日本とスミスー近代市民社会論をつきぬけて(その2)
- 2011年 2月 20日
- スタディルーム
- 野沢敏治
3 内田義彦――「日本のスミスになりたい」
内田義彦はその悩み多き青年期を戦中の全体主義と戦後の復興および民主化のなかで過ごしました。繰り返しますが,戦中の全体主義はこう説いていました。日本は欧米の帝国主義に対して東亜協同体を建設しなければならない。その建設主体は日本国家であり,それは人間協同体でもある。国民はその協同体に奉公しなければならない。19世紀以来の自由資本主義では社会は無秩序になる。そうかと言って,マルクス主義的な階級対立論であってもならない。その国家は日本には昔からあって変わらず,自然なものである。こういう国家観のもとで産業も生活も,学問も芸術も,宗教すらも,すべてが国策に応えるように「政治化」されていきます。
内田は高島や大河内と同じく,この「現代の神話」を破るためにスミス研究を媒介にします。彼らよりずっとダイナミックに,深く。こういう経済学史研究は国家主義を直接批判するものでなく,ずいぶん迂回的です。直接の批判は治安維持法のもとではできません。ですから,古典を研究することは丸山真男の言葉を使えば,一種の国内亡命でした。でもそういう戦争下での不自由がおよそ専門の学問的テーマを作るとはどういうことかを教えることになったのです。研究者の道を選んだ人はなにを勉強したらよいか,みな悩みます。自分の研究テーマは研究史を追うことから自動的に出てくるものではありません。研究テーマ以前の時代に対する問題意識をもち,それを専門分野の個別課題に変換しなければなりません(――「臆病」との闘い)。そうすることで時代をつかむために協働する学問分業の一環になろうというものです(――名を残すことの断念)。
内田は戦前の「日本資本主義論争」に参加しました。それは日本の資本主義は近代化されているか,まだ古い封建的なものを残しているかをめぐる論争でした。前者を認めるのは労農派の主張であり,後者を認めるのは講座派の議論でした。日本の経済の性格をめぐるこの種の議論はその後も続きます。戦後の高度成長期がそうです。最近に至るまでもそうであって,1980年代にはアメリカは日本企業に対して自分たちとは違うと議論しました。内田は講座派に近いのですが,それの型的な議論と異なる面もあって,こう考えました。日本の経済に古いものはある。でも,高度に発展していく面もある。たとえば,新興財閥が出てきて理研コンツェルンのように科学的な経営をする。工学的な技術者が法学部出身者と対抗して自分の能力と実力を元にして地位の向上を求める。戦時経済体制になると革新官僚が出てきて明治からの課題であった合理化を一遍に実現しようとする。内田はこういう新しいものの出現に対して敏感であって,それを組み入れた資本主義認識をしていくのです。これが他の者と異なる内田の柔軟性です。認識のダイナミズムです。こういう考えが戦後になって,左翼から体制認識のない生産力論だ,階級対立を軽視していると批判されます。左翼にとって戦後の課題は民主革命を社会主義に急速に転化することでしたから,知識人にその社会進歩にむけて協力を求めたのです。内田はこれにどう対応したか。
それに答える前にもう一つ。日本は戦後,再出発します。占領軍による政治犯の解放・財閥解体・労働組合の自由・農地改革,等。そして「新」憲法の発布による主権在民の宣言,天皇の人間宣言と象徴天皇化。こうして各分野での民主化が進行します。内田はそれに対して次のような態度をとりました。
1)戦後の民主化には浮ついたところがありました。昨日まで教学を説いていた文部省が『民主主義』(1948年)を刊行して,民主主義とはどういうものかを啓蒙します。映画「青い山脈」で歌われた歌詞に「古い上着を脱ぎ捨てて」とありましたが,その通りに民主主義が新しい上着となります。内田はそういうものと一線を画して「文化闘争」を提起しました。今までの封建的な人間は変わらねばならない。それは制度を変えれば変わることはあります。でも人間は内側から変わらねば本物ではない。戦後,「私人」の自由は解放されましたが,新たな共同体の形成とつながるような「個体」の成立はこれからの問題でした。それは内田自身の問題でもありました。内田は占領軍による日本の民主化に期待する面があったのです。占領軍は国家警察を解体し,村や町の自治体ごとに警察を置きなおします。それまでの警察は,根拠がなくても怪しいと思ったら,おい,こらと呼び止め,検束していました。それが民主警察となり,もしもしと腰を低くして声をかける巡査に変貌したのです。伴淳三郎という俳優が扮する駐在所物語に出てくるようなものです。しかし内田はその民主化が幻想であったことを後で覚ります。マッカーサーが3・1メーデーに禁止指令を出し,警察予備隊を創設し,レッド・パージを行なう,等。民主化は制度作りとともにそれを運用する日本人の主体の問題にしなければならない,「文化」の問題にしなければならないのです。文化とは俳句を作ったり,美術館に行くこととは別のもの,人の行動の仕方のことです。
