弱者・少数者であることを罪とする風潮が生んだ凶悪犯罪 - 相模原殺傷事件について思うこと -
- 2016年 8月 26日
- 評論・紹介・意見
- 相模原殺傷事件舩橋春子障害者
最初の印象。空気感とでも言おうか。それは地下鉄サリン事件や池田小事件の第一報を聞いた時と同じものだった。また一つパンドラの箱が開けられてしまった。今まで誰も試みなかった犯罪。でも、やってみたら案外たやすい。
テレビを娘に占領されるから、私の情報源はもっぱらインターネットだ。その日も機嫌よくテレビを見ている娘の横でパソコンを開き、そしてこの事件を知った。津久井やまゆり園は「支援区分6」の重度の障害者が多く利用している。
入所施設・重度の重複障害者・支援区分6。
世間の人にとっては聞きなれない、けれども私たちにとっては耳慣れた言葉がメディアに溢れ出す。津久井やまゆり園も地域との絆や理解を深めるために、コンサートや夏祭りを開催して地域住民を招待していた。ああ、これも娘が通う施設がやっていることだ。事件が起きた場所は、障害者を家族に持つ私たちにとっては実にありふれた場所なのだ。
私は事件当日も親の会の仕事で施設に行った。
でも、その日会った親はその間誰もこの事件を話題にしない。朝からおそらくテレビではひっきりなしに報道されているこの事件について知らないはずもなく興味がないはずもない。けれども、私を含めて誰も口にしない。まるでそんな事件などなかったかのように。
だが、今や親以上の時間を障害を持ったわが子たちに寄り添っている職員は、彼ら彼女らに対して適切に真摯に向き合ってくれていた。この事件について、わが子たちと話し合いを持ってくれたのだ。「子」と言っても、50歳になろうとする、私と同世代と言ってもよい「わが子たち」もいる。障害の重さも障害種別も年齢も異なる人々が利用している施設である。
最重度の「支援区分6」言語能力2歳代の娘は、おそらくいつも以上に緊張感を持って話をしている職員や仲間たちを前にして、話が分からないなりに何かを感じたのだろう。多動傾向があるのだが、離席もせず神妙に耳を傾けていたようだ。ここに施設利用者との信頼関係を大事にしている日常の施設の取り組みの確かさや、職員の努力を感じる。職員は命の大切さを、そして職員としていかに彼らを大切におもっているかを丁寧に説明してくれた。
子どもたちから出た意見は「怖いと思った」「自分の施設は大丈夫だろうか」。いつも通りの彼ららしい率直さだ。一方で「僕たちの職員さんはそんなことしない」「僕たちを勝手に不幸だと思わないでほしい」そして「犯人も僕たちのように支援が必要だったのじゃないか」という頼もしい発言もあった。
犯人が「生きている価値がない」と断じた障害当事者が彼を思いやっているのだ。
子どもたちから意見を求められた職員は、障害を持った彼らからいかに「たくさんの贈り物」を受け取ってきたか、それが自分の人生を変えるほどの影響を与えたことについて話し、心から信頼されるような職員になりたいという思いを伝えてくれたそうだ。障害を持ってもなお一生懸命生きている彼らがいるからこその支援者としての自分があると。
津久井やまゆり園もおそらくそれまでに職員施設の必死の努力があり、積み重ねたすぐれた実践も職員と施設利用者との信頼関係もあったであろう。
事件を受けて、厚労省が各都道府県、指定都市、中核市の民生主管部局長あてに「社会福祉施設等における入所者等の安全の確保について」という通達を出した。緊急時の対応体制を適切に構築せよ、夜間の施錠を徹底せよ、警察機関との協力・連携体制を構築し有事の際の通報体制を構築せよ、そして地域に開かれた施設運営をして地域住民との連携協力のもとに防犯体制を強化せよと。
この通達の意味するものは、あいかわらず現場の「自助努力」頼みでそれ以上でもそれ以下でもない。
