ポーランド国有企業私有化ビジネスに「山一」も参入
- 2016年 9月 8日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
Witold Kieżun ヴィトルド・キェジュンなる、一言で評すれば、ポーランド愛国者なる表現がぴったりの老知識人がいる。1922年生まれ。1944年8月、反独ワルシャワ蜂起に参加した人物だ。ワルシャワ蜂起博物館が編集製作した記録映画「ワルシャワ蜂起」に1944年8月23日にドイツ警察本部を襲撃した直後にとられた彼の軍装姿が残っている。経営管理の専門家である。
そんな人物が全身全霊の怒りを込めて、ソロス(ハンガリー系アメリカ人の大投機富豪)/サックス(アメリカ人経済学者)/バルツェロヴィチ(「連帯」政権初代財務相・副首相)の合作によるポーランド経済転形プログラムを新植民地主義に屈服したものと批判する書を2012年に出版した。私=岩田は、『転形の病理学』(Poltext、ワルシャワ、2013)の増補版で読んだ。
彼は、党社会主義的計画経済の資本主義の方向への転形に反対する者ではなく、賛成する者である。しかしながら、党社会主義を打倒した独立自主管理労組「連帯」の初志をきちんと書き記している。「〈連帯〉の理念・観念の出発点は、“社会主義はイエス、歪曲はノー”なるスローガンであった。・・・・・・、いわゆる生産手段の社会的所有を疑問視するものはいなかった。その私有化の要求を出した者はいなかった。レフ・ワレンサと活動家達は、“勿論、資本主義にもどらない。”と強調していた。それが労組員大衆の全面的確信であった。その当時(1980年代初:岩田)、バルツェロヴィチ型の改革の余地は、政治的にだけでなく、心理的にも全くなかった。ユーゴスラヴィアの経験から表面的には知られていた自主管理改革のヴァリアントが大きな牽引力を有していた。」(pp.79-80)
1989年に「連帯」政権が成立する。IMFや世銀や西側諸勢力の後押しで「ソロス/サックス/バルツェロヴィチ・プログラム」が登場すると、ワレンサ大統領、マソヴィエツキ首相、そして「連帯」運動の知識人軍師達の大部分、例えば、ゲレメク、クーロン、ミフニク、クチンスキ等は、その改革プログラムを熱烈に受け容れ、TV、ラジオ、大部数の活字メディアを動員して、世論をバルツェロヴィチ改革期待に染め上げた。「改革プロジェクトの外国人作者達を高く承認する雰囲気が形成された。それは、素晴らしく豊かな西側社会に対するポーランド社会の劣等コムプレックスに根源を有する。」(p.165)
Tygodnik Solidarność 『週刊連帯』(1996.8.12)にある人が次のようにその雰囲気を叙述している。「1990年以来、ソロス/サックス/バルツェロヴィチ・プログラム流の改革遂行の意義に関してある特定の人々のサークル内で疑念が表明されていたが、そんな疑念表明は、市民的死亡に等しかった。すでに万人が改革を支持していた。失業者が3百万に達したが、万人はまだ改革を支持していた。貧困と貧窮の領域が社会の半分を包み込んだが、万人はまだまだ支持していた。」(p.166)
私=岩田は「労働者大統領ワレンサの名義貸し」(ちきゅう座 9月2日)において、あたかも知識人やエコノミストがすべて私有化改革万々歳であるかの如き表現をしてしまった。上記に強調したように、市民社会における死亡宣告を覚悟で批判的意見を表明していた少数者も亦存在していた。
例を出そう。
労働党党首ヴワディスワフ・シワ-ノヴィツキは、1990年10月末に次のように書いた。「西側資本家達がかくもバルツェロヴィチ・プログラムに満悦している。私にとって、これは慰めではなく、警告だ。このプログラムは、我国にとってではなく、西側に有利だ。誰の負担で実行されるのか。ポーランド社会の貧困化、相当数の人々の栄養不良、老人や子供や若者の経済条件の悪化によって実行される。西側はこんな事情すべてに無関心だ。自分達の隣人達の苦難には私達は我慢できると言う周知の真理が働いている。」(p.169)
ワルシャワ大学教授アンジェイ・ザヴィシラクは、ワレンサ大統領任期のK・ビエレツキ内閣の工業大臣を辞任した。「バルツェロヴィチ・チームの政策の“工業殺し”は承認しがたい。」「予想もしなかった方面からの経済侵略にさらされつつある。国民的カテゴリーで考えることが重要だ。・・・・・・財務相(バルツェロヴィチ:岩田)の政策はポーランド工業を絶滅させるだろう。・・・・・・。航空機工業、電子工業、造船産業があぶない。国家の経済介入もまた必要だ。私の信条はリベラリズムであるが、同時にリアリストだ。」と言うような悲痛な言を1990年8月と10月に発していた。(pp.169-70)