2)日本は敗戦後,復興の構想を立てました。政府はこれからは加工貿易立国で立っていこうとします。日本は資源小国ですから,原料を輸入して工業製品を作り,それを輸出して外貨を稼ごうというのです。稼いだ外貨で近代化に必要なものを外国から買おうというのです。これでは日本が明治以来とってきた商工立国の道に,その結末である敗戦への道に戻ることになります。敗戦をもたらした経済構造を十分に反省せず,農工商のバランスある健全な産業構造と市場構造をもった国づくりを目指さないのです。内田はこれに反論し,対案を出します。
ちょっと前の論点に戻ります。革新陣営の側では今は資本主義から社会主義に向けて歴史を進歩させる時だと考えていました。その言うところの資本主義とは何か。それは搾取と階級対立を生むだけのものか。また言うところの社会主義とは何か。それは階級を廃絶して平等な分配をめざす社会であるとしても,西欧の近代資本主義から遺産として受け継ぐべきものはないのか。戦前に既にA.ジードの『ソヴェト紀行』(1936年)が日本にも伝わっていました。ジードはソヴェト国民が個性のない画一的なものの見方をしていることに懸念を抱きました。大塚久雄が戦後に市民社会は近代のものだけでなく社会主義においても問題になると指摘していました。内田にもその問題が入ります。平田はそれらの動きの延長上にあったのです。
さて内田は近代を考え直します。これまでのような上や外からの合理化でなく,下から自発的に作っていく方向を探っていきます。そのことが比較的よく出ているのが近代イギリスでした。それを経済学で表現したのがスミスです。そこでスミス研究に集中していきます。
スミスは内田にはこう見えてくるのです。スミスは重商主義を批判したが,重商主義には二つある。一つは封建的なものを残していた絶対王政期のそれ。もう一つは絶対王政を倒した市民革命後の近代国家が上から行なった近代化のそれ。後者を内田は「ウィッグ全体主義」と名づけました。スミスが批判したのは前者の重商主義でなく,後者のそれだ。スミスは後者の重商主義全的体主義に対抗して下からの近代化を進めようとしたのだ。そう内田は解釈し,論証していきます。その論証の裏には戦中の全体主義に対するある種の批判があったと見なければなりません。高島は後の『アダム・スミス』(1968年)でスミスを「近代化の闘士」と称しましたが,内田からすれば,スミスは実は18世紀イギリスの国家的「近代化」を批判していたのです。これはまったく独特なスミス論でした。戦後の進歩的知識人は戦前の天皇制絶対主義国家をどう規定するかと議論していましたから,内田のようなスミス研究を介した戦前・戦中の国家規定は近代的なものとなり,意外な感を与えるものでした。
それも次のことで分かるように,実に根底的な観点からするスミス論でした。私どもの学生のころよく「ラディカール」という言葉がはやりましたが,ラディカールとはこういうことを言うのです。内田は一度人類史の観点に立ちます。人間は人類発生の頃から今日に至るまで,自然との間で物質のやり取りをして命を維持していますが,それは他の生物と同じでありつつ,それと違って「労働」を媒介にしています。ある目的を立て,それを実現させようとして対象の自然法則を知り,道具の性質をも知ってそれを駆使する。そこに人間の人間らしい営みが現われ,人間が作られていくのですが――そんな当然のことをわざわざ意識しなければならないのは恐慌とか戦争という人類の危機の時です――,それがイギリスの近代資本主義という独特な歴史社会の下ではどう行なわれているか。それを研究するのが経済学だと言うのです。スミス『国富論』がその一つ。こういう経済観をするその裏には西欧と異なる他ならぬわが国の資本主義の下では物質代謝はどう行なわれているか,労働や経営はどう行なわれているかという国際比較の問題意識がありました。
内田のスミス研究は『経済学の生誕』となって現われます。これの内容展開はここでの課題ではありません。それは1920・30年代か50年代にかけての世界資本主義の動きとそれに対する日本資本主義の動き,その中での知識人の理論と思想の活動,そして芸術と政治および生活とのダイナミックな対抗と関連,それらを舞台背景にして内田の歩みを追わねばできないことです。これには時間がかかります。
さて内田のスミス研究はさらに続きます。日本では1950年代半ばに戦前並みの経済水準に戻り,戦後は終わったと意識されます。そしてその後,誰も予想できなかったことですが,高度成長が開始されます。その途中で1960年の安保反対闘争が起こり,その終結後に政治の季節は終って経済の季節に移ります。強圧的な岸首相から低姿勢の池田首相に代わります。技術は革新され能力は開発され,小林茂の『ソニーは人を生かす』(1965年)の状況が生まれます。それは高度な労務管理というべきものであって,工場長が現場のヒラと一緒になって汗水をたらすのです。企業一家の意識が増殖されます。戦前の鐘紡的な,または理研的な経営はもう特別のものでなくなります。その結果は生産性の上昇であり,GDPは上昇し,国民の生活水準は改善されます。人びとは「3種の神器」を求め,消費社会を実現しました。