本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(131)
- 2016年 8月 24日
- 評論・紹介・意見
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ポケモンGOの大ブーム
現在では、「ポケモンGO」が、世界的な大ブームとなっているが、実は、このことも、「時代の流れ」を考えるうえで、たいへん重要なポイントだと考えている。つまり、「ポケモン」や「ハリー・ポッター」などが人気化し始めたのが、「1990年代の半ば」であり、この前後から、「目に見えないもの」に、人々が興味と関心を持ち始めたものと思われるのである。別の言葉では、「モンスター(妖怪)」や「魔法使い」などの非科学的、かつ、非合理的と考えられた分野に、世界中の人々が熱中し始めたわけだが、このことは、私の想定する「心の座標軸」のとおりに、世の中が動いている証拠の一つでもあるようだ。
つまり、「西暦1200年から西暦2000年」という期間は、「西洋の時代」であり、人々の関心は、「目に見えるもの」に向かっていったわけだが、実際には、「唯物論」が信じられ、また、「物質」や「商品」の代表的な存在である「お金」が大膨張したのである。しかし、「20世紀の後半」から始まったことは、「実体経済の成長」に陰りが見えるとともに、未曽有の規模での「マネー経済の大膨張」でもあったが、現在では、この点にも、大きな転換点が訪れているようにも考えられるのである。
具体的には、「西暦2000年から、東洋の時代が始まり、人々の関心は、唯心論などのように、目に見えないものに向かい始める」ということが、「心の座標軸」が示すことであり、今回のブームは、まさに、この点を象徴するような出来事とも考えられるからである。ただし、この時に考えなければいけない点は、「このブームが、いつまで継続するのか?」ということだが、実際には、短期間で終了する可能性も存在するようである。
つまり、すでに「仮想現実」、すなわち、「コンピューターマネー」となった「現代の通貨」が、今後、「紙幣」という「現実の物質」に置き換わった時には、「お金の価値」が、急速に減少するものと思われるからである。別の言葉では、「1991年のソ連」のように、「通貨価値の激減」に見舞われる可能性のことだが、このような状況下では、「ゲーム」に使う「お金」と「時間」が急減することも想定されるのである。
ただし、今回の技術革新については、将来的に、さまざまな応用が可能なようにも感じている。そのために、一刻も早く、世界的な「国家債務」や「デリバティブ」の問題が解決されることにより、世界中の人々が、新たな商品の開発に邁進する時代が訪れることを願っているが、この時に必要なことは、やはり、「マネー経済の正常化」であり、また、「マイナス金利の解消」でもあるようだ。(2016.7.25)
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壺を被った現代人
東洋学には、「壺中の天地」という故事があるが、具体的には、「薬売りの老人が壺の中に入るのを見た人が、一緒に、その壺の中に入れてもらい、さまざまな経験をした」という話のことである。また、この言葉は、現在、「俗世間を忘れ、一人で楽しむ」、あるいは、「嫌な仕事よりも、ゲームやスポーツなどの趣味に没頭する」というような意味合いで使われているようである。
あるいは、「現実世界に目をそむけ、自分の都合だけを考える場合」にも使われているようだが、この時に必要なことは、「なぜ、多くの人が、このような状態に陥ったのか?」を、深く分析することでもあるようだ。つまり、「経済成長」により「社会の組織化」が発生した結果として、現在では、多くの人が「サラリーマン化」し、同時に、「社会的な疎外感」を感じているようにも思われるのである。
別の言葉では、「巨大社会の部品」と化した現代人は、「見える範囲」が狭まったために、一種の「無力感」を味わっているようにも思われるが、この結果として発生した事態が「壺を被ったような状況」のようにも感じられるのである。つまり、「自分の世界」に没頭することに「生きがい」を感じるとともに、「刹那的な生き方」をしがちになる傾向のことだが、この点については、既存の社会体制が継続する限り、今後も、このような人が増えることが予想されるようである。
ただし、「歴史」を振り返ると、このような状況下で発生する事態が、「既存の体制や価値観の崩壊」とも言えるようだが、実際には、「明治維新」の時に、それまでの「幕藩体制」が崩壊したような状況のことである。あるいは、「大東亜戦争の終戦時に発生した価値観の大転換」のように、「それまでの教科書に、墨を塗ったような状況」のことでもあるが、現在、私が危惧することは、やはり、「現代の通貨が、ほぼ瞬間的に、紙切れになる事態」である。
つまり、「国債価格の暴落」とともに、「お金の価値が激減する事態」のことだが、この時には、ほとんどの人が、「壺」を被り続けることが困難な状況が考えられるのである。別の言葉では、「嫌でも、現実を直視せざるを得ない事態」が発生する可能性のことだが、歴史を見ると、「この時に初めて、人々の目覚めが発生した」ようにも感じられるのである。別の言葉では、世の中が明るくなり、自分の可能性を追求し始める状況のことだが、現在の日本人にも、そろそろ、このような時期が訪れているものと思われるのである。(2016.7.25)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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