かかるワレンサ大統領時代のポーランド経済は、西側経済人の目から見れば濡れ手に粟の大チャンスであった。その頃、ヴィトルド・キェジュンは、国際連合の経済援助専門家として、「ブルンジで働いていた。その国の首都にベルギーの植民者達が残していった美しい贅沢なクラブで国際コンサルタント達や専門家達と定期的に会っていた。私の名前からポーランド人であると悟った人物が近付いて来て言った。“ヴィトルド!ここで何やってるんだ、ポーランドに一緒に行こうぜ、ポーランドに行って来た所だ。そこじゃ2万ドルの口銭で中規模の会社が手に入るんだ。”当時、ブルンジでは賄賂の相場は10万ドルだった。」(p.Ⅻ)
米欧日の先進資本主義諸国の中で、日本だけが濡れ手に粟のチャンスに参加していないはずがない。この文脈で「労働者大統領ワレンサの名義貸し・・・」では紹介しなかった『私有化黒書』の第16表と第17表について若干語る必要がある。
第16表「それらの株式がNFIに組み込まれている諸企業」である。国有企業売却は、外資から見て、チャーミングな諸企業、例えば、当該国有大企業がポーランドの株式会社として自立し、世界市場で外資にとって競争相手となりそうな優良企業である場合、買収西側コンツェルンはすぐ見付かる。ワルシャワの「電話設備製造工場ZWUT」は、ポーランドと旧ソ連の電話機の生産と保全を殆ど独占していた。ドイツのシーメンス・コンツェルンは、ZWUTを買収した。キェジュンによれば、「ドイツ人は、ロシアにおける諸設備保全契約を含めて、ZWUTの全生産をドイツ国内に移した。ヴェングロヴのZWUT 工場(その他にワルシャワとビドゴシチに工場があった。:岩田)に4000人働いていたが、シーメンスは、9ヶ月分の補償金で彼等を解雇した。次いですべての工場建屋を破壊し、更地を住宅建設用地として売却した。」(p.137)
ポーランド政府は、自力であれ、外資による買収であれ、すぐに私有化の見込みがたたない諸国有企業512社をあつめて、15の国家投資ファンド NFI にそれらの「経営健全化」を委託した。ポーランド政府は、1993年にこれらファンドを設立し、諸外国のコンサルティング会社にファンド・マネジャーの仕事を一任したのである。
第16表には、15のNFI(国家投資ファンド)のファンド・マネジャー引受会社の実名と夫々のファンドに所属する諸国有企業の実名が413社記載されている。512社でないのは、データ未詳の故である。着目すべきは、第13NFIのファンド・マネジャーが「山一リージェント特別企画会社」(山一インターナショナル・ヨーロッパが50%、リージェント・パシフィック・グループが36%、ABCコンサルティングが10%と言う株式割合)であることである。「山一」がマネージするファンド所属のポーランド諸会社は、第331社から第358社までの実名称がのっている。
第17表「NFIに所属し、解体整理された諸国有企業 1990-94年期」には521社の国有企業の実名が記されている。所在地と所在県が明記されている。第13NFIの「山一」グループとして31社が記されている。第16表の28社より多い。第17表は、『私有化黒書』の附録としてのせられてあり、果たして本当に「山一」がポーランド国有企業31社を如何に処理したか、具体的記述はない。「解体整理」と記すのみである。
日本社会は、ポーランドの社会変革にコミットしていた。
工場労働者(電気工)ワレンサがポーランド第三共和国大統領になるまでは、新左翼を含めた日本労働運動が支援した。
ワレンサ大統領統治下の急進的資本主義化においては、証券会社等の日本資本が協力した。
日本資本が労働の支援を内政干渉ではないか、と非難したりすることはなかった。日本労働が資本の協力を内政干渉ではないか、と非難することもなかった。時代はグローバライゼーションである。
平静28年9月7日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6245:160908〕
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