皆が持っているものを持ちたい,皆が持っていないものを買いたい。人は物質だけでなく,そういう社会的な地位を象徴するものを消費するようになったのです。それから大企業が中小企業を下請けにして系列化を進めます。今のナショナル(松下電器)は町の電気屋さんをかなり強制的に傘下に収めていきました。電気店は系列の製品を置くだけとなり,壊れた製品を持っていけば修理してくれるという技術を持たなくなります。消費者は少し具合が悪くなれば,すぐ買い換える。これが消費者の行動様式になります。(その裏では企業の生産財の減価償却が社会的に強制されて短くなります。)こうして日本人の意識は変わっていきました。日本はもうヨーロッパに学ぶものはない,これからはモデルのない航海に乗り出すのだ,21世紀の未来を語ろうという声が出ます。
その一方でガリガリの経済人・猛烈社員は相変わらずで,談合も繰り返されます。「正当」な自由競争や市場でのルールは軽視されます。
こういう時に人は精神的な空虚を感じ,それを埋めるために「近代の超克」を叫びます。日本的伝統への回帰が語られます。内田は高度成長のマイナス面を見据えながらも,この種の近代批判には反論しました。「近代」は本当に日本のものとなったか。日本では今でも所有の力が強くて人間が弱いではないか,日本の経済人はスミスが前提にしたような純粋力作型ではない,かといって純粋コネ型でもなく,コネを利用したパリア力作型である。日本の経済は欧米以上の超近代化を実現するが,他方で古きものを温存し再生産している。これは「市民社会なき資本主義」だ。
内田は日本資本主義をそう捉え,出口を見つけようとします。その時にもスミスが拠るべきものになります。スミスの分業論と(労働)価値論から,ただの経済理論のことでない,人間的で社会形成的な意義を読みとっていきます。
どうでしょうか。これはもう「見えざる手」による予定調和などというものではありませんね。国際分業に基づく自由貿易論でもありません。なじみになっていたスミスではありません。内田は以上のようなスミスを学問的にここにこう書いてあると実証していきます。そのことで彼のスミス研究は「日本のスミス」となっていくのです。先人の研究と同じくヨーロッパにはない日本独自のスミス研究となっていくのです。ヨーロッパの経済学史はスミスが出た後はそのスミスとどう対置し,乗り越えていくかの歴史になるのですが,すぐ次でも述べるように,スミスはいかにもスミスらしいことを言うところには継承されません。歴史はこの意外性と逆説性で作られていくのです。
4 スミスはスミスらしからぬところに継承される
スミスは非スミス的なところに再現する。これはスミスに限らず,一般に経済学史が示していることです。私の経済学史研究と講義はそのことを忘れずにやってきました。スミス後の経済学は19世紀のリカードもマルクスも,20世紀の現代資本主義論もみな,スミスを批判して出てくるが,スミスの方法や自由主義は彼とは違う歴史環境の下ではむしろその批判者のほうにこそ生きる。これは逆説です。スミスを通俗の理解のように,国家干渉からの市場的自由論者でなく,その市民社会論的な内実のところで捉えるのであれば,スミスは一見してスミスらしくないところに生きるのです。その古典的な例が先ほども言及したドイツの旧歴史学派のリストです。
19世紀のドイツは先進国のイギリスに対抗して自国で工業化を進め,これからバランスある国内市場を作らねばなりませんでした。すると政策的にはイギリスと自由貿易をするのでなく,イギリス製品との競争を避ける保護貿易が求められます。経済理論的にはスミスがやったように,すでにできている商品や価値の分析でなく,これから富を作る「生産力」の理論が求められます。その生産力も物的な機械だけでなく,「精神的資本」である社会的なインフラや私的所有権保護の法制度,道徳・気風を含めた広いものとなります。そこにドイツの国民経済が成立する。当時ドイツ・マンチェスター学派という集団があって,ドイツの農産物とイギリスの綿製品との自由貿易を主張していました。これはコスモポリタンの経済学ですが,実は,農奴に農産物を作らせるユンカーのような地主やそれを買ってイギリスに販売することで利益を得る貿易商人,要するに当時の社会の上層階級の利益を代弁する経済学でした。どちらがスミスを継承するか,明らかですね。リストが「ドイツのスミス」と称されます。
こんなふうにしてスミスの重要な要素は後の国際関係史のなかでは思いがけないところに生きるのです。もう詳しく述べる余裕はありません。私の『経済学史と対話する』(2008年)をもう一度参照してください。スミスは19世紀の初期社会主義のサン・シモにも(この点については内田の先行研究があります),ロマン主義者のシスモンディにも生きます。前者は科学と産業能力を強調する点で,後者は演繹的でない経験的方法をとって小生産者の意義を認める点で,それぞれスミス的です。さらに20世紀になって新帝国主義を批判したホブソンにも受け継がれていきます。ホブソンはスミスが重商主義植民帝国を批判する方法を受け継ぎ,経済の損得を合理的に考えるのであれば,帝国主義は損であって捨てねばならないと論じます。こんなことだってあります。ケインズはスミス的な自由資本主義を批判して管理通貨論を展開しますが,そのさいに彼が拠る金融資本対実業階級(労働者階級を含む)の経済構造論は形を変えていますが,構造論の枠組み自体はスミスのものです。