通達を受けたからであろう、県からは県内障害者関係施設に「警棒」「サスマタ」の類が常備されているかというアンケートがあったそうだ。むしろ、こんなものを使った経験のある施設があるのかと聞いてみてほしい。今年度赴任したばかりの県の管理下の障害者施設の館長は施設内にサスマタが存在することすら知らなかったそうだ。そのことを責める必要はまったくないと思っている。
そもそもサスマタは一本持っていても意味がない。ネットでサスマタを販売している業者のHPによると、「当店では「威圧する係り」「転ばせる係り」「取り押さえる係り」を役立てるため、5本以上の設置を推奨しております」とのことだ。夜間の入所施設でせめて5人以上の職員を配置出来たらと思う。ところがそれだけの人数を配置できるだけの報酬単価はない。そもそも手薄になる時間帯など内部事情を熟知している元職員の犯行は、セキュリティを強化するだけでは防げない。
衆院議長・総理大臣は犯人の考えを否定する声明を出せ
犯人は二月に衆議院議長に犯行予告をしていた。彼は時代の空気に触発されてこの行為を正義と信じ、私たちの子供を殲滅すべき「敵」と見なしている。犯人は言う「障害者は不幸を作ることしかできません」と。優生思想に基づいてT4作戦という障害者の虐殺を行ったヒトラーと現政権が同じ政策をとることを期待しているのである。彼は衆議院議長や総理大臣という権力に対して己の忠義をアピールしている。
犯人の意図をおしはかれば、この青年は犯行予告のなかで自分は弱いわけではない、強者だと証明したかったのだ。ところが彼は生活保護費受給者であり、何らかの判断でそれが打ち切られていた。事実は彼もまた社会的弱者であり、本来「こちら側の人」であった。
わたしは、ここに、弱者、少数者であることが罪とされる異様な社会的風潮が形成されつつあることを感じる。たとえば在日朝鮮人韓国人排斥のヘイトスピーチである。「勝ち組」「負け組」という物言いである。弱者である青年の「思い込み」はこの風潮の中で形成され、凶悪犯罪は生まれた。類似の犯行を防ぐためにはセキュリティの対策以上に、この犯行に対して正当性を一切与えないことはもちろんだ。だが、そのためには市民社会が戦うべきはこの風潮であることを、互いが確認してほしいと思う。
犯人が言った「障害者は不幸を作ることしかできません」という言葉に対して、政府は障害者、その家族、支援者とともに怒りを感じているだろうか。もしそうであるなら、これを受け取った衆議院議長、総理大臣はきっぱりと犯人の考えを否定する声明を出してほしい。
そして、「保護者の疲れ切った表情」と犯人に犯行のダシにされた私たち「親」は、「自分らはほんとうに不幸なのか」と自問しよう。
障害者の親は不幸だと言うむきもあるだろう。なぜなら、重度の障害者が働く場も暮らす場も不足しているからだ。私たちはいまだに子供たちの生涯を安全に、生まれてきた喜びを感じながら終えられるだけの、十分な社会資源を持たずにいる。
そのために、とっくに子育てを終えた同世代の「健常」の子どもを持った親たちとは異なり、子どもが成人年齢に達してからも、幼稚園保育園の子どもを持つ親同様に毎日施設への連絡帳を書き、かなりの時間を親の会の活動などに割かなくてはならない。障害者を家族に持ったら、公的支援の足りない部分を「運動」で賄わざるを得ない。だから時として心身ともに疲れることもある。
だが、それは不幸ではない。障害を持っていても、家族に障害者がいるとしても、社会に対して人として尊重されたいと訴えることができなくなること、それが本当の不幸である。「健常」ではないこと、障害者であることが罪とされること、それが本当の不幸である。
それにしても、ただ自分の子どもの命を守るということが「時代の空気」と対峙する覚悟を必要とするようなことになるとは、20年前に子どもに障害があるとわかったときには、思いもよらなかったことである。
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