宿御苑などとは規模が違う)が市街地の中心部に広がっている様子は、さすがにドイツの都市だけあると感心する。緑地と居住空間が一体化しているのは誠に羨ましい。
車を駐車場に預けて、まず向かったのはSchloss(城館)である。雨を避けるという意味もあったが、まずBraunschweigの歴史を知りたいと思ったからだ。今では、SchlossはSchlossmuseum(博物館)になっている。入館料3ユーロ/一人で、2時間はたっぷり楽しませてくれる。
Braunschweigのそもそもの出発は、12世紀にこの地に居城をかまえたハインリッヒ・ライオン王(Heinrich der Löwe)-ライオンのように勇敢だったため、この名前がついたと言われる-に由来しているという。確かにこの邦の紋章はライオンの図柄である。
そして、この博物館には、このライオン王以後の歴代の君主の肖像画(写真も含む)が並んでいる。彼らが使ったと思われる豪華で華やかな家具類、調度品(コーヒー茶碗や灰皿、ピアノ、書き物机や座イス、など)が陳列されていたが、椅子のほとんどが絹張りで、すごい光沢を放っていたのが印象深い。プロイセン王(というよりもドイツ皇帝)来訪の際に用いる椅子も謁見の間だろうと思われる特別室に陳列されていた。別室ではテーマごとに分類した小型ビデオ画面を椅子に座って眺めながら、画像と解説を同時に楽しめる装置もあった。ただ、この部屋は空調が程良く効いていたのと、ドイツ語の解説を聞いてもさっぱり理解できなかったため、やたらに眠くなって、時々こっくりと舟を漕ぎながらしばらく座っていた。
一番面白くて、目を覚まさせてくれた部屋は、金や銀を使って作られたビアマグ(Bierkanneと呼ばれる)で、何と重さが小さめのものでも5キロ、それにビールが4リットル入るというから、およそ10キロの重さになる。こんなものを持ち上げて、どうやって飲むのだろうか?白鵬なら呑めないこともないだろうが、われわれ並みの人間なら、持ち上げるだけでも重労働で、とてもビールを飲む雰囲気ではないだろう。蓋やジョッキーの胴体部に施された装飾がまたすごく凝ったもので、蓋には中央に鞭をもった現場監督が立ち、周辺には鉱石を掘り出すもの、それを砕くもの、モッコで運ぶもの、などの労働者(あるいは奴隷労働者)の姿の人形が立体的に配置されていた。またジョッキーの周りには狩りの様子や宮廷の様子などが線画で描かれていた。持ち手には裸の女性が、乳房を出して後ろ手に縛られた(?)ようなポーズで立体的に彫刻されていた。
こんな非実用的なものを、ただの遊び心でつくらせたものであろうが、金と暇を持て余した貴族階級の退廃ぶり(今日のブルジョア階級も同じかもしれないが)を感じさせるのに十分な思いがした。それにしても、蓋に付けられた人形はどんな意味をもつのだろうか?自分の権力の誇示だとしても、わざわざ下層階級の労働する姿を蓋にくっつけて楽しむというのは、どういう心境であろうか?残念ながらこの博物館は撮影禁止で、一枚の写真もない。
BraunschweigのRathaus(2枚)
そこを出て、しばらく旧市街地を散策した。相変わらず雨は降ったりやんだりしている。市庁舎(Rathaus)の建物は立派なものだったが、それでも建築年度は新しい(19世紀)ようだった。この街の象徴の教会(ドーム)では、ちょうどその前辺で結婚式のセレモニーをやっている最中だった。花束をもって頭に桂冠をかぶった3歳ぐらいの女の子がとっても可愛かった。
BraunschweigのDom(前で結婚式のセレモニー)
農林業が中心だった時代の名残なのか、花婿と花嫁が直径20センチほどの太さの丸太を双方から力を合わせて鋸を引きながら切るというかなり原始的な事をやらされていた。見事に切った丸太に触ってみたが、かなり固い材質だった。
ドームの中は、古めかしい宗教的な絵画や彫刻と、超モダーンな現代アート彫刻で表現されたイエス像とが奇妙な調和を見せていた。
旧市街地の古い商店街の雰囲気はなかなか良かった。戦災を免れたのであろうか、いくつかの古い建物も目に付いた。以前には感じなかったのだが、改めて魅力的な街なんだなと思うようになった。この街にあるブラウンシュバイク工科大学(と今は呼ばれているが)は、ドイツ最古の大学の一つだという。また大数学者のガウスは、この町で生まれたそうだ。その後はゲッティンゲン大学教授を務めている。数学者のデデキントなどもこの街にゆかりがあるらしい。住んでみたい雰囲気をもった美しい街だった。東洋人の姿も多く見かけた。
残念だったのは、この街の美術館にフェルメールの絵があったのを見そこなったことだ。もう一度来なければと強く思った。
2016.08.14記
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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