5 日本思想史のなかの「スミス」
以上の4のこともあるので,先学のスミス研究は「日本のスミス」だ,「私たちのスミス」だと言っておかしくないのです。いやそうあらねばならないと言った方がよいでしょう。そこで私はこういう逆説的な継承の仕方が日本の知性史にもあるか確かめてみたいと思うようになりました。私はヨーロッパの経済学史を講義しながら,日本の思想史に分け入っていきます。その一つの機縁になったのが,1992年から93年にかけてのイギリス遊学でした。帰国後の印象は書店も出版界も翻訳ものでいっぱいだということでした。日本は何から何まで輸入してかくまで一生懸命に学んでいる。翻訳文化の国,ニッポン。それは,しかし,他人事でなく,自分の姿の一面でもありました。
われわれは何であるのか。大化の改新や遣唐使の頃までさかのぼらなくてよい,つい最近の幕末・維新から,戦間期をへて,戦後高度成長期まででよい。ふり返ってみると,わが日本をこれまで作ってきた先人たちは,欧米と触れつつ,自分で自分の問題をたてて答えてきたことが分かります。彼らはヨーロッパの精髄と思うものを追究したり,反対に意識して日本固有のものを発掘しようとしたりと,そのやり方はいろいろであるが,私もその営みを追体験することで自分を見つめ直してみたい。私は帰国後,そう痛切に思うようになったのです。私もようやく先人がすでに問題としていたことを自分なりに考えるようになったのです。
ここでちょっと注意しておきます。「日本の思想」はそれが西洋渡来的でも日本伝来のものでも,よく見てみると,精神的に雑種の,文化的に混血の思想であって,けっして万邦無比のものでないことです。その混交性こそが日本的なものであり,東洋対西洋の対立図式は不毛です。
そこで日本の思想史に分け入っていきます。幕末・明治期の福沢諭吉,田口卯吉,平民主義者,内村鑑三,柳田国男から,戦間期のマルクス主義者,右翼革新,新資本,自然科学・技術者,芸術家をへて,戦後から高度成長期までの「市民社会青年派」を追ってみる。するとそこにスミス的なものが顔をのぞかせているのです。これは新鮮な出会いでした。例をあげます。例としては内村鑑三や「日本的」思想の代表者とされる柳田国男を,あるいは自由資本主義の批判者・石橋湛山をあげることができるのですが,それらは割愛します。ここでは田口卯吉を取りあげます。
田口は「日本のスミス」と言われます。それはどういう意味でか。彼は『日本開化小史』(1877~82年)を書いていて,文明開化は欧米のものだけでなく,日本のものでもあると主張した人。その彼は『日本開化之性質』(1885年)で次のように説いています。
①文明開化には貴族的と平民的の二つの型がある。貴族的開化は他人の労働によって贅沢を享受するもの。平民的開化は庶民が自分の労働に基づいて生産物を所有する体制。後者が文明開化にとって重要であり,それは日本では戦国時代まではあった。でもその順調な発展は江戸時代の武家による搾取や封建的独占によって邪魔される。それがなければ,庶民の腹がけと股ひきは西洋の背広とズボンに,熊さん八さんが立ち寄るイタイチは西洋のレストランになったであろう。
②明治の今はその障害を取り除いて自由取引をする時である。その場合に自由貿易は漸進的になすべきである。なぜならば,急激な自由化は独占のもとで良商知工であった者までつぶしてしまうから。
③ヨーロッパのように豊かになるためには経済発展は自然の順序をとらねばならない。田口はそのことを鉄道建設で説明します。当時,華族を中心にして日本鉄道会社が作られ,アメリカ並みに遠隔地の都市の間を蒸気鉄道で結ぶことを企画して実行に移されていました。それはいかにも近代的で文明開化にふさわしい。それを田口は批判します。交通は実勢の経済度と需要度を考慮して費用便益計算を行ない,それに見合った鉄道施設を採用すべきである。何もないところに最先端の設備を作るな。すでに働いている経済力をさらに伸ばすようにせよ。すると交通機関は木道→馬車→鉄道馬車→最先端の蒸気鉄道という順序をとって設けるべきである。また蒸気鉄道にしても駅の間を最短の距離で結ぶのでなく,江戸時代からあった宿駅に沿って建設すべきだ。あわせて鉄道の地方民営化をすすめよ。これはまさしくスミスの自由主義,スミスの経済開発論です。さて結局どうなったか。その後,保護主義と国鉄の時代となり,田口は時代から置いていかれます。
田口はヨーロッパと接触した時に舶来崇拝になることなく,西ヨーロッパ史のなりたちを知って,既存のものでこれからも伸びんとするものの強化を考えました。彼は日本にあって自分で自分の問題を立てたのです。
6 市民社会論の編成替え
以上がこれまでの市民社会論をベースにしたかぎりでの経済学史と思想史の方法および内容です。この市民社会論は今でも有効です。でもそこには欠けるものがありました。幾つかあるのですが,二つだけにします。Ⅰ――それは市民社会論でなくてというのでなく,それに徹するのであれば,政治学と協働する道が開かれることです。Ⅱ――市民社会概念はその内容を現代的なものに変えねばなりません。それは,市民社会のなかでの公共生の実現,異文化間の交通の可能性,人間と自然との物質代謝の再検討,にかかわることです。
まずⅠについて。
内田はコネや特権から自由な個人の実現を勧めます。あの大塚久雄ですが,彼の西欧経済史は単なる客観史でなく,そこには人間主体の問題がありました。近世に初期産業資本が出てきてピューリタニズムの禁欲倫理と「資本主義の精神」をもって商業資本の独占に対抗する人間が描かれます。それを対象的に示したのが局地的市場圏の成立です。さて内田にも主体の考えがあります。彼は大塚のような経済史からの近代の成立ではずるずるべったりだとして,近代の成立にはスミスの『国富論』という学問的作物が媒介となると言うのです。『国富論』は重商主義や重農主義を批判して出てきます。これは経済学史からみた「学問主体」の問題です。でもその内田でも問題はないだろうか。これが私のテーマです。私は「主体」ということにこだわりました。
内田には次のような社会思想史の背景があります。一つ。17世紀にホッブズやロックの国家形成論が出てきます。社会は理性によって国家をつくることでまとまる。それが18世紀には商業社会化が進み,次第に国家なくしても社会秩序が成立するようになる。個々人に法意識が生まれていく。スミスはその歴史の終着点であって,彼だけがそこから経済学を作ったというのです。もう一つ。これは高島の議論を受け継いで深められたものです。スミスの経済学は初めから経済的な議論をするところから生まれたのでない。それは道徳哲学の体系から生まれた。とくにスミスは「共感」の方法原理で正義の法が市民社会から成立することを追った。実定法をいくら研究しても人間や社会のことは分からない。庶民のなかに分け入って人はどのように交通しているかを研究しなければならない。自然法の探求である。スミスがしたことはその自然法を発見することであって,それ以上でもそれ以下でもない。これを経済学史のなかに置けば,スミスの「自然的自由のシステム」はスチュアートの国家的英知やケネー的なデスポティスム・レガールと対置され,とくにヒューム的な功利主義と対置されます。
私は以上の社会思想史の方法に足りないものを感じるようになりました。この社会思想史を横に倒してみる(大塚久雄の方法)。するとスミスの自律的な市民社会は彼以前のものとされた思想家の国家論と並び,両者の関係が問題になります。もちろんその国家はホッブズらのものとは違います。けれども,国家はスミスにないものであろうか。市民社会における正義のルールは経験的に作られている。とすると,スミスには社会のなかで封建的なものや重商主義の政策に対抗する限りでの経済的で法的な主体はあるが,「政治的主体」は見当たりません。高島的に国家は市民社会に吸収されたままです。
付言しておきますが,内田スミスに国家がないとは言えません。スミスはアナーキストでありませんから,彼にも国家はあります。それは自然法的国家です。ただその働きは重商主義の煩瑣な政策の遂行でなく,防衛・司法・社会事業の3つだけであり,その国家事業をまかなうだけの租税国家です。その国家の働きも意識的に作るのでなく,これまでの歴史がすでに用意してきているものです。ですからスミスの市民社会も国家も歴史的に成立してきているのであって,それ以上の人為は必要でなくなります。
それでよいか。スミスの「自然的自由」はさまざまな障害や危機があったにもかかわらず,たくましく育ってきた。彼の市民社会も自然法国家も「自己実現」する。それはイギリスを他の国や地域と比較した一大特徴です。では自由主義にむけての歴史はそれだけですむか。最低限,封建的な土地所有や同業組合の残りものや重商主義の政策や法律を破棄する政治行為が必要になるはずです。市民社会の自然史の歩みを助ける、あるいは補完する政治行為が必要になるはずです。実際,スミスは立法者や政治家の役割に言及しているのです。それだけでなく、国民が市民社会の経済構造を知って,それを実現する方策を審議するだけの能力があるか,それを診断しているのです。こういうスミスを浮かびあがらせることは社会思想史の流れを逆転させることになるでしょうか。スミスをスチュアートやケネーに戻すことになるでしょうか。そうではないですね。反対に市民社会史と連携するということが分かるでしょう。そしてこういうスミスの側面を出すことは,歴史を自然に成り行くと見がちなわれわれ日本人の考えに杭を打つことになるでしょう。
そこでこうなります。――スミスは今は重商主義の規制から「自然的自由」のシステムに移行する時と見た。システムを転換するには現行の法制度を変えねばならない。その変革を有効にするためには現行制度を成立させている構造を知らねばならない。そこには,①富=貿易差額黒字と主張する学者がいる。②外国貿易の既存利害を守ろうとする集団の圧力がある。③富=お金と考える一般人の常識がある。④隣国に負けるなという国民のナショナリズムがある。現存の制度はこういうものが絡みあってできている。これを知らないと有効な政策(実践)は出てこない。ところが従来の市民社会論からは公共的な主体は出てこない。社会はそれ自体で倫理的に経済的に秩序を作るだけになっている。しかもその社会には問題が残っている。市民社会を構成している実際の諸階級は公共の審議にどう参加し,参加しないでいるか。労働者であれば企業内の分業に縛られていて知性・社会交際・公共審議の能力を獲得できないでいる。資本家は自分の利害はよく知っていても公共をだますことにたけている。地主は政治を実際に担当しているが,重商主義階級のやり方をまねして穀物法が自分の利益だと勘違いしている。以上の点で人びとの政治能力は貧しい。その政治能力をつける前提としては現状を客観的に知っておかねばならない。それはスミスの『国富論で』で示されている。分業,価値,価格,資本蓄積と所得,資本分類,生産的労働と不生産的労働,個別的・社会的再生産,資本投下の自然的順序。これらは私の経済学史の講義で説明しました。この理論を国民の各階級は理解しているか。彼は悲観的でした。そこでスミスは「国家の英知」を求めざるをえなくなるのです。
国家的英知を議論する前にそもそもの国家を理由づける議論が必要になります。スミスは社会契約論者ではありませんが,国家を成立させる論理は彼なりにあるのです。彼は「シヴィル・インスティテューション」(公共制度)の設立の前に或る事態を設定します。それは市民社会における正義の規則の成立であり,それを破った者を処罰する権利が一人々々にあるということです。でもその権利の執行は自分に甘くなりがちです。市民は完全には公平になれないのです。そこで為政者が「正義の規則の力」・「コモンウェルスの力」を利用して皆に公平に正義を執行することになります。これは委任にもとづく統治です。そんな委任をいつ誰がしたかは問われません。現実の為政者は地主貴族ですが,彼らはそのように委任されたとみなされるのです。これは擬制です。これで分かるように,スミスは当時生まれつつあった民主主義の要求を受け入れていません。当時,「ウィルクスと自由」運動のように議会の構成を民主的にする運動が始まりました。「イギリスにおけるフランス革命」(H.バターフィールド)です。19世紀の議会改革運動の先駆けです。それと比べれば,スミスの議論は現実の政治家を啓蒙するものであって,政体の変更を主張するものではありません。
ではスミスはスチュアート的に為政者の公共心と民衆の利己心とを分断させるのか? 両者をつなぐ議論はないのか。またスミスは自由貿易を主張することでは急進的であったが,政治的には保守的だ(小林昇)ということか? 18世紀の労働者大衆が政治能力を得ていくのは,世紀末の木綿工場労働者の場合からです。それもまだ例外的でした。19世紀の半ばのJ. S. ミルのころになって,労働者は公共の審議に参加できるようになっていきます。スミスはそれを認識することはなかったが,公教育の必要を認めました。教育はやがて労働者に党派的利害を見抜く知力を得させ,政治的自律を得させていくでしょう。
ここで社会全体の幸福を考える政治家が必要になります。社会全体の幸福とは何か。それは『国富論』が示している国民経済の実現です。それも自分の理想を国民に押しつける「システムの人」でなく,利害関係者がついてくることができるまでに妥協し調整する立法者が求められます。スミスはそのモデルを古典ギリシャの民主政治家・ソロンに求めました。ソロンのような政治家はどうやって体制変革を行うか。重商主義の保護=独占貿易を破棄して自由貿易に変えねばならない。でも自由化は急激でなく漸進的に実施されねばならない。なぜならば,自由化は資本家の既設の固定資本や労働者の雇用と生計に大きな影響を与えるから,既存の利害や人道に配慮しなければならない。これはずいぶん慎重な姿勢であって,原理主義的ではありません。現実は均衡価格論の市場理論通りには進まないのです。資本財と労働力の配分には特有の問題があるのです。こうしてスミスには市民社会論と横に連携する政治論があるのです。私は以前の本『社会形成と諸国民の富』(1991年)で国家は市民社会の上に置かれるような図を書きましたが,これは正確ではありません。
ここで内田スミス研究と丸山真男の政治学との対話が可能になると思うのです。丸山は内田の『生誕』が出た時,これで自分の専門の政治思想史と内田の経済学史との間に共通の土俵ができて議論することができると喜びました。この丸山は近代を自分のものとするために,なんと近代以前の江戸時代の儒学にさかのぼって,それの自己展開のなかに近代的自我を探っていった人です。近代といえば,せいぜい明治以降のこと,儒学なんて封建的な学問と思われていた時にあってです。しかも視点はいかにも近代的な表象のところでなく,内面の「思惟様式」の構造に置かれました。その思想の構造が江戸初期の林羅山から中期の荻生徂徠になっていくと,「自然」から「作為」へと次第に量的に多くなっていく。徂徠になって,特定人格による政治的決断が成立する。こういう思想史なので,丸山は契約論を重視します。権力を作る論理やその技術を重視します。社会に経済的な法則ありとするよりも政治的人格の検出に努めます。こういう政治学からすれば,内田のような市民社会論のままでは十分には満足できなかったと思われます。内田の市民社会論はそれを実現しようとすれば,私が展開したように,丸山的な政治論に橋を架ける必要があります。これは内田か,丸山か,ではない。他を媒介として自己を高める,そういうことです。他者を自分に関わらせることに身を固くするようでは,F.ベーコンが知識の敵とした「イドラ」に囚われてしまいます。社会思想史のための思想史や経済学成立史のための成立史では,ダイナミックな対象理解になりません。
この丸山との関連で,福田歓一や加藤節のように「シヴィル・ソサエティ」の訳語を「市民社会」とする経済学史研究に対して行なった批判に対しても答えることができるのですが,ここではもう展開しません。
次にⅡについて。
近代市民社会の議論は経済や法に関するものでした。それに対して,同じ「市民」の言葉を使って,経済・法とは異なる領域である生活や地域・環境における主体を言い表すようになりました。それは1960年代後半から70・80年代にかけてのことです。住民が自分たちの生活と地域を守るための運動が市民運動・社会運動としてうねっていきます。内田の近代的市民よりもっと民衆的なレベルで集団が自発的につくられていきます。自分で情報を得て自分で判断する「諸個人」が生まれ,そういう人たちの間で「連帯」ができていきます。この意味での新たな「市民社会」が眼に見え,手に触れられるようにしてできていく。それまでの政治運動・社会運動の中心は政党や労働組合,学生,知識人でしたが,市民はそれらの指導から一線を画します。反対にそれらを巻き込み,自治体や政府に政策提言をするまでに力をつけていきました。
この市民・住民運動の積み重ねがあって,20世紀末になってようやくNPO法ができました。現在は法律や政策によって民間の自発的な集団作りが援助されています。NPOは政府・自治体や企業と協働して問題を解決すること(彼らの言う「市民社会形成」)が制度で保障されるようになりました。もちろん,問題はあります。それまで運動であったものが受益者のための「事業」になることによって,持続性と責任が問われるようになります。すると初期の,いい加減なところもあったが,自発的で旺盛であった精神が薄れることがあります。またどの団体も自分の個別の事業をすることに精一杯であって,他と横につながる余裕が少なくなります。さらに住民から審査される対象になっていきます。「市民」概念がここでも変わりつつあります。
私は実際に1970年代以降これまでに幾つかの住民運動を知ってきました。三つあって,小樽運河保存運動,有機農業運動,同和推進活動です。いま改めて気づくのですが,どれもいわゆる近代化から外されてきた問題をとりあげています。
小樽運河は倉庫群と港をつなぐ水路であり,戦前はナホトカとの交易で栄えていたのですが,敗戦後はさびれる一方で,私が1976年に小樽商科大学に赴任した時にはほとんど使われていませんでした。夏にはメタンガスが発生して臭かったです。市と地元の経済界は数年前からその運河をつぶして片側3車線の大道路を作り,町を活性化しようとしていました。それに対して若者を中心に運河と倉庫群は歴史的な遺産であり,それを全面保存する方向で町づくりをしようという運動が起きていました。欧米の先進国ではウォーターフロントが再生されつつありました。会長は峰山富美さんという主婦の人で,大学に足を運んで学生に向かって一緒に運動してくださいと働きかけていました。私が知っているある教授は,「あれはただの街のおばちゃんだよ」と言っていました。そうです。住民運動はみな,「ただの人」から始まったのです。それも最初は一人から。町の経済界は「文化で飯が食えるか」という態度でした。それが今はどうです? 運河は結局3分の1残され,周辺の倉庫はすべて再利用されて,毎年観光客で大変なにぎわいではありませんか。不完全な残され方であり,観光汚染もあるので,これでよかったとは言えませんが,あの時の保存運動があったからこその今日です。小樽の経済人は先を見る眼がなかったのです。
私は1982年に千葉大に移ってから有機農業運動と同和問題を知ることになります。
有機農業運動はすでに70年代に始まり,あの食品公害のなかで反近代の旗を掲げていました。ですから,異端児扱い,馬鹿扱いです。あの糞尿まみれの堆肥づくりや夏の草取りの苦役に戻るのか,と。私は山形県高畠町の「有機農業研究会」(初代会長・星寛治)の若者集団に会い,そのエネルギーに刺激を受けました。その運動は始めてから10年たっていて,組織は「提携センター」に変わっていましたが,学生とともに農家に受け入れていただき,農作業を手伝いながら,いろいろ聞き取りをするようになりました。高畠町には首都圏の大学が幾つか入っており,私たちは統計的な調査をするよりも身体を動かして感覚的に有機農業を感じることに特化していきました。私自身が身体を動かして作業や労働対象に埋まることが好きなので,学生の先頭に立って田や畑に入っていきました。ヒエの草取り,スイカのへた取り,稲刈り,くい打ち,リンゴの袋はがし,ブドウ園のビニール剥がし,……と,まだまだあります。そして仕事が終わった後の野菜一杯のおいしい昼ごはんをいただいて,風通しのよい畳の上で昼寝をする,その気持よいこと! でもだんだん私の身体が敏捷でなくなり,農家の人から「無理をしないでください」と言われるようになりました。こうやってきて,私は有機農業に対する誤解や一知半解を正すことができるようになりました。
有機農業は化学肥料や農薬を使わない農業だという定義は有機農業の本体を誤って理解するものです。堆肥は作物の栄養になるのではありませんよ。有機農業は自然を科学的に知って作物を作るエコロジー的農業であること,合理性や経済性をももった経営であること,「主婦」は食べ物の安全を求めるだけでなく,家事労働に徹することで(――ここで女性を差別しているなどというのは場違いです)家族の消費様式を変え,家庭内から出て生産者と提携関係を作るようになるということ。とくに最後のことは都市消費者が農村生産者に対する明治以来の支配関係と市場関係を人間的協働関係に変えたものです。これによって私は作物の商品化がマルクスの言う「商品物神」となることの意味を分かるようになったのです。現在はやっとのことで有機農業推進法ができ,政府と自治体行政が推進施策の責務を負わされています。一般に日本では他国と違って,住民の運動が先行し,その後を政策が追いかけてきましたが,有機農業の場合もそうでした。
「部落」差別は日本の人権問題のもっとも深部にあるものです。それはいわゆる近代化・都市化とともに単純に消えるものでありません。部落差別は子供のころから聞いて知っていました。名古屋大学に在学していた時には騒然とした雰囲気になります。差別された人が差別する人に対して行なった糾弾闘争,行政の責任を問う声,部落差別を解決するめの運動団体間の争い,等。私は千葉大学に移籍してから千葉県の同和行政にかかわるようになります。同和問題協議会の委員として。それに対してあまり関わらないほうがいいと忠告する友人がいました。そのころには同和問題は物質的な改善はかなり進み,心理的な啓発のほうに重心が移り,周りの住民との街づくりも進められていました。ある委員から同和問題に熱心に取り組むと,あいつも部落だと言われると聞きました。これには笑えてしまいますね。部落とされた人と差別の側に立つ人との間での対話の可能性を考えた藤田敬一『同和はこわい考』(1981年)には眼を開かれました。
ある会で農業高校の教師が言ったことが印象に残っています。特別な同和教育をしなくても,一般の教育がちゃんとなされておれば,差別の解消に向かっていくことはできる,と。私は本当にそうだなと思いました。わが国の学校教育では科学や実験を教えます。思いこみや偏見をなくして自分の眼で見たものに頼ることを教えます。オタマジャクシがカエルの子であることは実験してみれば分かります。差別する人はたいてい,差別される側にいる人と実際に会って話をしたこともないのに,親や周りの者からの風聞で差別してしまうのです。超有名な私立大学の学生で,ひどい差別はがきを出す人がいました。いやになるくらい長く教育を受けてきても,こんな非科学的な人間になってしまう。教育っていったい何なのか,考えてしまいます。……私自身は10年ほど委員をして退任しました。幸いもっと実際に詳しい専門家がいたので,その人に代わってもらいました。私は日頃は審議会が役人の作文に乗っかることを批判していたのに,自分では具体的で有効な人権啓発の施策を答申することができなかったからです。恥ずかしいことでした。
以上,どの運動の担い手もそれまでの近代市民社会論では消極的にしか評価されてこなかった主婦や中小の熟練生産者・先祖意識をもった農業者・被差別部落の人々です。そこから自律的諸個人の連合が生まれているのです。どれもみなたくましい。王様は裸だと言える眼をもっています。そして,心やさしい。日本にはこういう人たちがあちこちにいるのです。それらの運動に今後の日本社会の一つの未来があると思うんです。
しかし,こういうことを見逃してはなりません。近代市民社会は市民的権利の上に豊かさを求めたのですが,それは過去のことでなく,再び今のこととクローズアップされてきた感じがします。絶対的貧困の問題です。社会的弱者の問題です。それは前世紀の80年代半ばあたりから始まり,失われた10年・20年の間に眼につくようになった現象です。
以上のような今の日本の問題,それを専門の経済学史や思想史のなかに組み入れることができるか,それが私の課題となります。
これで私の講義を終えます。長いこと講義をしてきましたが,それは楽しくも,しかし,苦しいものでした。その講義をここで終えます。
初出:千葉大学経済研究第25巻第3号 野沢敏治先生退職記念号(2010年12月)より、執筆者と掲載誌『千葉大学経済研究』(千葉大学経済学会)の承諾を得て転載しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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